訪問日程

  8月7日 日本各地からプサンに集合 プサンからバスでソロクトへ
        夜半にソロクト到着
  8月8日 早朝散策(監禁室、解剖室、納骨堂等)
       午前 チャムギル20周年記念国際シンポジウム
          日本からの発言者
            徳田靖之弁護士(ハンセン病訴訟弁護団)
            川辺岬さん(水俣市・相思社)
       午後 島内見学(初期の日本の施設跡、火葬場など)
       夜  チャムギル主催のイベント、慰霊祭
  8月9日 日本植民地時代の被害者の聞き取り
        自治会長との意見交換
        プサンへ 一部はテグへ
  8月10日 帰国 一部はテグで見学(愛楽園、カトリック病院、定着村)
  8月11日 ソウルへ移動
  8月12日 一部は韓国ハンセン福祉協会見学
         西大門(ソデムン)刑務所跡見学(ハンセン病者の隔離房見学)
  8月13日 帰国


シンポジウムでの徳田靖之弁護士の発言
   (通訳:チェ弁護士 テグ)

はじめまして。
私は日本で弁護士をしております徳田と言います。
チャムギルの20周年記念行事という大切な場で発言の機会を与えられて大変光栄に思っております。
チャムギルのこの20年に及ぶ大変なすばらしい活動に、私は心から尊敬したいと思います。
同時に私は皆さん方に心から謝罪をしたいと思ってやってきました。
私たちの国は、日帝時代においてこのソロクトで残虐非道を重ねてまいりました。
そのことに対して、日本政府は、そして私たち日本の弁護士たちも、今日に至るまで何一つ謝罪をいたしておりませんし、償いをしておりません。
そのことを日本の一弁護士として心からお詫びしたいと思って滝尾さんに導かれてこちらにお邪魔しました。
あまりに遅すぎるというご批判を覚悟しながらこれから私たちがどんな風にすればこのソロクトにおける日帝の犯罪行為に対してけじめをつけさせることができるのか私たちなりの提案をさせていただきたいと思います。
日帝時代には本当に数々の残虐非道行為がソロクトに限らず行われてきました。
それらの問題が日本の国に対する裁判としてなかなか勝訴という形で結果を得られないのはひとつの大きな壁があるからです。
法律用語で「除斥期間」といいますが、違法な行為があってから20年が経過してしまうと、その被害を受けた人々が賠償を受ける権利が消えてしまうというそういう制度があります。
そのために20年以上昔の行為について日本の国を訴えるということは法律家としては大変難しいと考えてきました。
ところがひとつの方法が見つかったと私たちは考えています。
2年前に私たちは日本国内のハンセン病療養所に入所している人たちが国を訴える裁判に勝訴しました。
そのときに日本の政府はハンセン病療養所に入所していた人に対する補償法という法律を制定しました。
この法律は裁判を起こさなくてもハンセン病療養所に1日でも入所していたことのある人に対して補償金を払うという法律です。
ところがこの法律は許しがたいことにその補償法によって償いを受けることができる人の範囲を日本国内の療養所に限りました。
これは日本国憲法14条(平等条項)に反するものであり、まさに排外主義と批判されても仕方がない法律です。
しかし、この法律は実は国籍条項がありません。
原爆症のような居住地条項、日本国内に住んでいるかどうかという条項もありません。
しかもこの法律は20年以上前に、たとえば50年以上前に療養所を出た人にも適用されるようになっています。
そこで、私たちは、このソロクトで日帝時代に強制隔離された方々がこの法律に基づいて日本国政府に賠償を要求する、そういう手続きから始めたいと思います。
日本の政府はこの請求を必ず棄却すると思います。
その政府の棄却の決定を取り消すという裁判を起こすというのが、今私たちが考えている方法です。
この裁判では、ソロクトで何が行われてきたのか、それは日本国内の療養所以上の残虐非道が行われてきたということを明らかにすることになります。
その事実が証明できればこの裁判は必ず勝つことができます。
私たちは私たちの国が犯した過ちにきちんとした償いをさせるためには、裁判の場で何が行われてきたのかという事実を明らかにさせて、その上で謝罪をさせる、そのことが絶対に必要だと思っています。
このような方式で裁判を行うという提案については、実際に被害にあわれたソロクトの方々やそれを支援しておられるチャムギルのみなさんがどのようにこの提案をお考えになるのか、それを第一に尊重したいと思います。
もしこのような提案を受け入れてくださるのであれば、私たちは滝尾さんの力を貸していただきながら、日本で大きな弁護団を作り、韓国の弁護士の方と協力しながら全力でこの裁判を勝つために努力を尽くしたいと思います。
あらためて今日までこの問題に対して具体的な行動を何一つとってこなかったことを心からお詫びして私の発言とします。ありがとうございました。(拍手)

チェ弁護士
(韓国語で何か長い説明がなされた)

会場からの質問
この問題で韓国政府はどのような対応をしてきたのか?

