第32 古文書と対馬歴史民俗資料館…歴史の島・対馬L

 対馬の歴史の特異な点の一つは、中世から近世にいたる700年近い歴史の中で、支配者の交代が

見られなかったという点にあります。全国的にみれば、700年余り続いた封建時代、各地の支配者は

鎌倉時代の守護・地頭、室町時代には守護大名、さらに戦国大名、そして江戸時代の近世大名と

変わっていきますが、対馬においては一貫して宗氏の支配が続いてきました。


 そのため島内の各集落においても、代々おなじ家系が有力者として続いてきました。そこで、中世のころ

島主からいただいた御判物、つまりお墨付きは江戸時代にあっても、その家柄を証明する有力な証拠でした

から、
各家々では代々伝わるこのような書付を大切に保管してきました。このような事情から、対馬には

中世のころの古文書が桁はずれに多く残されています。
近世にいたっても同じことで、島内に残る古文書

まで合わせるとその数は計り知れず、今でもその実態は明らかではありません。


 一方、昭和53年に生まれた厳原の対馬歴史民俗資料館には、藩政時代の宗家の莫大な数の記録文書が

収納されています。これらは、かつて朝鮮との外交を家役とした大名、宗氏にふさわしい質と量をもった

古文書群です。近世史とりわけ朝鮮外交史などをテーマとする研究者にとっては、文字通り宝の山とも

なっています。対馬はまた、古文書の島でもあるのです。




第31週 対馬縦貫道路の完成…歴史の島・対馬K

 対馬の各集落を結ぶ道路は、国を挙げて日本の近代化が始まった明治以降も、魏志倭人伝に言う

「土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し」といった状況に大きな変化はありませんでした。

対馬の開発は遅々として進まず、対馬島民の悲願は長らく島の南北を結ぶ縦貫道路の実現にありま

した。明治40年には、対馬の政財界あげての運動が起こり、最初の国による縦貫道建設の請願が、

その後も大正、昭和と何回となく縦貫道建設の請願がなされています。しかし、遠隔の貧しい離島の

請願はなかなか国の理解が得られず、現代にいたるまでついに日の目を見ることはありませんでした。


 ようやくその縦貫道路が実現したのは、日本経済が驚異の高度経済成長をとげた1960年代に入って

からです。極言すれば対馬の本当の近代化は、昭和43年、対馬の行財政の中心地厳原と北端の比田勝

を結ぶこの対馬縦貫道路が完成したことによって始まるといっても過言ではありません。これ以降、島内の

交通事情は一変、遅ればせながら対馬もようやく本格的な自動車交通の時代に入ります。こうしてそれま

で浦々に孤立していた各集落が道路で結ばれるようになると、島民の生活様式も大きく変容を遂げるよう

になりました。


 なおこの縦貫道路は、対馬から佐賀県呼子まで海路を繋いで2県をまたがるという奇策によって、

昭和50年4月、生まれた国道382号線の一部となりました。くわしくは比田勝港を起点に島内を縦断して

厳原港まで南下し、海路を経て壱岐を結び、再び海路を経て佐賀県呼子に繋ぎ唐津まで至ります。

また島内は、はじめ厳原・比田勝間を約100キロで結びましたが、その後改良が進み、現在、同区間を

約90キロに短縮しました。文字通り対馬の大動脈の役割を担っているのがこの国道382号線です。



第30週 町村合併…歴史の島・対馬J

 太平洋戦争が終ると、要塞地帯としてのくびきが外されましたが、対馬の開発は遅々として進みませんで

した。その対馬開発の切り札として推進されたのが島内の町村合併でした。明治41年の町村制施行以来、

対馬の基本的な行政単位となっていた一町12村の行政区画が、昭和30年、31年に一挙に6町村に

統合されたのです。


 上のほうから豊崎村と琴村が合併して上対馬町に、佐須奈村と仁田村が合併して上県町に、仁位村と

奴加岳村が合併して豊玉村に、竹敷村、船越村、?知村が合併して美津島町に、厳原町と佐須村、久田村、

豆酘村が合併して厳原町に、それに合併がなかった峰村を合わせた6町村で、その後豊玉と峰は町制が

施行されたので,現在は6町となっています。


 平成12年、全国的に推進されている新たな町村合併の動きの中で、対馬の6町が合併して1市をめざす

動きが現実のものとなってきました。平成13年の今年、精力的に協議が続けられていますが、最大の難関は、

合併後の中央庁舎のをどこに置くかということです。協議会の原案は対馬の中心としての歴史を持つ厳原で

提案されていますが、中央庁舎に遠くなる上方面の町が難色を示しています。

この難関がクリアできれば、一挙に進展するものと考えられています。その帰趨はまだ定まりませんが

町村合併自体は避けられない状況です。




