No.6

2001年3月3日
弁護団つうしん 発 行
ハンセン国賠訴訟西日本弁護団

熊本市京町2−12−43
TEL096-322-2515
FAX096-322-2573

  

         

       大きな喜びをもって

                                弁 護 士 八 尋 光 秀

 熊本訴訟第1陣は平成13年1月12日結審し、5月11日午前10時判決言い渡しの運びとなりました。
 提訴からおよそ2年6ヶ月。原告、弁護団は審理の促進と充実に努めてきました。私達の期待を上まわる支援会の熱い活動に勇気づけられ、はじめ掲げた目標に少しは近づくことができました。
 2月6日、7日両日、上京し、衆参全議員を訪ねて、この問題の真相究明と早期解決を求めました。主義、思想、社会的立場、党派をこえて、すべての議員がひとつとなって取り組み解決すべき課題であることを訴えました。
 と同時に、各療養所を訪ねて、原告の方々を中心にこの裁判の経過を説明し、また、各地の支援の方々の理解を求めてゆきます。
 私達は90年の歴史的総括をするための第一歩として、裁判所の判断を求めました。私達だけの力には限りがあり、許された時間もまた十二分ではありません。しかし、今こそ人間の尊厳と基本的人権を軸とした、歴史的総括に踏み出さなければならない、そう考えました。
 私達は不正義が行われた場所に正義をもたらす行動に参加できたことを誇りに思い、喜びを感じています。
 判決は、この国での初めての司法判断となります。国が行ったハンセン病政策、すなわち日本型の強制隔離政策の誤り、そしてこの政策と法によって侵された人間の尊厳と人権の重さを正しく指摘することを期待し、確信します。失われた社会正義と人間の良心に対する信頼を回復する鍵を与えてくれると思います。
 皆さんとともに、私達は大きな喜びをもって5月11日の判決を迎えたいと思います。
 ご支援よろしくお願いします。


  
    原告127人分が結審
      勝利判決を確実なものに


                               弁 護 士 藤 田 光 代

 去る1月12日、ついに第1次から第4次提訴の127人(第1陣)について、熊本地裁での審理が終結しました。
 当日結審にあたり、原告2名と弁護士2名が意見陳述を行いました。まず、東日本弁護団から鈴木利廣弁護士が、訴訟の広がりを前提に、被害の深さを語りつつ、熊本地裁への期待を込めて、「公正な判決を」と陳述しました。
 次に、藤田が原告本人尋問に現れた被害は切り取られたほんの一部に過ぎないこと、裁判所は原告らの被害の深さをきちっと見て、その被害を救済し解決するとの立場で、90年にわたる被害の歴史に応える判決を切望すると陳述しました。
 3番目に原告番号38番が、母親を求めてやまない幼い娘と引き離されて行く収容の場面を涙ながらに語りました。母から引き離された幼い4才の子どもが母を求めて、一人で港に行っては「母ちゃんをみなかったですか?」と尋ねていたそうです。余りの切なさに心が痛みました。
 そして最後に大島青松園の薬師寺さんが、初めてマスコミにも自分の名前を明らかにして、これまで弁護団にも語らなかった自らの断種や妻の堕胎を、涙で言葉を詰まらせ、そして体を震わせて語りました。その悲しみは法廷にいる全ての人を包み込みました。
 この後、被告もこれまでの主張を繰り返す意見陳述を行いましたが、原告が語った「事実」の前では空疎なものでしかありませんでした。国の意見陳述が終わるや八尋弁護団代表が立ち上がり、すかさず反論を行いました。予定にはなかったのですが、国の事実を踏まえない余りにひどい意見陳述に対して、代表が燃えた場面でした。
  判決は来る5月11日午前10時です。原告、弁護団一丸となって裁判所の心に食い込む運動をたゆまず行い、勝利判決を確実なものにしましょう。



