心の壁からの解放

―ハンセン病国賠訴訟―

弁護士 国宗直子

 

<強制隔離政策>

 Aさんは、31歳で菊池恵楓園に強制隔離された。結婚して間もない妻を故郷に残してきた。入所から3年後には正式に離婚した。

 Aさんは、強制隔離政策を、植木に巻く針金のようなものだと言う。体に巻かれた針金は、次第に体の中に食い込み血肉化する。気がつくと心の中までグルグルとがんじがらめに縛られている。次第に心は萎え、強制隔離の生活の中にどっぷりとつかってしまう。

 「最初にガクッときたのは離婚の時だったなあ。もう何もする気にもならなかった。もうここを出て行こうという気にもならなくなりましたよ。」

 でも、Aさんは付け加える。

 「あの判決まではね。」

 Aさんに、もう一度社会で人間として生きられるかもしれないという希望をもたらした2001年5月11日の熊本地裁判決(杉山判決)は、90年間にも及んだ日本のハンセン病に関する絶対隔離絶滅政策の誤りを断罪し、この隔離政策を継続してきた厚生省と法律を廃止しなかった国会の行為を違法として国家賠償責任を認めた。

 日本の強制隔離政策は徹底していた。戦後において実施された強制隔離の嵐は、日本のハンセン病患者のほとんどを全国に散在する国立・私立のハンセン病療養所の中に押し込んだ。このため、単なる感染症にすぎず、戦後は特効薬で容易に治癒するハンセン病は、強烈な伝染病として人々に恐れられる病気となった。軽症のまま治癒して退所できた人も、あるいは例外的に収容を免れ通院治療を受けることができた人も、自分がハンセン病に罹患したという事実をひたすらに隠し続けなければならなかった。

 こうして、私たちは日常生活の中で、ハンセン病患者、あるいは元ハンセン病患者という人に出会うことはなくなった。この問題に出会う機会もなくなった。問題そのものも壁の向こう側に隔離されてしまったのだった。

 壁は人の心の中にも築かれた。ことに、隔離の被害者の心の中には、今でも容易に解けない高い高い壁が築かれた。

 奄美大島にある奄美和光園は、昭和18年に、ハブの巣だったと言われる名瀬市近郊の谷あいの場所に開設された。今でもハブはいる。ここに住むBさんは、もうすぐ92歳になる。1938年の1月に星塚敬愛園に収容され、戦後奄美和光園に移された。収容歴は何と64年に及ぶ。そのBさんがこう言った。

 「ハブは恐くないよ。人間の方がずっと恐い。恐い人間がいるから外には出て行けない。私はずっと園にいたいよ。どこにも行きたくない。」

 

<裁 判>

 裁判は本来権利を実現する手段にすぎない。しかし、水俣病訴訟や、薬害エイズ訴訟を経験して、裁判をたたかう中で、生き生きと自分自身を取り戻す人たちを見てきた。そして、このハンセン病国賠訴訟で、私はその意をより一層強くした。人間性を奪われてきた人たちにとっては、人権裁判は、裁判そのものが人間解放の舞台にもなるのだと。

 壁の中で暮らす人々にとって、裁判は革命だった。

 まず、提訴するということだけでも大変な決意を必要とした。

 国立療養所の入所者は国の手のひらの上で暮らしている。国に対して裁判を起こすなど、子どもが親に歯向かうようなものである。療養所の中でも当初は提訴者に冷たい目が注がれた。

 「国のお世話になっているというのに」と。

 退所者は、自分がハンセン病療養所にいることを、ひた隠しに隠して生きてきた。裁判など起こして人に名前でも知られることになれば、今まで築いてきた人生がふいになるかもしれなかった。

 それでも、一人ずつ、一人ずつ、決意して立ち上がってきた。心の壁を少しずつ解いて。まず提訴を決意すること。そこから彼らの人間解放は始まっていったのだ。

 

<私の手を見てください>

 奄美和光園のCさんは、その後和光園の原告団をまとめてきた人。自治会長を経験したこともある。そんなCさんでさえ、提訴を決意したときに握手を求めたら、自分の手をさっと後ろ手に隠した。