第29週 珠丸の遭難事件…歴史の島・対馬I

 ようやく太平洋戦争が終結したばかりの昭和20年10月14日、博多に向けて対馬を出航した貨客船珠丸が、

壱岐勝本沖で触雷、沈没するという事件が起こりました。当時、対馬には朝鮮半島から引き上げ、祖国を

めざす多くの引揚者がいつ出るとも知れぬ博多便の船を待っていました。


 この日、ようやく出航した珠丸には大陸から引き上げる復員兵や引揚者など千人を超えるともいわれる乗客

が乗り組んでいました。さらに乗船名簿に記載されないまま乗り込んだ人々も大勢居たとされ、正確な犠牲者

の数は今もわかっていません。


 終戦直後の混乱期のこととて、この事件はマスコミにもあまり大きく取り上げられませんでした。かろうじて

一命を取り留めた人々にはわずかに毛布などの支給が行われた程度でしかなかったようです。この悲しい

記憶を風化させまいと、厳原の対馬歴史民俗博物館横に、珠丸遭難の慰霊碑が建立され、今も10月14日

には、遺族や関係者によって供養の慰霊が行われています。





第28週 日本海海戦と万関瀬戸 …国境の島・対馬H

 対馬を代表する観光地として最も有名なのは、万関橋でしょうか。日露戦争の前夜の1902年、想定

されるロシアのバルチック艦隊の北上にそなえ、竹敷軍港から艦艇が朝鮮海峡へも対馬海峡へも

出撃されるように万関地峡を掘り切り
東水道に抜ける水路を確保しました。こうして生まれた万関瀬戸

によって切り離された対馬の上島と下島を結んだのがこの万関橋というわけです。,


 1905年5月27日、この瀬戸を通って出撃した水雷艇を含む連合艦隊は、対馬の東方海上でバルチック

艦隊を捕捉、殲滅し日露戦争の帰趨を定める戦いとなりました。世に言う日本海海戦です。
久須保川から万関橋をのぞむ

 なお、このとき沈んだ露艦ナヒモフ号に積まれていたと

される金塊探しが昭和40年代に話題となり、実際に民間

のサルベージ会社が探索しましたが、大した収穫はなかっ

たようです。このとき引き上げられたナヒモフ号の大砲が

今も、上対馬の茂木浜に置かれています。






第27週 対馬の尊王攘夷運動と勝井騒動 …歴史の島・対馬H

 維新前夜、露艦来航事件でゆれる対馬藩は、雨森芳洲以来藩内に強かった尊王主義に加え、

時の藩主宗義章の夫人が長州藩の出であったことから、文久2年(1862)長州藩との間に対長

同盟が結ばれるなど、尊王攘夷運動が大きな高まりを見せていました。


 ところが、年来の財政逼迫を幕府の援助で乗り切ろうとしていた藩の重臣たちの一部はこうした

動きに大きな不安を募らせていました。中でも当時、肥前田代にいた重臣の勝井五八郎は、藩が

倒幕に突き進むことを恐れ、元治元年(1864)手勢を引き連れて対馬に上陸、尊攘派を中心とす

る反対派の粛清を断行しました。これが甲子事変、いわゆる勝井騒動です。


事件自体は、藩内の権力闘争という側面が強かったのですが、この事件の犠牲者は二百数十人に

及び、ために藩は多くの有能の士を失うことになります。そして、尊王攘夷運動は壊滅、維新前後の

激動期に対馬が大きく立ち遅れる原因になったといわれています。




第26週 露艦来航事件…国境の島・対馬G 

 明治維新前夜の文久元年、対馬の浅海湾にロシアの軍艦ポサシニカ号がやってきました。故障を修理する

ためとして、芋崎沖に停泊した同艦から、上陸した乗組員は芋崎に上陸、小屋を建て井戸を掘り長期に滞在

する動きに出ました。驚いた対馬藩は、立ち退きを要求するともに、幕府に急報しました。しかし露艦の艦長

は対馬を列強の植民地化を阻止するためと唱えるなど藩の要求に従おうとはしませんでした。


 その上、露艦乗組員は当時勝手な通行を禁じられていた大船越瀬戸を通過しようとしてこれを阻止しようと

する地元民と衝突。松村安五郎という小者が殺され、その責任を感じた瀬戸の役人吉野数之助が自殺に

追いやられるという事件にまで発展しました。しかし対馬藩はもとより、幕府にもこの事態に対応する力はあり

ませんでした。事件は、ロシアの日本進出を望まないイギリスの強力な抗議の前に、ついに露艦は対馬を

あきらめざるを得ませんでした。
 

 当時は、アジア進出を狙う欧米列強にとって、日本の植民地化は大きなねらいでしたが、互いの抜け駆け

を警戒する列強の動きが、図らずも三すくみの状態となってあやうく、植民地化を免れている状況であったの

です。





第25週 陶山訥庵…歴史の島・対馬G

 対馬では、江戸時代の雨森芳洲とほぼ同時代の人物、陶山訥庵ほど有名な人物はいません。このころ既に

朝鮮貿易は下り坂で、藩では新田開発などによる生産性向上に苦心していました。彼は、農村の疲弊の大き
陶山訥庵
な原因の一つが、島内に生息する8万頭を越えるいのししの害に