       初めての国会対策
        全国会議員を訪問

                                 弁 護 士 古 賀 克 重

 13年2月6〜7日の2日間,東京・永田町の衆参両院の議員会館を回り、全国会議員に要請書を提出する,いわゆる「国会ローラー」を行いました。
 具体的には,東、瀬戸内、西の弁護団70名,原告・支援者約100名が国会に集結し,3名から5名前後のチームを作り、議員会館の各議員の部屋を回り、資料とともに説明を行って回りました。
 議員会館の1階で、面談申込書に必要事項を記載して受付に提出します。すると、受け付けが議員の部屋に電話をして、「ハンセン国賠弁護団の○○さん、陳情です。」と内線で連絡します。そして、面談受付書をもらい、警備の人に見せて、議員会館のフロアーに入ります。そこから各議員の部屋へと向かうわけです。
 議員会館に出かけられた人はそれほどいらっしゃらないと思いますが、各議員には、議員の力に関係無く、一律に狭い部屋が与えられています。廊下の片側に15から20でしょうか・・議員の部屋が並んでいます。部屋は半開きにされており、ノックして入ると秘書が2、3名おり、奥の部屋には議員の部屋があります。
 その部屋を1チーム20前後の議員を担当して、説明して回るわけです。
 この2日間で70〜80名程度の議員と直接面談することができました。突然の訪問、かつ、KSD問題など混迷を極める状況の中ではかなりの確率だったといえます。
 さらに与党の公明党のヒアリングが実施できましたし、菅直人自ら出席した、民主党の力を入れたヒアリングなど大きな成果をあげることもできました。
 全国連では,司法だけでなく,国会引いては世論にも訴えかけながら,全面解決を図っていくつもりです。
 次は5月11日の勝利判決とともに,一人でも多くの原告の方々と国会を回りたいと決意を新たにしています。




      国会議員訪問に参加して

                                  原 告  竪 山   勲

 原告、弁護団の皆様毎日ご苦労様です。
 去る、2月6,7日の両日、衆参両院の全議員に対する要請行動に同行いたしました。
 寒暖の差が厳しい異常気象の中、参加された弁護団、支援の会、原告総勢約100名の皆様ご苦労さまでした。
 今回の行動に対する私の思いは、何と言っても厚生労働大臣を抱える、与党公明党の皆さんに、何とかこの戦線に加わって戴きたい、その一念で有りました。
 公明党は立党の時より「人間の生命の尊厳」を基調とした、仏教哲学の上に生まれた政党でもあります。
 私の父母、兄姉も熱心な学会員でした。しかし、その様な学会家族の上にも、「らい予防法」は容赦なく襲い掛かって来ました。「らい」であった母は、入所しなかった為に治療も受けられず、痰が喉に詰まって窒息死。そして私の強制入所。父の死を知ったのが七回忌の後。更には兄の死も初七日の夜、電話で知らされました。姉は子供を抱えての離婚。それも私と母が「らい」で有った為。一家離散に近い状態で故郷を追われた家族たち。
 今の私達に出来る事、それは被害の実態を語ること。
 帰り際、公明党の議員の皆さんと握手を。「この事は人権の事ですから、頑張ります」
 私の手をしっかりと握り締めた女性議員の、目に頬に溢れた涙を、私は信じます。
 今後とも、異体同心で頑張りましょう。




  ハンセン病違憲国賠訴訟全国弁護団連絡会は2月6〜7日、衆議院、参議院の全国会議員を議員会館に訪ね「要請書」を手渡し、問題解決へ向けて理解と国会の場における協力を要請しました。
 その際手渡した要請書の全文は次のとおりです。


       「要請書」の全文です。

要請の趣旨

 私たちは
@ハンセン病問題の徹底糾明を国会が行うこと。
A全面的な解決のため、国の責任を前提とした解決を図ること
を求めます。
 なお、要求する解決の事項と内容については、全面解決要求書をご参照下さ
い。

要請の理由

1 なぜ法廃止後に違憲国賠訴訟か
 昭和28年に制定された「らい予防法」は平成8年4月1日に廃止されました。我々が療養所の入所者からの手紙をきっかけに、国を被告とし、一人1億1500万円の賠償を求めて熊本地裁に提訴したのは平成10年7月31日のことです。その後、東京地裁、岡山地裁へと裁判は広がり、当初13人の原告は現在、全国で596人を数えるに至りました。
 すでに廃止された法の違憲性を訴える異例の裁判が起こされたのはなぜか、その裁判の原告が今も増え続けるのはなぜか。それは法がなくなった今も、かつてハンセン病に罹患し、国の政策によって奪われた自由が戻らず、無知な社会の差別偏見が消えず、元患者達の名誉回復がなされていないからです。そしてその根本原因は、平成8年のらい予防法廃止が、国の責任を検証することなく実行されたことあります。ハンセン病問題は、未解決の課題であり、決して過去の問題ではありません。