徳田
この問題は滝尾さんに聞いていただいたほうがいいかもしれませんが、私が知る限りソロクト問題の解決のために韓国の政府が日本政府に働きかけをしていることはないと思います。

滝尾
丁度2年前の8月に私はこの島に川田悦子、金子哲夫の両衆議院議員を連れてきまして、2日間ここで討議をしました。そのとき国会に行きまして関係の政府の局長であるオ・テギュ局長と、それから野党及び与党の国会議員、厚生委員長とも十分話し合いました。その結果これは何とかしなければならないということで、私も国会行きましたけれども、その辺の話し合いはやっておりますけれども、その後どのように韓国政府のほうが受け止められたのかということは、私は知りません。ただ訴えは国会で両議員がさかんに長時間向こうの関係政府の局長と話し合っておりますし、国会議員とも真剣に討議されたことは知っております。私もそれに立ち会っております。

会場から
今年チャムギル会は20周年という節目の年ですからこの場でこのような貴重な提案がありまして、これからの20年を考えると非常に意義深い提案だと思います。しかしこれまで私たちはほかの人に対して非難とか批判するよりは自分の責任だという認識のもとで活動してきましたから、これはどのようなことであるの問題意識を持ちながらこれから考えます。でもこれからの運動方式としては非常に意義深い提案だと思っております。
それと、お互いに情報が必要ですから情報交換しながら、私たちが何を準備すればいいのか教えてください。

徳田
私も今回こちらに参りましてチャムギルの精神というのに改めて触れて今までの私たちの考えに足りないところを十分に学びました。その精神を大事にしながら本当に頻繁に協力関係を作り上げてやっていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

会場からの質問
私は具体的な質問をします。亡くなられた方の子孫がいる場合、子孫はどうなり
ますか?

徳田
残念ですがこの方式では亡くなった方については対象になりません。現在生存しておられる方だけということになります。
それからこの裁判は原告になった人に賠償金を払えという裁判ではありませんので一人でも原告が出て勝てば法律が変わりますので対象者全員この補償法によるところの償いを受けることができるようになります。

会場からの質問(西浦)
法律が変わるというのは裁判所がそう指示するということですか?

徳田
判決でこの法律が憲法に違反しているということが指摘されて確定しますと国会は法律を変えなければなりません。そういう意味です。

会場からの質問(国宗)
日本の補償法では一度でも療養所に入所したことがある人は対象になりますから、もしこの理屈が通って補償が受けられることになれば日帝時代にソロクトに一度でも入ったことがある人は現在ソロクトにいなくてもすべて対象になるということになると思いますが、それでいいですか?

徳田
1日でもこのソロクトに日帝時代に隔離されていたという証明を現在の病院からもらいさえすればすべての人が対象になります。

会場から
具体的な提案がありまして、チャムギルの方と被害者の方と相談し合って、何の形でも○○ができるように準備してください。

+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+**+*+*
シンポ閉会時の姜大市(カン・デシ)自治会長の話
今ここで生活している住民の中で日本の植民地時代を経験している人が115名います。裁判の費用に関して、去年支援委員会を構成して、本来ソロクトで進めていくべきなのですが財政的な問題がありまして、光州の民間団体とテグの弁護士会と一緒になって推進しています。うまくいったら8月22日に病院の人2名、会長、弁護士と日本に行くことになっています。115名の方の名簿も作っています。
成功することをお祈りします。