 「こんな手だから。」

 彼は障害をもった手を恥じていた。私はその手を強引に取った。少しはにかんで笑うCさん。それからは、Cさんは、少しずつ自分から手を出すようになった。そして、名瀬市で開いた市民集会のとき、Cさんは自分の両手を高々と挙げた。

 「皆さん私の手を見てください。これはハンセン病の後遺症です。療養所では手に疵を作ったりすると、丁寧に治療してくれずに、すぐに切断と言って簡単に指を切り落とされました。」

 

<3年で裁判を終わらないで>

 鹿児島の星塚敬愛園は、裁判に対する園内での締め付けがことさら厳しかった。しかし、敬愛園の原告団には、この裁判を始めたのは我々だという誇りがあった。この敬愛園の原告団を、そしてこの裁判全体を終始リードしてきたのは、敬愛園の女性原告たちだった。

 熊本地裁での弁論や証拠調がある度に、彼女たちは男性原告や支援の人たちと、車で4〜5時間かけて熊本までやって来た。ある女性原告は車の中で吐くからと、朝から一日中何も口にしなかった。

 熊本に来れば、大勢の支援の人たちにも会えた。こんなにたくさんの人が応援してくれるとは思ってもいなかった。時間をかけて作ってきたお菓子をみんなに振る舞う。

 「私たちの作ったものを、おいしいって、いやがらないで食べてくれる。」

 この裁判の中で、支援の人たちの果たした役割は大きかった。

 ところで、弁護団は裁判の当初から、「この事件は3年で解決する」と方針を決めていた。早期に解決しなければ救済にならない、と。

 ところが、彼女たちは、ある時裁判から帰る途中でこう言ったと聞いた。

 「裁判は楽しいねえ。こんなに裁判が楽しいなら、3年で終わらないでほしいねえ。」

 

<判決を守ろう>

 控訴断念へ向けたたたかいには、語り尽くせないほどのたくさんのエピソードがある。原告たちは誰もが、杉山判決に自信を得ていた。判決は、単に1960年以降の厚生省の施策が、そして1965年以降の国会の不作為が違法だと言っているだけではない。そもそも隔離政策は必要でなかったと言っている。

 1953年、入所者らが命を賭けてその阻止に向けてたたかった「らい予防法」についても、1953年の時点で何ら合理性はなかったと言っている。

 「私たちのたたかいは正しかった」

 だからみんな、今度こそこのたたかいに勝利するのだと心に決めていた。

 判決に力を得たのは原告だけではなかった。まだ裁判に加わっていなかった入所者たちもこの判決に興奮した。

 判決直後、弁護団は各療養所に入り、みんなに提訴を呼びかけた。「今みんなで立ち上がることが、国に控訴断念を迫る力になる。みんなで判決を守ろう。」と。

 本当に多くの人がこの呼びかけに応えてくれた。それまで裁判をためらっていたAさんも、「立ち上がるのは今しかない」と提訴を決意した。杉山判決はAさんに、再び生きる希望をもたらしていた。心にまで食い込んだ針金を、何とか解いてみようと思ったのだ。

 5月21日、全国3地裁(熊本、東京、岡山)に全国一斉大量提訴を行った。このときの全国の提訴者は923人にのぼった。これは国へのカウンター・パンチとなった。

 

<控訴断念させるまで俺は帰らん>

 菊池恵楓園のDさんは、最初に裁判を始めた13人の原告の一人だ。Dさんはよく転ぶ。転んで頭に怪我したこともある。一人でとことこと歩いていかれると、私は不安で駆け出して探して回る。そのDさんが、東京にやってきて、「小泉首相が控訴を断念するまで熊本には帰らない。」と言う。どうやら本気だ。最後まで本当に控訴断念に至るかどうか確信の持てなかった私は不安になった。私は5月24日には帰らなければならない。