あると考えました。時あたかも徳川綱吉の生類憐れみの令が猛威

を振るっている時代でしたが、
1699年、彼は郡奉行になると藩内

の反対論を説き伏せ、猪追詰と称して
島の北端から徹底した

いのしし退治を断行しました。

 北から始めて対馬の南端の豆酘にいたる9年間に退治した猪は

8万頭にも達したといいます。今も佐護の恵古の地に残る「曠古

遺愛の碑」は、猪の害から農民を解放した陶山訥庵の偉業を

たたえて、佐護の農民たちが1723年に建立したのもです。

 こうして、この訥庵のいのしし退治によって、対馬にはイノシシはいなくなりました。

ところが、現代になって再び対馬の山野にいのししが出没するようになりました。一説には、養豚業者が

飼っていたいのししが檻を破って逃げ出したものだとか、対馬に鹿以外の大型の狩猟獣が欲しいと言う

ハンターたちの需要の中で意図的に放されたものだとか言われますが、既に千の単位で数えるほど

繁殖しているとされ、田畑のイノシシ被害が現実のものとなっています。

泉下の陶山訥庵は、この事態を何とおもっていることでしょうか。
 





第24週 雨森芳洲…歴史の島・対馬F  

 江戸時代、対馬藩の全盛期となった天龍院時代、宗義真の求めに応じて対馬にやってきた儒学者が、

雨森芳洲です。1990年来日した韓国の盧泰愚大統領が、レセプションのあいさつの中でこの江戸時代

に活躍した対馬藩の儒学者雨森芳洲の言葉を引いて新たな日韓関係の樹立を築こうと呼びかけ、

一躍、注目された人物です。
 

 もともと彼は、近江の国の出身で木下門下に学び、新井白石と同門で木門の俊秀と言われた人物

です。対馬では朝鮮修好の外交文書を取り扱う職にあたりました。そして藩の外交に携わるためと

学んだ朝鮮語は、ついには『交隣須知』という日朝辞典まで編纂したほどの語学力でした。ちなみに

『交隣須知』は、明治時代の日本の朝鮮進出の際、大いに役立ったといわれます。また、彼は藩の

子弟の文教にも力を尽くし、その学風は対馬藩の教育に受け継がれていきました。


 しかし、学ぶべきは彼の外交に対する基本的な姿勢でしょう。同じく彼が著した『交隣提醒』
の中で、

外交は「誠信の交わり」こそが一番大事であるといっています。お互いに誠実に信頼関係の中で交わ

るという姿勢を来日した盧泰愚大統領は、伝えたかったのでしょう。





第23週 万松院 …歴史の島・対馬E  

 対馬を代表する観光地の一つに万松院があげられます。秀吉の時代、対馬藩にとってきわめて多難な

時代を生きた宗義智の子義成は、朝鮮出陣で消耗した藩の建て直しと朝鮮との交流の安定化を図りま

した。その彼が亡き父の冥福を祈って建てた寺が万松院です。義智の法名がそのまま寺号となったのが

万松院のおこりです。

万松院 万松院はその後の宗義真の時代にかけて次第に整備

され現在の姿になりました。境内にうっそうと繁った松の

巨木に囲まれる幽玄のたたずまいををみせる墓地は、

金沢の前田藩の墓地、萩の毛利藩の墓地と並んで、日本

三大墓所の一つとされます。


 また、万松院には、19世紀初頭の文化8年、朝鮮通信使