日本植民地時代の被害者からの聴き取り

1 K.U.さん 79歳
昭和17年5月16日に入所 18歳の時、誕生日は3月16日、生まれた年はわからない。
入ったときは2000人くらいいて一部屋に10人くらいいた。
生まれたところは慶尚北道尚州
本来病気にかかっていて、お父さんとお母さんと住んでいて、掃除の日というのがあって、掃除しにいっていたら、両親は畑にいて、巡査が来て自分の顔をじっと見て帰っていった。両親が帰ってきて、警察署から来てほしいといわれていった。ソロクトの募集がある。お前は病気だからソロクトに行くかと言われて、私は行きますと言って入った。
そこに入ってから仕事が非常に辛かった。
カマスの作業があった。
カマスを作るんだけれど自分のように手が良かったらいいけれどそうでない人は手でもまなければいけない。それが辛くてたくさんの人が死んだ。自殺だった。
海に飛び込んだりした。
編んで重ねて縫わなければならない。それを売った。ここの収入のために。そんな話はきりがない。
夜7時頃まで働いて寝るときに点呼があってそれから寝た。
労働時間が決まっているのではなくてカマス何枚という割り当てがあった。
懲罰についてはたくさんあった。辛かったから逃亡する人がたくさんあった。
逃亡した人は陸地のほうで捕まると船に乗せて連れてきて、四つんばいにさせられて棒で打たれた。自分は経験ないけどたくさん見た。その人を監禁室に連れて行く。監禁室は今もそこに残っている。でも内部は違う。今は板張りになっているがもともとはただセメントだけだった。布団もないし、何人も入れて、中で死んだ人もいる。打たれて入れて、死ねばそれで終わり。生きていればまた出して打たれた。棒というのは角材でそれが折れるまで打たれた。
自分は幼かったし、逃亡しようとしなかったので、自分はそういう目にはあわなかった。
打ったりしたのは日本人やその下で働いている韓国人。
逃走しようなどとは思ってもいなかった。泳げなかったし。それで自分は生きてきた。
(療養所にはいって良かったか)良かった。
自分が行きますと言ったときにこんなところだと知っていたら来なかった。家もそんなに貧しくはなかった。
今良かったというのは、現在のこと。今は暮らしも良くなったし。
(日本に対してどう思うか)悪いと言い切れない。わからない。
(裁判を起こしたいが参加するか)参加します。ほんとにそのときは日本の方たちは悪いことをした。
(今頃になって申し訳ない。全力をつくしたい。)お願いします。
監禁室に入った人たちは基本的にみんな断種された。
治療は大風子油を食べた(丸薬)。注射もした。当時はそれしかなかった。傷ついてもそんな治療はなかった。
(一番辛かったことは?)生きていること自体が辛かった。死に切れないからしょうがくなく生きていた。腹が減って仕方がなかった。
食べ物は1日に干し麦2合と米2合。塩で食べていた。肉もたくあんもなかった。
塩しかくれなかったから自分たちで野菜を作って塩して辛くして食べた。
それも秋だけの話。塩だけしかなかった。そのときは塩は大切なものだった。
(燃料は?)船で別の島から薪を切ってもってきた。この島では落ちている葉っぱを取っても断種になった。この島のものには手をつけられなかった。めいめいでご飯をたいた。
家族にはずっと会ってなかった。ここに入って去年初めて2人残っている兄弟に会った。2人とも弟。弟たちは自分を探してきた。50年ぶりだったので見てもわからなかった。実感がわかなかった。自分は10人兄弟の長男だった。ほかの兄弟は全部亡くなった。
両親は畑仕事。自分は寺子屋のようなところで勉強していた。
(島を出たことは?)ここのみんなと観光にバスで行ったことはあるがふるさとには帰ったことはない。
結婚した。今も妻と一緒。結婚して20年。
(足は?)赤レンガ工場があった。若いときにそこでの仕事が元で怪我をして戦争が終わった年に切った。麻酔がされてない状態で切手痛くて死にかけた。自分は直接打たれたことはなかったが結局はレンガの仕事で足を失ったようなものだ。

