2000年12月8日 「らい予防法」違憲国賠訴訟結審前1000人集会
手を取りあおう!人として

基 調 報 告


弁護士 国 宗 直 子

ごあいさつ

 今日は平日の夜という困難な状況の中に、これだけだくさんの皆様においでいただき、ありがとうございます。

提訴の状況

 2年半前の1998年7月31日、星塚敬愛園と菊池恵楓園の13人の在園者が熊本地裁に裁判を起こしました。

 国立の療養所に暮らしながら、国を相手に裁判を起こすことは大変なことです。いろいろ言う人もあったと思います。年齢も決して若くはありません。現在療養所にいる方々の平均年齢は70歳を遥かに超えています。それでも、あえて、この13人の人たちは立ちあがりました。

 私たちは当初、この裁判を優位に進めていくためには、全国で最低500人の原告が必要だと考えていました。しかし、こんなに早く、その目標を達成し、さらにその後も広がりつづけるということを予想していませんでした。

 裁判は、まず東日本に、そして瀬戸内に広がりました。

 現在までに、西日本訴訟では、第1次から第11次までにわたって448人、全国では596人の原告団になりました。

 これらの人たちは、やむやまれぬ思いで、これだけはきちんと主張しておきたいという気持ちで、裁判に参加された方々です。

 私が印象的に覚えているのは、今年の6月、第10次で提訴した原告の、提訴の際の言葉です。
 「家族の事を考えると、いろいろ悩みました。何度も提訴をためらいました。でも私は、自分自身を解放するために提訴を決意しました」
 この方はそうおっしゃいました。

 日本のハンセン病隔離政策は、多くの人たちの体を療養所に閉じ込めただけではなかったのです。心までがとらわれてしまいました。今多くの原告は、自らの心を解き放って、自らの生きた証としてこの裁判をとらえられているように思います。

裁判の進行

 さて、裁判は、これまでに、13回の弁論と、1回の検証と、8回の出張尋問を終え、明日14回目の弁論は第1陣の人たちの結審を迎えるにあたっての最終弁論を行うことになりました。

 今回結審するのは、第1次提訴から、第4次提訴までの127人についてです。

 私たちは、これまでの裁判の中で、勝つための立証を進めてきました。

(責任立証)

 まず、責任を立証するために、3人の証人の証人尋問を行いました。
 本日お見えの和泉先生、犀川先生については、あとで直接お話を聞いていただきたいと思います。もうお一人は、大谷先生でした。

 大谷先生は、
「自分としては良かれと思って療養所の中の待遇改善を行ってきたが、それは小役人的な小手先の仕事だった。らい予防法が間違っていたのだから、それをもっと早くに廃止すべきだった」
と、証言されました。

 大谷先生を初めとする三人の証人の尋問は、発病力の弱いハンセン病に対して、国が患者を絶滅させるための絶対強制隔離政策をとってきたことは、憲法に違反し、違法であることを、余すところなく明らかにしました。

 それから、隔離施設の中で暮らすということが、どういうことなのかを裁判所に感じ取ってもらうために、菊池恵楓園の検証も行いました。

 一度菊池恵楓園を訪ねてみてください。ここでは園の中だけで暮らすのにこと足りるだけの設備があります。国は、ゲートボール場などの遊戯施設もあって、福祉に役立っているということを説明しようとしました。しかし、スーパーマーケットや遊戯施設が療養所にあるということは、まさに、社会との接点を絶たれて、園内だけで生活するようにという、隔離の姿なのです。

 この閉鎖された社会の中で、多くの原告は、社会から切り離されて生きることを余儀なくされたのです。

(損害立証)

 次に、損害、つまり被害の大きさを立証するために、邑久光明園の青木先生に証人として証言していただきました。
 青木先生は、瀬戸内の3つの園(大島青松園、長島愛生園、邑久光明園)での調査を元にして、在園者の方々が、強制収容、強制作業、断種・堕胎などのために、どんなに苦しまなければならなかったかを、証言してくださいました。

 そして、裁判後半のハイライトは、何と言っても、原告本人尋問でした。

 原告本人尋問は、法廷で3回、原告の自宅で1回、そして西日本の各地の4つの園(大島青松園、長島愛生園、星塚敬愛園、奄美和光園)で行われました。

 何人もの原告が、まるで動物のように狩り立てれてきた強制収容の話をしました。強制収容は、戦後もありました。たとえ、山の中で人と接触しないように、ひっそりと暮らしていても、追い詰められ、強引に収容されてしまいました。