の来日による経費節減のため、通信使が江戸まで上らず対馬で迎えるいわゆる易地招聘が行われた際、

通信使接応のため備えられた歴代将軍の位牌が、朝鮮通信使がもたらした三具足とともに、今も堂内に

祀られています。






第22週 倭  館ーもう一つの出島ー  …国境の島・対馬F  

 江戸時代の徳川幕府による鎖国政策はよく知られていますが、その鎖国下にあって対馬は朝鮮との外交

交渉役を任ぜられ、藩として常時朝鮮と交易していたことはあまり知られていません。朝鮮との外交は宗氏の

家役とされ、その外交交渉の窓口となったのが、釜山の草梁に置かれた倭館でした。その倭館には常時

数百人の対馬人が滞在し、外交交渉のみならず、日本国内で需要のある木綿や朝鮮人参などを仕入れ、

代わりに対馬藩が調達した琉球の物品や国内に豊かであった銀で支払う貿易が行われていました。

倭館は、言わば、もう一つの出島であったのです。

 そしてこの貿易の利益が、宗氏十万石の根拠でもあったのです。本来対馬藩の生産力は米に換算して

せいぜい1万数千石、朝鮮出兵の功労で与えられた肥前田代の領地を合わせても3万石程度だったと

いわれますから、朝鮮交易は文字通り対馬の命綱でありました。


 ところでこの倭館の位置は、釜山市の西より、現在、龍頭山公園がある一帯にあったといわれています。

その広さは長崎の出島のおよそ25倍の規模を誇りました。しかし長崎出島のオランダ人がそうであったよう

に、壬申の倭乱(文禄・慶長の役)に懲りた朝鮮は倭館に住む日本人に一歩も倭館の外に出ることは許しま

せんでした。






第21週 朝鮮通信使 …国境の島・対馬E 

 秀吉による二度の朝鮮出兵によって、日本と対朝鮮との関係は断絶状態となりましたが、新たに起こった徳川

政権下、家康は、国交回復の交渉を宗氏に命じます。それでなくても
何としても貿易再開を果たしたい宗氏は、

精力的に動きます。戦時に日本につれてこられていた朝鮮人を保護して朝鮮に送るなどして、関係再開に奔走

しました。


 はじめは警戒し、かたくなに拒んでいた朝鮮も、関係改善を拒むことにる倭寇の再燃のおそれ、さらに日本の

情報収集の必要を考え、ようやく、国交再開を受け入れることになります。
朝鮮通信使絵巻(対馬歴史民俗資料館蔵)

 この間、日本側の幕府と朝鮮政府との国交再開に

際する原則論の対立で交渉が行き詰まると、幕府が

送る国書では朝鮮は受け入れがたしとみるや密か

に国書を改ざんするといったことまで行い、ようやく

国交回復に漕ぎ着けました。こうして、結ばれたのが

慶長条約で、国交再開に際して朝鮮側は使節を

日本に派遣しましたが、その際日本の情報収集も

その重要な任務だったようです。
これが以後、朝鮮は徳川将軍の代替わりにこれを祝して通信使を派遣するよう

になる朝鮮通信使の始まりです。


 一方、その答礼となる幕府からの朝鮮への使節派遣は、朝鮮側の拒否により行われませんでした。使節受け

入れで朝鮮国内の事情が日本側に知られることを恐れたことによるものだと思われます。


(ついでながら、「通信使」というハンドルネームはここからとっています。)