2 C.G.さん 83歳
1921年6月17日生まれ
昭和16年、20歳の時にソロクトに入った。
故郷は慶尚北道青松(チャンソン)。周防園長のとき。
最初に1度警察が来た。南にソロクトというところがあるのでいかないかと言ったが断った。2年後また来た。貧しくて、兄弟の結婚問題もあったので、行くことにした。トラックでテグを経由してプサンに来て、プサンから船でソロクトに来た。テグでは愛楽園で1泊した。3日かかった。
行きますと言ってすぐ来たのではなくて1ヶ月くらい間があっていく日が決まっ
ていてその日が来て行った。
懲罰は冷たい水をかけたり打たれたりいっぱいあった。
働きに出なかったような人が対象になった。
本当に病気だとわかれば大丈夫だが仮病だと対象になった。
いろんなことをした。レンガ、カマス。松の木を切ってヤニを取ったりした。今も傷が残っている。公園も自分たちの手で作った。佐藤というひどい看護長がいた。院長の銅像を作って参拝に行った。院長を刺した人がいた。
佐藤は、しょっちゅう打ったりした。自分たちを獣のように扱った。お前たち10人よりは山にある松の木1本の方が大事だと言っていた。食べ物もなかったし、薬もなかったし。我々は疵が一度できると治らないし、化膿したりして、傷がひどくなりすぎてそれでこうなった(肢体の不自由)。包帯とかするけれど、仕事をするとすぐに取れる。疵もすぐに広がる。
当時はもちろんここには入らないほうが良かった。何回考えてもそれは入らないほうが良かったというのは当たりまえのことでないですか。
注射されて神経が引きつれて死んだ人が何人もいる。何人かがねじれて死んだ人が何人もいるから怖くて診察に行かなかった。研究のためだと思う。治療については何の説明もなかった。大風子油は知っているがそれではない。それで20人くらいは死んだと思う。だから治療には行かない。昭和18年かそのころのことだったか、よく覚えていない。注射をされてからすぐに神経が引きつれて1日か2日で死んだ。みんな人体実験だと推測していた。実際はわからない。何の説明もないから我々にはわからない。そのときは日本の医者だった。看護婦も日本の看護婦だった。日本語でしゃべらないと診察もしてくれず日本語を覚えさせられた。
(日本に対して)その時代の人が悪かった。今の人は子孫だから悪くない。私はクリスチャンだからいつも日本がうまくいくよう祈っています。
(裁判を起こしたいが)やります。日本に行かなければならないか?
(できれば。可能なら裁判官をここに連れてきたい)裁判したらどうなるか?
(日本の政府に謝罪をさせる。補償をしてもらう。)
ソロクトの話をしようとしたら時間がどれだけあっても足りない。
日本で裁判があって勝ったことはうわさで知っていた。自分たちにも何かいい恵みがあるかもしれないと思って安心した。
断種の経験は私はない。そのときたくさんやられたけれど自分はない。監禁された人はたくさんやられた。
1回監禁されたことがある。神社の参拝に出なかったので。自分はクリスチャンだから行かなかったがそれで監禁された。1週間監禁されていた。食事は何もくれなかった日もあるし1食だけのときもあった。ひどくはなかったが打たれた。
そのとき自分は若かったし打たれたけれどあまりひどくはなかった。下はセメントで冬は寒かった。監禁室は今は広くなっているが当時は狭かった(仕切られていた)。その後は参拝に行くようになったがおじぎはしなかった。見張られていて、おじぎをするかどうか見ていた。見つかればやられた。
家の仕事は農業だった。


ソロクト通信5及び6は、10日に先に帰国した参加者にあてて
テグ及びソウルからEメールで発信した報告です。

ソロクト通信5>テグから(抜粋)

 おはようございます。
 プサンから帰国された皆様、夕べはゆっくり休まれましたでしょうか。

 韓国に居残った9名は、滝尾さんの健康状態がちょっと心配なほかは、みんな元気です。テグは暑いと聞いていたのですが、昨日から曇り空となり、しのぎやすくなっています。
 一昨日テグに到着し、昨日は、私立のハンセン病療養所愛楽園の教会の礼拝に入所者の方と一緒に参加し、その後お医者様や牧師さんたちと昼食を取りました。その後昨日終日ずっと案内してくださった河龍馬(ハ ヨオンマ)先生がお仕事をされているカトリック皮膚科医院を見学しました。この病院には入院施設があり、ハンセン病を専門的に治療しています。ただし、現在ではハンセン病そのもの治療は少なく、すでに治っている人たちの後遺症の治療が主になっているということでした。それでも、本病治療中の方にもお会いしました。
 韓国にはこのような病院が3箇所あるそうです。普通に入院して、普通に退院して家に帰っていける病院です。日本にもこんな病院が必要ですね。
 次に同じく河先生の案内で、テグ近郊の定着村に行きました。漆谷(シッコク)農場といいます。斜面に貼りついたような集落でした。ここでは養鶏を主要産業にして元療養所にいた患者のみなさんの自活に成功したところです。河先生はここの初期の園長をなされており、皆さんの自活のサポートに尽力されました。
 村では、丁度教会で礼拝が行われており、大人の人の大半は教会にいらっしゃったようです。代わりに元気な子どもたちが歓声をあげて遊んでいました。日本の療養所とはここが一番違いますね。
 ただ、いくつか疑問も感じました。人里離れたこの村は確かに患者の自活には成功したけれど、ここが新たな被差別部落になっているのではないかということ。他の定着村も、主要には養鶏が生活の糧となっており、実質的には職業選択の自由が保障されているわけではないように感じたこと。などなどです。
 定着村は各村で経緯も実態も異なるということでしたので、ここだけを見て何かを言うのは早計だとも思いました。これからも勉強を重ねていきたいと思いました。


