第40週 あなじ…対馬の民俗G

 冬の季節、日本海沿岸に大雪をもたらすのは、シベリアの寒気団から流れ込む北西の季節風

の影響です。この冬の北西風を対馬では”あなじ”と呼びます。江戸時代の文書をみると

この”あなじ”を「穴西」と表記していますが、文字通り寒の穴から吹き出すような強い冷たい風です。


 ところでおなじみのひまわりの映像で冬の日本海にびっしりと見られるすじ状の雲は、朝鮮海峡に

生れることはあまりありません。対馬までの狭い海峡では十分水分を補給できないため、雪雲が

発生しにくいからです。ですから対馬では積るほどの雪となることはめったにありません。

西海岸に多く見られる石屋根の小屋もこうした肌を指すような強い北西風に備えたものでもありました。


 そしてこのあなじという言葉も、残念ながら子供たちには伝わりにくくなっています。

かつての対馬の基幹産業であったイカ漁は、地元でするめに加工するのが一般的でした。

子供達は目の前で親の働く姿を見、自らも労働力となっていました。そんな中で親から子供達へ

さまざまな伝承が学び伝えられていたはずです。


ところが、このあなじの風と戦ってきた対馬の猟師達が海を離れ、あるいはイカの漁場が遠くなり、

働く親の姿が見えなくなるにつれ、家庭で子どもに言い聞かすことがなくなってきたからなのでしょう。









第39週 オトトキタカ…対馬の民俗F

 対馬のホトトギスは、テッペンカケタカとは鳴きません。「オトトキタカ」と鳴きます

そのわけはこうです。

昔、貧しい兄弟が住んでいましたが、眼の見えない兄を弟が養っていました。

あるとき兄が「おれが眼の見えないことをいいことに、おれにはこんなものを食わせて、

自分ばかりうまいものを食っているのだろう」というので、嘆いた弟は自分の腹を掻き切って、

胃袋の中身を見せます。すると、その時兄の眼があき、見ると弟の胃袋には粗末なものばかりが

入っていました。後悔した兄はたちまち鳥となって「オトトキタカ、オトトキタカ」と鳴き、弟を探しました。

 こうしてホトトギスは、「オトトキタカ、オトトキタカ」と鳴きつづけるようになりました。

対馬で広く知られた昔話ですが、今の子供達には語り継がれていないようなので、

やがて対馬のホトトギスもテッペンカケタカと鳴くようになるのでしょう。さびしいことですが…。





第38週 対州窯…対馬の民俗E

 朝鮮半島で焼かれた焼き物は、わが国でも高麗青磁をはじめ古くから高く評価され珍重されてきました。

江戸時代、朝鮮交易を一手に握っていた対馬藩では国内の諸大名に珍重されたこうした焼き物を、

朝鮮から仕入れるだけでなく釜山にある倭館で、朝鮮の良質の陶土を使って焼いていました。

釜山窯と呼ばれたのがそれです。ここで製作されたみごとな焼き物は日本国内でも高く評価されていました。

その流れを汲んで厳原で開かれたのが対州窯です。久田、志賀、立亀、阿須、小浦などで窯が作られ、

茶碗や徳利をはじめに日用品の皿類まで焼いたようです。しかし経営の難しさから明治の初めころには

途絶えてしまいましたが、近年、上対馬に対州窯を継承する窯が開かれています。




第37週 センダンゴ…対馬の民俗D

  サツマイモの収穫の季節となりました。焼き芋のおいしい季節です。ところで、対馬ではサツマイモの

ことをコウコイモと呼びます。対馬はほとんど平地がなく、藩政時代の主な作物は大麦でした。その大麦も

貢租として収めるため、農家の主食はその他の雑穀が中心でしたので、働き手としての第一線を過ぎた

年寄り達の食糧事情は厳しいものがあったと言われています。そのような事情に心を痛めた久原に住む

原田三郎右衛門は薩摩に渡り、1715年、藩外持ち出し禁止のサツマイモの種芋を対馬に持ち帰り、

島内での栽培の普及に尽力しました。こうしてサツマイモは農家の重要な食料となりました。

こうしてサツマイモのおかげで、農家の年寄り達にも食料が行き渡るようになったことから孝行芋(コウコイモ)と
呼ばれるようになったといわれています。


  ところで、そのコウコイモから作ったセンダンゴもまた農家の重要な食料でした。センダンゴは、

収穫したサツマイモの小さくて筋ばかりのイモや、クワで傷つけたイモなどを唐臼で砕きこれを川に漬けて

くさらせます。それを両手いっぱいの大きさの団子状に丸めて、軒下でさらして陰干しをし、春先までおいて

不純物をくさらせます。そうしてこれを再び唐臼で砕き、ふるいでふるい、さらに水にさらしてデンプン質だけ

にします。これを小さなダンゴニしたものがセンダンゴです。

  センダンゴを食べるときは再び水にもどして団子にして蒸して食べたり、ロクベエにして食べたりします。

大切なコウコイモを出来るだけ長く、大切に食べるために生活の知恵として工夫された保存食であったのです。