第20週 文禄・慶長の役 …国境の島・対馬D 

 宗氏は戦国時代の末期には、朝鮮貿易を独占的に支配するようになっていました。倭寇を排し秩序ある対外

関係を望む朝鮮も、半島南岸に三つの港を開いて、宗氏との交易を認めていました。こうしてしばらく平和的な

関係が続きましたが、この関係を大混乱に陥れたのが、近世初頭の秀吉による1592年の文禄の役、1598年の

慶長の役
の両度におよぶ朝鮮出兵でした。


 宗氏にとって朝鮮貿易の存続は死活問題でしたから、時の島主宗義智は戦争回避に努めました。しかし、

前線基地となった清水山城の本丸の石垣辺境の1大名の力の及ぶところではなく、朝鮮半島の事情に詳しい

宗氏は
かえって積極的な戦争協力の下知を受けることになります。

 こうして、両度の出兵に際して宗氏は日本軍の先導役を勤め、

小西行長とともに半島奥深く攻め込むことになりました。

兵士の動員、諸大名の求めに応じて提供する朝鮮語の通訳、そし

てたくさんの軍勢が対馬を経由して朝鮮に渡るたくさんの軍勢の

駐屯。島はあげて朝鮮出兵の混乱に巻き込まれるなど、この不毛の戦は、後々まで対馬を苦しめたのです。





 第19週 中世の82浦 …歴史の島・対馬D 

 15世紀後半、朝鮮国王の成宗の命を受けて来日した申叔舟が編纂した『海東諸国記』は、3世紀の魏志

倭人伝と並んで対馬にとっては重要な文献です。倭寇の事情をつぶさに視察する命を帯びた彼の観察は

するどく、当時の対馬や壱岐はもとより、九州、日本本土、琉球についてくわしく記録しています。


 それによると、当時対馬には人々が活動する拠点となる浦と集落が82箇所記載され、中世の対馬は8郷

82浦からなっていたことがわかりまさす。8郷は、北から豊崎・伊奈・佐護・三根・仁位・与良・佐須・豆酘の

8つですが、これは明治時代新しい行政区画が生まれるまで続きました。


 また、記載された82浦をみると、浅海湾内の浦々の規模の大きさがが特に注目を引きます。当時、倭寇の

根拠地として多くの人々が住んでいたのでしょう。なお、記された地名は例えば、横浦は「要古浦」、田浦は

「多浦」となっています。同行する現地人に浦の名は尋ねますが、どんな字を宛てるかは聞きません。勝手

に聞いた音の通りに漢字を当てたのでしょう。





第18週 宗氏の対馬一円支配 …歴史の島・対馬C

 朝鮮・中国沿岸に猛威を振るった倭寇は、15世紀の半ばにはようやく衰えてきます。16世紀の倭寇はむしろ

中国国内の漁民が倭寇と称して東アジア諸国を荒らしまわる例も多かったとされます。日本の倭寇が沈静化す

る直接の原因は、室町幕府の国内支配が安定し、幕府が秩序ある対中国貿易を望み、倭寇取締りを図ったこ

とが大きかったようです。


 一方、対馬の一円支配を目指していた宗氏にとっても、対朝鮮の関係を秩序あるものとし、朝鮮貿易の利権を

一手に支配することは島内の実効的支配に欠かせません。宗氏は島内に分布する庶流の宗姓使用を禁じる

一方、有力家臣たちに与える領地と同じぐらいの意味を持つ、朝鮮貿易にともなう船や人の売り口買い口の

権益を与えるなどして島内支配を固めていきました。


 なお、まだ十分島内支配を固めきらないこの時代、宗氏の対馬支配の拠点となったのは朝鮮との交流に便利

な志多賀そして佐賀でした。ここに、宗氏6、7、8の三代の館が置かれました。同地にある円通寺には、県指定

の文化財となっている朝鮮鐘がありますが、往時を偲ばせる一例です。






 
第17週 倭  寇 …国境の島・対馬C 

 14世紀から16世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸沿岸を荒らしまわった海賊の集団は、主に日本の漁民