ソロクト通信6>ソウルから(抜粋)

 おはようございます。
 韓国に居残った私たちも、いよいよ帰国の日となりました。
 今日は空港へ移動するまでは自由時間としました。
 みなそれぞれに買い物などに出かけたようです。

 一昨日ソウルに着き、夜は、滝尾さんの資料収集等にご協力いただいたI.I.さんを囲んで食事をしました。生協等の消費者運動に携わられておられる方で、出身がマスコミということもあって、その方面への影響力をお持ちだと聞いています。おつれあいは国会図書館関連のお仕事をされているそうです。不二出版の越水さんがさっそく滝尾さんの本の売り込みに協力をお願いしていました。

 Iさんは、私たちに現在の韓国の国内状況をお話してくださいました。
 現在韓国では、軍政時代の既得権者や親米派などの年配の世代と、改革を求める若い世代との対立が深刻で、国内の政情は不安定である。つい先日も若者たちが米軍基地に侵入して戦車を占拠する事件があった。8月15日(この日は韓国にとっては日帝からの解放の日です)には既得権者・親米派などが大きな集会を予定している。若者たちも散発ではあるかもしれないが何か集会をするだろう。秋には国会議員選挙もあるために、こうした対立の構造はこれからも一層深刻に続くだろう。しかし、韓国の政治はダイナミックである。このダイナミズムはいつも若者たちが支えてきた。李承晩政権のときも、朴正熙のときも、光州事件のときも。韓国のこの伝統がある限り韓国の将来は心強い。
 そんなお話でした。

 その中で興味深かったことを2点、少し詳しく報告します。
 ひとつは、今行動している若い世代の人たちは、インターネットや携帯電話を駆使して情報交換をしている。若い人たちは新聞やテレビをあまり信用していなくて、インターネットが大きな力になっている。インターネットで議論し、集会を企画し、情報を交換し合っているということでした。
 ついでにご報告しますと、私たちは、食事のあと、ホテルの近くの小さな路地を李さんの案内で歩き回りました。ここは朝鮮戦争のときからまったく変わっていないそうで、李さんが若かりし頃から通っているお好み焼き屋さんは、机までもが昔のままなのだそうです。歩いていたら、アメリカ大使館近くで、若い人たちが反米の集会を開いていました。ポップ調のダンスをしたり、サッカーのサポーター風の掛け声があったりで見ていてあきない集会でした。多くの参加者はオレンジの線の入った帽子をかぶり、ブルーのTシャツを着ていました。これがトレードマークなのだと思います。配られているちらしには戦車を占拠している写真が載り、見出しには、(李さんの解説によると)「ノ・ムヒョン政権はアメリカの強硬政策をやめさせろ」とありました。李さんは金大中にはいろいろ批判もあるけれど太陽政策だけは有効な現実的な政策だと言われていました。これに危機感を感じているアメリカの強硬政策は問題なのだとも話されました。
 次の日電車に乗ったら、オレンジマークの帽子をかぶってブルーのTシャツを来た4〜5人の若者たちの一団が前夜と同じチラシを乗客に配り、各車両ごとに演説を行っていました。
 ちょっと今の日本では想像できない若者たちの行動に、本当に韓国の若者たちは元気なのだと納得しました。

 もうひとつは、マスコミ人であるIさんならではお話です。
 今の日本のマスコミの情報を見ると、朝鮮半島の問題は北朝鮮の核問題と拉致問題一色である。これは韓国から見るととても異常に思える。拉致問題は確かに北朝鮮に問題がある。いけないことだ。しかし、その問題だけしか報道しないのもおかしい。韓国では拉致問題はたくさんある問題のひとつでしかない。韓国人は日本人ほど拉致問題を重視していない。これは国家間で解決可能な問題だと思っている。
 今の北朝鮮は戦前の日本と似ている。しかし、戦前の日本よりましだと思っている。戦前は日本でもそうだったかもしれないが、私たちは毎朝日本の皇室に向けての参拝(これを何といいましたっけ。忘れちゃいました。)が強要された。今の北朝鮮で毎朝の国家への参拝が強要されているという話は聞いたことがない。それに日本は残虐を尽くし、朝鮮半島からいったい何人の人を強制連行しましたか。しかも、その事実を認めていないし、何の謝罪もしていないし、賠償もしていない。その日本が拉致問題で大騒ぎするのはとても奇異なことに見える。

