心の壁を解いて 〜ハンセン病国賠訴訟〜

 

熊本県 国 宗 直 子

 

2001年5月11日、熊本地方裁判所は歴史的判決を言い渡した。事件は「らい予防法」違憲国家賠償請求西日本訴訟。判決は、90年間にも及んだ日本のハンセン病に関する絶対隔離絶滅政策の誤りを断罪し、この隔離政策を継続してきた厚生省と法律を廃止しなかった国会の行為を違法として国家賠償責任を認めた。

私たちは、裁判長に敬意を表し、この判決を「杉山判決」と呼んでいる。

その後の控訴断念までの経緯は、マスメディアによって全国津々浦々にまで届けられ、多くの人にハンセン病のこと、強制隔離のこと、裁判のことを知らしめることになった。この報道の中で、初めてハンセン病のことを知ったという人も少なくなかったと思う。

日本の強制隔離政策は徹底していた。戦後において実施された強制隔離の嵐は、日本のハンセン病患者のほとんどを全国に散在する国立・私立のハンセン病療養所の中に押し込んだ。このため、単なる感染症にすぎず、戦後は特効薬で容易に治癒するハンセン病は、強烈な伝染病として人々に恐れられる病気となった。軽症のまま治癒して退所できた人も、あるいは例外的に収容を免れ通院治療を受けることができた人も、自分がハンセン病に罹患したという事実をひたすらに隠し続けなければならなかった。

こうして、私たちは日常生活の中で、ハンセン病患者、あるいは元ハンセン病患者という人に出会うことはなくなった。この問題に出会う機会もなくなった。問題そのものも壁の向こう側に隔離されてしまったのだった。

壁は人の心の中にも築かれた。ことに、隔離の被害者の心の中には、今でも容易に解けない高い高い壁が築かれた。

壁の中で暮らす人にとって、裁判は革命だった。

奄美大島にある奄美和光園は、昭和18年にハブの巣だったと言われる谷あいの場所に開設された。今でもハブはいる。だが、入所者のNさんはこう言った。「ハブは恐くない。人間の方がずっと恐い」。

そんな人たちが、人前に出るかもしれない裁判に立ち上がることは容易ではなかった。 療養所の中でも裁判に対する批判はあった。「国のお世話になって生活しているのだから」と。

それでも、一人ずつ、一人ずつ、決意して立ち上がってきた。心の壁を少しずつ解いて。

最初提訴を決意したときに、握手の手を差し伸べると、障害を持つ手を後ろ手に隠していた人たちが、おずおずと手を差し出せるようになった。

裁判に対する園内での締め付けがことさら厳しかった鹿児島の星塚敬愛園の女性原告たちは、終始この裁判をリードしてきた。弁論や証拠調がある度に、車で片道4〜5時間かけて熊本までやってきた。そして、多くの支援の人たちと出会うことで、さらに心を広げてきた。「裁判は楽しい。こんなに裁判が楽しいなら、ずっと裁判が終わらないでほしい。」と言ってくれた。

長い間、記憶の片隅に閉じ込めてきた、断種や堕胎の話も、少しずつ話せるようになった。Tさんは、裁判をたたかう中で、生まれたばかりの自分の子どもを殺された記憶を鮮明に取り戻した。

Yさんは、最終弁論の日、それまで療養所の仲間にも、担当の弁護士にも話してこなかった妻の堕胎と自分の断種の話を、意見陳述の中で初めて語った。

Sさんは、8歳で入所した。時あたかも桜咲く4月。春爛漫のその日、少女舎へ向かう坂を登りながら、「一歩一歩が暗いトンネルでも入っていくような感じ」を受けた。療養所の世界を所与の現実として育った彼女は、園を出るなどということを考えたこともなかったし、妊娠して堕胎するのは当然のことだった。妊娠すること自体が許されない恥ずかしいことだった。そのSさんが、控訴断念を求めるたたかいの中で、遠く離れた東京までやってきて、大臣と会って「控訴をやめてほしい」と話をした。

自らを何重にも取り囲む壁を突き崩すたたかいをたたかい抜くこれら人たちと共にあって、私はこの人たちと出会うことのできた幸福感にひたされてきた。これは、何にも代えがたい私の宝になった。

 判決は確定し、各裁判所での和解協議も山を越えた。今後は真相究明と恒久対策が重要課題となる。しばらく課題は続くが、それらが解決したその後も、私はこれらの人々とのつながりを自分の心の拠り所とするだろう。議論や事務作業に疲れると、その度に療養所に出かけていって勇気をもらってきたように、これからもこれらの人々は私を励まし続けてくれるだろう。年老いてもなお心の壁を解いて前を向いて生き続ける人たちは、私の人生の宝であり続けるだろう。