や野武士の集団でしたので当地では倭寇と呼ばれて恐れられました。隣国の高麗は、度々室町幕府に倭寇

取り締まりを求めてきましたが、国書には3島の倭寇とあります。3島とは、対馬・壱岐・五島あるいは平戸かと

考えられます。いづれにしても対馬島民の中にもこれらの集団の一部をなしていたものがいたのは確かです。


和すれば商し、和せざれば寇すと言われた彼らの

行為は、略奪・放火・人さらいと熾烈を極め、高麗

が滅亡を早めたのもこのためだといわれます。

次に起こった李氏朝鮮は、倭寇をしずめるためそ

の根拠地である対馬に攻め込んだり、対馬の海賊

の棟梁に朝鮮の官職を与えるなどの懐柔策を

とったりして、その対策に苦慮しました。


 倭寇の時代は行為はともかく、対馬人が進んで島を離れて国際社会に目を見開き、さかんに活動した時代で

あったことも確かでした。




第16週 元  寇
  …国境の島・対馬B

 文永11年(1274)、弘安4年(1281)の二度にわたる元軍による日本侵攻、いわゆる元寇は良く知られています。

この時も国境の島の対馬は、最初に元軍の蹂躙を受けました。元軍は島内各地に上陸したのですが、中でも

島内防衛の主力で島主の宗助国が散った小茂田浜での戦闘が良く知られています。宗助国は手勢わずか80

余騎で上陸した3,000余の元軍相手に奮戦、壮烈な死を遂げたとされます。戦死した宗助国は、お首塚、お胴

塚とに分かれて別々のところに祀られているなど、今に当時の激戦のなごりを伝えています。

元寇古戦場の小茂田浜 なお、このとき島民は元軍の蹂躙を逃れて山野に隠れ潜みました

が、我が子があげる泣き声で捜索する元軍に気づかれるのを恐れ、

その子を殺める悲劇が言い伝えられています。「我が子は可愛い、

けれどそれにもまして我が身が可愛い」…元寇を記録した著者が

慨嘆とともにその著の余白に書き込んだ一文です。







第15週 阿比留氏と宗氏…歴史の島・対馬B 

 今も、対馬全島に分布する「阿比留」の姓は、古代、対馬の在庁官人として権勢を誇った阿比留氏の末裔たち

であるとされます。郷土史家永留久恵氏によれは、魏志倭人伝のころ対馬を支配したのは大官卑狗(ひこ)です

が、古墳時代には朝廷から姓をたまわった対馬県直(あがたのあたい)称する在地の豪族が対馬を支配してい

ました。やがて中央政府の律令体制が安定するとともに、朝廷から任命された国司が支配することになりました。

しかしこの国司と県直一族との対立が、857年、ついに国司殺害事件に発展。誅された県直一族に代わって、

在庁官人としての座についたのが阿比留氏だとされます。


 この阿比留氏が対馬の古代の支配者なら、武家の時代となった中世の支配者が宗氏です。宗氏は、大宰府の

官人惟宗氏の流れをくむ一族というのが定説です。鎌倉幕府による大宰府再編制の流れの中で、武士化してい

く宗氏は九州小弐氏の対馬地頭代(守護代ともいう)として地歩を固め、古代勢力の代表阿比留氏に代わって

対馬支配の実権を握っていきました。


その後、宗氏はいわゆる守護大名、戦国大名、近世大名と続き対馬一円の支配権を保持していきました。なお、

宗氏の名実ともに宗氏の権力が確立する戦国時代ころ、本流以外の宗姓を禁じたため、現在も島内には宗姓

を名乗る家は一家もありません。




第14週 式内社の島 …歴史の島・対馬C
 
 大和政権も大化の改新以降、次第に天皇中心の国家体制に整備されるにつれて、それまでの連合王権を支え

てきた有力氏族が祀ってきた氏神も、天皇家の氏神を中心にした神々の物語にまとめられました。平安時代にま

とめられた「延喜式神名帳」はこうした全国の神々をまとめ、その神社を序列化して記載したものです。この神名

帳に記載された神社が「式内社」で、全国で3,132社あり、うち対馬には29社が記載されています。


 29社のなかには今はどの神社を指すのかわからなくなったものもありますが、対馬にある多くの神社には、朝廷

につながる有力な神々が多く祀られています。例をあげると海幸彦・山幸彦の伝説はよく知られていますが、豊
多久頭魂神社
 玉町の和多都美神社の祭神は、その山幸彦の彦火火出見尊とその妻となった豊

 玉命を祭った神社です。また神宮皇后のいわゆる三韓征伐にまつわる伝説を伝え
 
 るピソードや遺構なども対馬各地にみられます。


 これらの事実は、対馬が古代から大陸文化のメインルートとなって果たした役割と

 その位置の重要性をうかがわせるものだともいえます。

 (写真は、佐護の湊にある多久頭魂神社。社殿がなく後背の山全体が御神体。古い神社の形式を残している)