 以上の表現は国宗の記憶によるものなので、Iさんの意を十分に尽くしていないかもしれず誤解されることを恐れるのですが、大体そんなお話でした。

 私は、物事を見る視点を他方向に置く必要があることを強く感じました。
 ひとつのことにとらわれずに全体をバランスよく見ていくことは本当に大事ですね。

 そんな、深い洞察を求められた食事会だったのですが、プルコギはメチャおいしかったです。


 昨日は、午前中、私と滝尾さんだけが、「韓国ハンセン福祉協会研究院」というところに行き、院長の高英勲(コ・ヨンヒュン)さんとお会いしました。
 ここは以前「大韓癩管理協会」という名前だったのですが、韓国では1999年に「癩」の呼称はすべてハンセン病に改めるという法律ができたそうで、ここも名称を変更したのだそうです。
 ここは以前病院を持っていましたが、現在では規模を縮小し医院として活動されています。それでも少ないなりに入院されている患者さんもいらっしゃいました。ここの治療の中心は日本でいう形成外科や疵の治療、義足の製作などだそうです。ここもテグのカトリック皮膚科病院と同じく、建前は一般治療施設ですが実際にはハンセン病の患者さんあるいは元患者さんの治療を専門的に行っています。高先生は病室や治療室などを案内してくださいました。
 「日本にも普通に通って治療できて、あるいは入院できる病院が必要です」というお話をしましたら、高先生が、「ただ韓国では実質はやはりハンセン病専門の医療機関となっていて、確かにこれは必要性もあるのだけれど、もうそろそろこうした特殊化された治療体制はやめなければいけないと思っているのですよ。」と言われました。本当にそうですね。特殊な施設、特殊な病院はノーマライゼーションの考え方からはとても問題なのですね。そうしたこともしっかり頭に入れて日本での医療協議を実現させていきたいと、弁護団の私は思ったのでした。


 午後は、みんなで西大門(ソデムン)刑務所跡を見学しました。
 ここは刑務所跡全体が博物館になっています。
 この刑務所は日帝時代に日本の支配に抵抗する人たちを弾圧するために日本によって作られた刑務所です。ここで多くの抗日の活動家が厳しい拷問を受けたり殺されたりしました。
 私たちがここを訪れた目的は、ここにハンセン患者の隔離房が残っていると聞いたからです。その隔離房は、ここの敷地の中でも一段と小高いところに隠れるようにして建っていました。犯罪を犯したとされた人がハンセン病だと判明するとここに隔離され、ソロクトへ送られたようです。部屋は三つ。ここに押し込められた人の孤独と不安を思いました。
 ここにはほかに絞首刑の死刑場や韓国のジャンヌ・ダルクと呼ばれる三・一運動の英雄・柳寛順(ュ・クァンスン)が投獄されていた女子房などが復元されています。本館に行くと、ボランティアの日本語通訳の人がいて、私たちを案内してくれました。彼は、「ここに日本人もよく来るけれど、ほとんどの人が、戦前朝鮮が日本に支配されていたことは知っていても、その間に何があったのかは知らない。」と話していました。
 本館の地下には、牢獄の様子や拷問の状況などが蝋人形を使って展示されており、私はマジ怖かったです。息が苦しくなって、一番先にここを飛び出してしまいました。
 滝尾さんが通訳の人に、ここのハンセン病舎には何人くらい収容されたのかとたずねましたが、通訳の人は、「ここには何も記録が残っていないのです。日本人はここを去るときすべての記録を焼却し証拠を隠蔽しようとしました。ここに何人の人が捕まってきて、何人が殺されたのかも正確なところはわからないのです。」と言われました。
 実は、テグの河先生も、ソロクトについての詳細な資料が残っていないという話をされていました。これは行政訴訟をするにしても大きな問題です。日本の療養所には入所・退所の記録が残っていますから、入所者であったかどうか園が証明してくれれば何の問題もないのですが、ソロクトの入所者であったか否かの立証については、これをどうするのか、工夫が必要なところです。

 それにしても、ソロクトでも西大門でも、残虐の限りを尽くして証拠を隠滅して逃げていったのが日本人であったことを、私たちは忘れていはいけないと強く
思いました。