ハンセン病国賠訴訟の現場で 自由法曹団80周年記念のつどい 「リレートーク」15分間スピーチから ご紹介いただきました、熊本から来ました国宗といいます。ハンセン病国賠訴訟の事務局を担当させていただいてきました。 ハンセン病国賠訴訟につきましては、すでにみなさんご存知のように、今年の五月に熊本で勝訴判決を取って、しかも国に控訴を断念させるという歴史的な勝利を収めることができました。この裁判の話をずっと始めると、終わらなくなりますので、きょうはこの裁判の中で、私がずっと感じつづけてきたこと、それを少しお話したいと思います。 それは人権裁判が持っている、特別な意味についてです。裁判というのは、当然皆さんご存じですけれども、権利を実現するための手段である、これが通常なのだと思います。ところが人権を侵害されてきた人たちにとって、その裁判自体が人間を解放する舞台になることがある。そのことを私は、たとえば水俣病だとか、HIV訴訟のなかでも見てきましたが、特にこのハンセン病の訴訟のなかで強く感じました。 もともとハンセン病の元患者の人たちが提訴するということは非常に難しいことでした。たとえば、療養所に入所している人たちにとっては、この方々、すでに高齢になっていらっしゃいます。そして重い後遺症をお持ちです。しかも住んでいる所が、国立の療養所です。国の手の内の中にあるという状態で国に対して裁判が起こせるのか、これは大きな問題でした。多くの入所者の人たちは、裁判を起こせば、園を追い出されるのではないかと本気で考えていました。しかも、偏見や差別が社会の中にある以上、自分の名前を出せない、裁判なんてしたら名前が出てしまって、ふるさとにいる家族に迷惑がかかるんじゃないか。そんなことも皆さん考えてました。退所した方もいらっしゃるのですが、このかたがたも提訴が困難だということではまったく同じでした。退所した人というのは、自分がハンセン病に罹ったという事実、そして療養所にいたことがあるという事実、この事実をひた隠しにして生活してきた人たちです。病歴がばれそうになると、家を変え、職を変え、転々としてきたそういう方がたくさんいらっしゃいます。この方たちがニュースに上るような、そういう裁判に自分の名前を連ねるということ、これは大変な決意だったろうと思います。けれど、この裁判では、こういう人たちが提訴を決意してきたのです。これが、この人たちの、自分たちを人間として解放する、という最初の一歩だったのではないかと思います。私たちはこの裁判を通じて、本当に皆さんがひとつひとつ自分の殻を脱いで、心の壁を開いてくる、そういう場面に出くわしました。何度も何度も感動しました。その話を少しずつしていきたいと思います。 まず、最初の弁論のときに、法廷に入れたということを、入所者の方々は喜ばれるのです。法廷に入れた、嬉しい、と言われるのですね。今まで、社会のいろんな場所で排除されてきた人たちだったんです。しかも、裁判に行くと、一般の市民の人たちが大勢来てて、自分たちを支援してくれるんですね。これも入所者の方たちにとっては大変な驚きと感動でした。弁論の後毎回報告集会をやったんですが、この報告集会は本当に熱気あふれるものになっていました。鹿児島に星塚敬愛園という療養所があります。ここは熊本まで大変距離があって、遠いところです。けれども、星塚敬愛園の原告は、毎回毎回大勢で車に揺られて、熊本までやってきてくれました。高速を使っても、片道五時間ぐらいかかるんですね。休み休み来られるので。車の中で吐きながら、気分を悪くしながら、毎回熊本までやってきていただいてました。その星塚の中心にいた女性の原告の人たちがこんなことを言ってくれたんです。私たちは裁判を始めたとき、この裁判は三年で解決すると宣言していました。ずっと三年、三年と言いつづけてきてたのですが、この星塚の女性の原告たちが、裁判がこんなに楽しいなら三年でやめないでほしい。そう言われました(一同笑)。本当に嬉しかったです。そう言っていただいたときは。 私たちは原告の方たちがすごく元気になって、この裁判への確信を深めていかれている、その過程をずっと見てきました。私たちが見ていて、原告の人がここが転機で変わったなという場面が実はいくつかあって、その中で一番大きかったのは原告本人尋問だったと思います。原告本人尋問を準備するというのは、実は担当した弁護士にとっては非常に大変な仕事でした。私たちは最初に陳述書をつくり上げてしまっていて、その陳述書に基づいて尋問を準備するということだったんですが、打ち合わせに入ってみると、陳述書には出ていない事実が出てくるんですね。それも被害を語る上では、とても重要な事実です。その事実を聞いて帰って、次の打ち合わせに行くとまた違う事実が出てくるんですね。一遍には話されないんです。少しずつ、少しずつしか心の壁はとけていかないんだということを思いました。そしてこの作業をする中で、原告の方自身が、自分の被害を、被害として明確に意識していかれる。そのことがとてもよくわかりました。そして、その結果として、原告本人尋問やったんですが、この後、原告本人尋問をやった方々は本当に強くなられたということを思いました。さらけ出すだけの自分をさらけ出して、あともう何も恐くないといったそういう感じを受けました。この方たちの多くは、各原告団の中でその後中心的な存在になって原告を引っ張ってこられました。そして判決後の東京での行動の中では、それまで園を出たこともなかった方が、この方も原告本人尋問で尋問を受けた方なのですが、初めて遠く東京までやってきて法務大臣と会って話をする。多くの人たちが大臣と会って話をするということまでやることができるようになったんです。 