第13週 金田城カネタノキ …国境の島・対馬B 

 7世紀初頭、大和朝廷は朝鮮半島の百済と友好関係にあったのですが、その百済は隣国の新羅と唐の連合軍

によって責め滅ぼされました。その百済の再興を図って朝廷は朝鮮半島に出兵しましたが、663年いわゆる白村

江の戦いで大敗。以後、朝廷はしばらく大陸経営から手を引きますが、逆に新羅・唐の日本侵攻に備える必要に

せまられることになります。


 こうして、667年に築城されたのが金田城です。金田城は、浅海湾に突き出た岬の一つにあって独立峰のように

なっている黒瀬の城山に築かれた朝鮮式の山城です。近代以降、この城山は軍の施設建設のための土木工事

で、かつての金田城の遺構が破壊されたことが惜しまれますが、今も築城当時の石積みや木戸の門扉の柱穴を

穿った礎石などが残っており、国指定の特別史跡となっています。






第12週 防人と烽サキモリ ススミ…国境の島・対馬A

 古代、大和朝廷が大陸との国境の警備のために西九州を中心に防人を配備したことは良く知られていますが、

対馬では白村江の戦いで大敗した翌年の664年、新羅の侵入にそなえて配備されたとされます。しかし、それは

対馬防衛というより、国境の異変をいち早く中央に知らせる見張台の役割を期待されていたようで、あまり大きな

規模ではなかったようです。


 むしろ防人と同時に設置された烽(すすみ)の施設の維持管理が重要だったのかもしれません。烽というのは、

言うところの烽火台です。対馬北部の千俵蒔山で大陸からの侵攻を察知すると烽火をあげます。すると、その煙

を見た久原の黒蝶山の防人たちが、自分たちも烽火をあげます。次に豊玉仁位の天神山、次いで大山嶽、さら

に下島につないで白嶽、荒野隈、最後に対馬南部の竜良山に伝えます。この竜良山の烽火を海を越えて壱岐

の山が確認し、それを肥前、筑前最後に大宰府につなぐということになっていました。途中、どこかの烽火台が

見落とせば、防人がそこまで山野を駆けて注進をつなぐ手はずだったといいます。


いずれにしても国境の対馬は、元寇、朝鮮出兵、そして近代になってからも日露戦争、太平洋戦争と、いつの時代

もこのような役割を担ってきた島なのです。





第11週 山辺遺跡ヤンベ…歴史の島・対馬@

 昨年、峰町の三根川中流域の小高い傾斜地に弥生時代の住居跡をたくさん残したヤンベ遺跡の発掘が行われ

ました。対馬では始めての大規模な弥生時代の集落の跡ということで、卑弥呼の時代の対馬の国の中心地では

ないかと、マスコミに大々的に取り上げられ、注目をあびました。今後の本格的な発掘調査が待たれるところです。


 ところで考古学時代の対馬の中心地域は、各時期で少しずつ移動したようです。

・縄文時代…上県町〜峰町→越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など

・弥生時代…峰町〜豊玉町→三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など

・古墳時代…雞知周辺→根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳

・古   代…国府(厳原)

 というように時代が下がるにつれて中心地は、南下していることがうかがわれます。











  
第10週 歴史の島・国境の島 対馬
 対馬はその地理的位置から、多くの歴史的遺産や遺構を残している文字通り歴史の島です。古来、対馬は常に

東アジアの国際情勢に翻弄されてきました。考古学の時代から、対馬は大陸文化の橋渡しをする役割を担ってき

ましたし、国際情勢が緊張すると、いやおうなく国境の島・国防の最前線としての役割を果たさざるを得ませんでし

た。一方、中央政府の目が国内に注がれる時には、対馬は貧しい遠隔のへき地として打ち捨てられるかのようでし

た。


 そんな中で唯一、対馬が主体的に外に向って情報を発した時代は、中世の倭寇の時代であったのかもしれませ

ん。また、鎖国下の江戸時代にあって、朝鮮との通交に対馬藩が果たした役割も忘れることはできません。昭和50

年代後半に地元の商店会の努力で始まった毎年8月に行われるアリラン祭りでの朝鮮通信使行列の再現絵巻は

、今ではすっかり地元の大きなイベントとして定着しましたが、これらによって江戸時代、「対馬には鎖国はなかった

」実態が広く内外に知られるようになりました。



 いずれにしても、対馬にはこうした歴史的な事象がたくさん残されています。しばらくは、島の歴史的な部分にス

ポットをあてて紹介していきたいと思います。