 「だめだよ。結論はどうでも、24日には帰りますからね。」

 「いや、俺は帰らん。控訴したらそれを取り下げるまで帰らん。一人でも大丈夫。どこにでも泊まれる。心配いらん。」

 こうなるとDさんはてこでも動かない。

 長期化すれば私もすべての予定をかなぐり捨ててDさんと一緒にいるしかないかと、そんなことを考え始めていた。

 23日夕刻、控訴断念のニュースが流れた時、集まっていた原告や支援の間からウワーッと歓声があがった。泣けた。判決の時より嬉しかった。判決は判定勝ちだが、これはみんなの団結の力でもぎ取ったKO勝ちだった。

 反面、私は、「これで明日は帰れる。」と胸をなでおろした。

 

<人間らしい生活を>

 判決は事件の終わりではなく、解決の道への始まりである。解決のルートは判決の確定後裁判と交渉の2つのルートで始まった。

 しかし、国は転んでもただでは起きない。厚生大臣の謝罪行脚、裁判での和解、ハンセン病補償法での補償金の支払いなどの目処が、つくと、国は攻勢に転じた。遺族、入所経験のない原告については和解を拒否した。厚労省と進めていた交渉はすべて暗礁に乗り上げた。

 この国の姿勢は、また多くの原告たちを立ち上がらせる結果となる。

 9月21日、桝屋副大臣が退所者の声を聞くと約束していた日、全国から100名にものぼる退所者原告が東京に集まった。これまで、退所者は社会の中に隠れて暮らしてきた。病気の過去は誰にも語れない秘密だった。療養所での知り合いにはできるだけ会わないようにしてきた。そんな人たちが、横に手を伸ばし、その手をつなぎ始めたのだ。

 退所者の語る社会での生活の辛さは、副大臣の心をとらえた。「今日は聞くだけ」と言っていた副大臣が、最後には、「国からの回答は最終決定ではありませんから」と言わざるを得なくなった。

 この日は退所を希望する入所者原告も集まった。家族から引き離され、子どもを作ることも許されず、ハンセン病後遺症の障害をかかえて高齢化した入所者たちには、「隔離政策はやめた」と言われても、出て行くところもなければ、出て行って暮らす経済力もない。石もて追われた故郷には、帰りたくても帰れない。国の取る社会復帰・社会生活支援策がどうなるかは、本当の意味で国が隔離政策をやめるかどうかの試金石なのだ。

 長島愛生園のEさんは、12歳のときに園に連れてこられた。園を抜け出して会いに行った母親に、「もう来てはいけない」と言われた。その後母親は家族と共にどこかへ引っ越して行った。Eさんはその母親を、判決確定後、40年ぶりに探し当てた。「母と共に暮らしたい」。これがEさんの今のささやかな夢である。

 「やっと人間になれて、これから人間らしく暮らしていきたいと思っているのに、厚労省の提案では生活保護と変わらない。これまで隔離に苦しめられてきた私たちに最低限度の生活をしろと言うのか。人間らしい生活は保障されないのか。」

 彼は副大臣に詰め寄った。

 

<ふるさとの山に骨を撒いてください>

 10月15〜16日、厚労省が協議を再開することを求めて国会ローラーを行った。あわせて、各政党のヒアリングも行った。

 菊池恵楓園のFさんは、このとき生まれて初めて飛行機に乗って東京へ行った。

 「飛行機にいっぺん乗ってみたかった。」

 まして、Fさんは、これまでに人前に出て話をしたことなどなかった。

 そのFさんが、自由党のヒアリングで自分のことを話した。少女の頃の隔離のこと、両親の悲しみのこと。いよいよ、ヒアリングも最後になり、しめのあいさつが終わったとき、帰り支度を始めた国会議員を前に、Fさんが、小さな声で、「もう一言だけ私にしゃべらせてください」と言った。思わずみんながFさんを注視した。

 「私はできることなら退所したいです。でもそれがかなわないならば、私が死んだらその骨を、ふるさとの山に撒いてください。ふるさとの山からだったら、私のふるさとの景色も見えると思います。私は、ずっと園にいて、どこにも行ったことがありません。今日は、一大決心をして、生まれて初めて飛行機に乗ってここに来ました。もし私の骨が山にまかれれば、その骨は雨に流され、川に流れて、水に運ばれて海にたどり着き、私は行ったことのない世界中のいろんなところに行けるでしょう。それが私の夢です。園の納骨堂には入りたくありません。療養所の者はみんなふるさとに帰りたいのです。どうか、私たちを、ふるさとに帰してください。」