私たちは判決のときも、たぶん判決の時の原告の方たちの解放感というのは格別のものだったろうと思うのですが、その原告の方たちの姿を見ながら、弁護士の私たち自身が本当に大きな感動をもらっていたと思っています。 今の状況は先ほど谺さんが発言されました。私たちは全面解決に向けて、今、厚生労働省と対峙して交渉を続けているところです。大きく問題は二つあって、一つは裁判のほうがまだ終わらない。なぜかというと、遺族と、それから入所経験のない人について国が和解を拒否している。これで私たちはまた判決をとらなければいけなくなりました。今、証拠調べを準備しているのですが、一二月には結審して、三月には判決をもらおうと思っています。もう一つは先ほど谺さんも言われた、恒久対策を含む被害者の人たちの要求実現の問題です。特に大きいのは、谺さんも言われましたが、今療養所にいる人たち、この人たちが出たいというときには、出れるという状況にするということ。このことがすごく大事なことだと思います。予防法が廃止になって裁判にも勝って、だけど外に出たいけれども出れない、この状態が実は今も続いています。これでは隔離をやめたということにはなりません。日本が強制隔離をやめる日、それは谺さんが胸を張って療養所を出て行く日なんだろうと思っています。 この新しいたたかいの中で、実はまた新しい人たちが、どんどん、どんどん自分を解放して、行動に参加してきています。特に退所者の人たちの活動には目覚しいものがあります。退所者の人たちはこれまで本当に社会の中でひっそり暮らしてきました。人によっては、療養所と関係があるもの、これはいっさい自分の目に触れないようにする。療養所のころ一緒だった人とは付き合わない、という生活を送ってきた人もいるんですね。その人たちが、今政府に対して要求を突きつけるこの活動の中で、手をつなぎ始めているのです。私たちが、交渉だ、あるいは国会ローラーだということで東京に集まってくると、この人たちがたくさん東京に集まってきます。本当に今まで長い間会わなかった友達同士で、やあ何十年ぶりだとかと言って東京で握手している姿をよく見かけます。そして今まで黙っていた退所者の人たちが、この交渉の中で本当によく喋る、私はこれを今また感動をもって見つめています。 それから退所したいと言っている人たち、この人たちも今東京のほうにどんどんやってきて、大臣の前や、それから国会議員の前で話を始めています。一人の菊池恵楓園の女性がこの前初めて東京に行きました。で、政党ヒヤリングの中で、自分の思いを話したのですが、この話は参加していた国会議員を圧倒しました。私も非常に感動しました。この人は、今まで一度も園を出てそういう場所に行ったことがない人だったのです。その人がこんな話をしたんですね。「私は四〇年も菊池恵楓園にいます。一度も外に出たことがありません。どこにも行ったことがありません。私は死ぬまでに退所したいです。社会生活をしてみたいです。だけどどうしても私を退所させてくれないのなら、私が死んだとき、私の骨を私のふるさとの山にまいてください。散骨してください。そうすれば私はふるさとの山から自分のふるさとの村を眺めることができます。そしてその骨は雨に流れて、川へと流れていって、海へ流れて、私は行ったこともない世界中を旅することができるだろうと思います。それが私の夢です。どうか私をふるさとに帰してほしい。療養所の人たちはみんなふるさとに帰りたいんだ、私は療養所の納骨堂には入りたくありません」。そんな話を、生まれて初めて飛行機に乗って、東京に行った人ができるようになっていく。私たちは本当に胸の詰まるような思いで、先日の国会ローラーをやりました。 こういういくつもの感動的な場面を経験しながら、私たちがやることができたこと、果たしたことは何だったのか。私たち、つまり弁護士のことなのですけれども、弁護士が果たした役割は何だったのかなあと考えます。もちろん弁護士ですから、法廷活動を必死でやるという、これは当たり前のことなのだと思います。けれど、それを超えたもっと重要なことがあったように感じています。原告と一緒に被害の現場にいるということ、被害者と共に泣いたり、笑ったりするということ、そこの中でお互いに―もちろん弁護士もです―お互いに自分の心の壁をといていくという、そういう作業をしてきた。そのことが原告と私たちとを本当にしっかり結び付けてくれたのだと思っています。そしてそのことは、この裁判に勝つということの要因の大きなひとつになっただろうと思いますが、それだけではなく私たち弁護士の側をとても豊かにしてくれたと思っています。 というふうにまとめると、ちょっとカッコよすぎるかなあと思っていて(笑)、さっき構成劇を見てて、私すごく安心したところがありました。団の先輩の弁護士たち、特に松川だとか、ああいうのが出てくるとすごいなあと思って、いつも見ていたんですが、さっきの話の中で、のめりこむという言葉が何度か出てきました。ああ、そうか、先輩たちものめりこんだんだと思いました。ちょっとなあんだと思って、ほっとして。結局私ものめりこんだんだと思います。だけれども、のめりこまなければ勝てないという現実があったり、のめりこんではじめて経験することができる感動がたくさんあったと思います。私はその感動を与えてくださった原告の人たちに本当に深く感謝しています。 きょうもこの会場に何人も原告の方が見えていらっしゃいます。これからまだまだたたかいが続きます。本当に原告の方と、心ひとつにしてこれからもがんばっていきたいと思っています。どうもありがとうごさいました。(拍手) |