第36週 神無月…対馬の民俗C  

  10月が神無月というのは良く知られています。日本中の若い男女の縁結びについて相談をするため、

全国の神様が出雲に集まり、各地は神様のいない月になるからだとされます。

ところが対馬の阿連という集落の東の神山に鎮座するオヒデリさまは、この出雲での神々の集いには参加

しません。村の守り神である神様(阿連では雷命様ですが)が留守の間、村の守り神となってくれます。

霜月朔日、帰ってこられる神々を迎える御入座(おいりませ)の神事に続いて8日には雷命の大祭が行なわれ、

鎮守の神様は無事阿連の集落にお戻りになります。そして翌9日には、神無月の間村を守っていただいた

オヒデリさまを元の神山にお送りする「元山送り」が盛大に行なわれます。


出雲に集う神様のいない間、言わば在地の神様が村を守ってくれると考えた古代の人々に、

豊かな心を感じるのは筆者だけではありますまい。この阿連の「オヒデリ祭り」は厳原町の無形民俗文化財

に指定されています。



第35週 木庭作…対馬の民俗B


 木庭作というのはいわゆる焼畑農業の一種です。山がちで平地の少ない対馬では、第二次世界大戦後の

昭和20年代まで各地で行なわれていました。木庭作はまず、7月から8月にかけてなだらかな山の斜面の

木を刈り倒し、これに火をつけて焼き払います。すると地表まで焼けて燃えた残りの灰が肥料となり耕作に

適した条件となります。そこを簡単に耕し、ソバ・アワ・ムギなどを作るのです。この畑は2〜3年耕作したあと、

しばらくは放置して地力を回復させます。そしてまた、新しい山を焼いて作物を作ります。筆者の子どもの頃、

山から煙が上がるのを見て家人に山火事だと告げて、あれは千把焼き(木庭焼き)だと教わりました。

上県の千俵蒔山は、なだらかな山容で種籾が千俵も蒔けるほどの広さがあるというところからの命名だ

といわれています。


 対馬の山々は、こうしてときどきに人の手が入りそれなりに里山が再生されていました。しかし、木庭作が行なわれ

なくなった昭和30年代以降、スギなどの植林による人工林の増加とあいまって、里山は姿を変えていきます。

さらに国内産樹木の不振が続く現代、対馬の山は次第に放置され荒れ山が生れているのは悲しいことです。






第34週 石屋根の小屋…対馬の民俗A

 対馬の観光パンフレットに必ず登場するのが、この石屋根の小屋でしょうか。対馬の伝統的な民家は、

母屋・雑屋(ゾーヤ)・小屋の三点セットで構成されています。藩政時代、母屋はその家の家格に応じて

厳しい制限や規格が定められていましたが、雑屋は、農具倉庫や家畜小屋を合わせた機能を持ち、

その大きさは勝手次第とされていました。


 一方、小屋は、本来の倉庫か蔵の役割を持った施設でした。そしてこの小屋は、母屋と雑屋から離れた

ところに建てられました。万一母屋が火事に遭った場合にも、離れたところの小屋は類焼をまぬがれると

いう配慮からだとされます。実際、小屋には、穀物などの食料に加え、日常使わない夜具や器具類、

貴重品などを収納していましたから、焼け出されても当座はしのげるほどであったそうです。

また、この小屋は湿気にも強い高床式の独特の造りになっています。

 全島の旧家に今も伝わるおびただしい古文書を守ってきたのも、実にこの小屋だったのです。

そんな大切な小屋は、防火対策であると同時に厳しい冬の季節風に耐える頑丈な建築材として、

島内に産する平らに割れる粘板岩が利用されてきました。これが石屋根の由来です。

 しかし、現代は、適当な長さの石材が得にくくなったこと、建築費用が割高になったことなどから、改築の際

瓦葺に変わる小屋が多くなったことはさびしい感じがします。




第33週 亀 卜キボク…対馬の民俗@

 亀卜とは、亀の甲羅を焼いて物事の吉凶やその年の吉凶などを占うことを言います。

私たちが日常使う漢字は、古代中国の黄河文明に生れた甲骨文字がその源流と言われますが、

この甲骨文字も本来は卜占に使った鹿の肩甲骨などの獣骨や亀甲を火にくべて、生じたひび割

れで物事の吉凶を占ったところから考え出されたものだとされます。対馬に伝わる亀卜は、遠く

この中国の卜占に起源を持つものだと考えられます。対馬では、縄文時代の遺跡である志多留

貝塚からこの亀の甲が出土しています。


対馬には、このような亀卜を行なう家は代々その秘伝が伝えられてきており、現在わかっている

のは、上県郡の方から、寺山家(佐護)、長岡家(仁位)、橘家(阿連)、岩佐家(豆酘)の4家にの

ぼります。これらの家々には、占いの方法が書かれた記録が今も残されています。

なかでも岩佐家は、その子孫である当代が、年頭に氏子を集めて、亀卜の神事を行なっています。