 誰もが黙ってその話に聞き入った。

 

<2キロの道のりが遠かった>

 社会に隠れるようにして生きてきたのは退所者ばかりではない。家族もまた、愛する肉親を奪われ、家を消毒され、世間の目にさらされ、ある者は故郷を離れ、一家離散となり、ある者は入所した者と縁を切った。

 遺族のGさんが気になったのは、入所者の幾人かは、被害を訴え、名前も明らかにしているのに、今和解を拒否され、いよいよ判決を受けようという遺族はまだ誰も、人前に出ていないことだった。

 「たくさんの人の支援を受けなければならないのに、遺族の顔は見えないままでいいのだろうか。」

 Gさんは決意した。ためらう気持ちは、何度となく去来する。

 「自分はもうするだけのことはしてきたからいい。だが、息子たちはどうか。息子たちの将来に傷をつけることにならないか。」

 それでも、無念のうちに亡くなった父を思うと引くに引けなかった。

 11月1日、熊本での集会。400人の聴衆を前に、初めて隔離に奪われた父のことを語った。

 「父は奄美和光園に42年間収容されていました。私の住んでいる所と奄美和光園は2キロメートルの近い距離です。車で5分、歩いて30分とかかりません。しかし、父は3人の子供たちの結婚式にも参加しませんでしたし、私どもも参加させる勇気がありませんでした。父は盆とか正月とかに帰宅していましたが、決して昼間に堂々と帰ってきたことはありません。常に人目のつかぬように、夜中にこっそり家に来ました。この2キロメートルの道のりが、家族にとっていかに遠い茨の道であったかは、当事者でなければ分かりません。」

 Gさんの決意を知った息子は、原稿の手直しを手伝ってくれた。

 

<語るべき言葉を取り戻して>

 この裁判の中で、多くの人たちが、少しずつ心の中に築かれた高い壁を取り崩し、人間としての自分を取り戻していった。それは、隔離によって奪われた、自分自身の言葉を取り戻すことでもあった。心の中にまで食い込んでいた針金は、ようやく溶けて流れていこうとしている。

 私たちは、ハンセン病問題の最終解決に向けて、今、大きな山を越えようとしている。ひとたび取り戻された言葉は、強く、大きく、多くの人の胸を打つ。もう誰も、この人たちの誇りと、自信と、言葉とを奪い取ることはできない。

 そして、私はこのたたかいにたくさんの宝物をもらったように感じている。

 奄美和光園の長老だったHさんは、私によくこう言っていた。

 「あなたはいい仕事をしていますね。これはあなたの財産になりますよ。」

 Hさんは、判決の前の年の暮れ、判決を見ないままに亡くなった。

 Aさんのところには、丁度判決の頃、1通の手紙が届いた。30年ぶりの前の妻からの手紙だった。繰り返しテレビや新聞で流される裁判のニュースに触発されての手紙だった。昔の思い出や、昔の知り合いのことなどが書かれていた。そして、「私も被害者でした」とあった。

 Aさんは、その後、前の奥さんとの手紙のやり取りを続けている。誰々さんは今はこうしている、あの人はこんな風になっている。そんなたわいのない話題が、Aさんにとっては驚きであったり、懐かしかったり。

 明日という日に希望が持てるということ。そんな人間としてごく当たり前のことを、隔離政策は奪ってしまっていた。

 取り戻した言葉で、明日を語ろう。夢を語ろう。たとえ、残された人生がそれほど多くはないとしても、その一瞬一瞬を人として生きよう。誰にも縛られず、誰をも恐れず。

 最終解決が勝ち取れたら、少し奄美でのんびりしたい。白い花を買って、Hさんの霊前に手向けよう。そして、一言言いたいのだ。

 「ありがとうございました。」と。