 国は昭和30年代までは強制収容があったが、その後はなかったという主張をしています。それは、すでにその頃までに日本のハンセン病患者のうち9割を収容し終えていたからです。
 しかし、実は強制的な収容はその後も続きました。ある原告は昭和48年に園にはいることを余儀なくされたことを証言しました。ひとたびハンセン病にかかれば、症状が軽かろうが、その後良くなろうが、ハンセン病療養所にしか行き場がない。それが1996年まで続いた日本の隔離政策、「らい予防法」の実態でした。

 また、ある原告は、少年の頃に園につれてこられ、何度か園を抜けて、自宅に様子を見に行っていたのですが、母親からもう家には来るなと言われた辛い経験を証言しました。

 また、断種を受けたときの屈辱感を証言した男性や、園内で宿った命を無理やりに堕胎されられてしまった女性の証言もありました。これらの話は、たとえ証言とは言え、人前で話すことはとても辛いことでした。

 また、療養所では、幾組もの夫婦がひとつの部屋で雑居して暮らしていた時代が長くありました。結婚しても、他の夫婦と布団をならべて寝た様子も証言されました。私たちに今そんな生活を想像することができるでしょうか?

 作業の辛さについては、多くの原告が共通して体験したことでした。重病者の看病や、包帯まきや、裁縫、教師の代わり、建物を建築するための土木作業、農作業。証言の中に現れた作業は実に多種・多様でした。

 すでに園を出た退所者の証言もありました。園を出て暮らすためには、療養所にいたという過去をひたすら隠して、偽りの生を生きるしかありませんでした。

 こうして、私たちは24人の原告の本人尋問を終えました。

国側の証人

 国は当初、証人の予定はないと言っていました。ところが今年の7月になって急にどうしても証人を調べてほしいと言ってきました。やむを得ず今年の10月と11月国側の証人として3人の証人を調べました。

 国は、20年以上も前のことについては責任を負わないという除斥期間の主張と、この20年間は人権侵害はなかったという主張をしています。国側の3人の証人は、いずれもこれを立証するための証人でした。

 厚生省の官僚である岩尾証人は、不誠実な尋問態度に終始しました。原告側からの反対尋問では、基本的な事実関係についても無知であることをさらけ出しました。

 星塚敬愛園の園長である今泉証人は、原告が勝つようなことがあれば療養所内での処遇を見直すことになるといった、原告と裁判所とを恫喝するような証言をしました。しかし、この点については、裁判長が、「あなたは裁判を受ける権利を知っていますか?」「裁判をしたことで不利益を受けないというのが裁判を受ける権利ではありませんか?」とたしなめるような尋問をする場面もありました。

 興味深かったのは、沖縄の園の園長を過去に勤めて、現在は大島青松園の副園長である長尾証人の尋問でした。
 長尾証人は、当初は国の主張にそった尋問を繰り返していたのですが、原告からの反対尋問で、
「ハンセン病療養所にいる人たちは最も苦しんだ人たちである。最も苦しんだ人たちには最も幸せになる権利がある。だがまだ、この人たちは幸せにはなっていない。」
また、
「療養所を出た人たちも、差別や偏見のために療養所にいる人たちと同じように苦しんできた。」
と証言されました。
 たとえ、国側の証人ではあっても、事実に対して誠実であろうとされたのだと思います。

これから

 今回結審するのは、127人だけです。
 裁判はこれからも続きます。しかし、私たちは長く裁判を続けるつもりはありません。すでに原告の中で提訴後に亡くなった方が5名います。時間がたっぷりあるわけではありません。

 判決は来年の春、あるいは初夏あたりになるでしょう。
 判決には勝たなければなりません。
 そして来年の夏かあるいは秋には東京の裁判も結審します。

 私たちは、熊本での勝利判決をてこに、東京では裁判所に解決勧告を出してもらい、国民的な大きな運動を展開して、国に解決を迫っていこうと考えています。従って、みなさんの支援がとりわけ重要になります。運動の力が解決のための原動力になるのです。

決 意

 先ほど長尾証人の話をしました。
 長尾証人の証言で、最も胸を突かれたのは、
       「これまで法律家は何もしてこなかった」
という言葉でした。それは法廷で吐露された、法律家への不信でした。

 私たち弁護団は、だからこそ、今必死の思いで立ち上がった原告と、固く、固く団結して、国の誤りをただすまで、最大限の力を尽くしていく覚悟です。

 どうか、皆様も、共に歩いてくださるようお願いいたします。