2 ハンセン病とは
 ハンセン病は適切な療養をしないと手足の末梢神経がおかされる感染症ですが、病気を引き起こす「らい菌」の感染力・発症力はもともと非常に弱いものです(このことは法制定以前から国の政策担当者が認めていた事実です)。
 ハンセン病は、戦後、特効薬プロミンの開発によって治る病気になりましたが、それ以前からも我が国での発生は急速に終焉に向かっていました。それは社会の衛生状態・栄養状態の向上によるもので国の隔離政策とは無関係だという評価が医学上の定説です。

3 国の政策の誤り
 ハンセン病が極めて感染力・発症力が弱いことは「らい予防法」制定の昭和28年当時に既に定説でした。にもかかわらず我が国は、患者の9割以上を収容し、治癒患者の退所を想定せず、子孫を残すことを認めないという、世界でも特異な絶対・終身隔離政策を採用しました。また療養所内では、長年に渡り患者に対する強制作業が行われ、患者に深刻な後遺症を残しました。その結果、入所者は法により発生・助長された偏見により家族との関係を切断され、残存する後遺症と頼るべき子供もない状態となり、多くの者が社会復帰の道を閉ざされたのです。
 このような非科学的かつ非人道的な「らい予防法」が制定されたことには当時の国立療養所の三園長(医師)が、すでに治る病気、うつらない病気になっているという医学上の知見を無視し、絶対隔離政策の継続強化を求める意見を国会で述べ、それが無批判に法律化されてしまった、という経緯があります。学会の権威者の意見と厚生省の前例踏襲主義が、もっとも弱い人たちの人権を徹底的に奪っていった、という点で、ハンセン病問題と薬害エイズの問題は同じ構造を持っています。しかも、この政策決定には、三園長や厚生省のみならず、国会の責任の存在も否定できません。

4 原告らの深刻な被害(過去と現在)
 療養所に強制収容された患者らは、貧困な医療、強制労働や、断種堕胎の強行など多くの人権侵害を受けました。退園しても、啓蒙の不足から社会の偏見が消えないことから、らいを病んだことを隠し、孤独や貧困と闘いながら生活することを強いられました。患者のみならず、その家族も、患者との別離、偏見による縁談の破談など、多くの悲劇に見舞われました。
 現在も、全国13の国立療養所で、4500人ほどの人々が、帰る故郷も頼れる親族もないまま生活しており、その平均年齢は70歳を超えています。
 非科学的非人道的な法律と政策が多くの人々を苦しめてきたのです。

5 裁判の現状
 熊本地裁では、提訴後三年もたたない今年の5月11日に判決が出されます。この種の訴訟として異例の早さであり、これは原告らの深刻な被害にいかに裁判所が心を動かされたかの証左です。
 国相手の裁判にも関わらず、元および現職の厚生省職員、療養所園長が、原告のために証人にたち、その政策の誤りを強く批判する、というきわめて異例な経過をたどっています(別紙資料をご参照下さい)。原告ら本人の証言も多くの驚きと怒りを裁判所にもたらしています。

6 徹底調査と全面解決
 戦後最大の組織的・長期的人権侵害であるハンセン病問題の真の解決のため、国会による徹底調査と国の責任を前提とした解決策の策定は急務です。ぜひともその責任を果たされたく、要請します。

 
     「要請書」に添付されたものは------
 この「要請書」に添付して、@全面解決要求骨子(第2次案)、A訴訟の歩み、B和泉、犀川、大谷、成田各証人の証言骨子、C原告10人の訴えの要旨が付けられています。
 そのほか各弁護団作成のパンフレットなどが添えられて各国会議員に渡されました。




弁護団ダイアリー

2001年
1.6     奄美和光園説明会
1.7     弁護団作業(福岡)
1.11    弁護団会議(熊本)
1.12    熊本地裁弁論(第1陣結審)
1.14-15  全国連冬合宿(多磨全生園)
1.30    瀬戸内訴訟邑久光明園検証
2.3     宮古南静園説明会
2.6-7    国会ローラー
2.6     全国連(東京)
2.14    第12次提訴(60人)
2.15    弁護団会議(福岡)
2.18    日弁連人権擁護委員会との意見交換会
2.18    星塚敬愛園説明会
2.23    大島青松園説明会
2.25    長島愛生園説明会
2.26    瀬戸内訴訟長島愛生園検証
2.26    宮古南静園説明会