2002年公害弁連総会議案書原稿

ハンセン病訴訟

 

熊本県 弁護士 国宗直

 

1 はじめに

昨年の総会議案書には、1月の結審までの訴訟の動きを紹介した。そして、原告の全面解決要求に基づく解決の展望を示し、5月11日の判決はこの全面解決に役立つ判決でなければならない、と書いた。

それからのこの1年は、ハンセン病問題にとって文字通り「激動の1年」となった。

この1年を概観すると、判決前の動きは、判決による解決のための仕込みの時期だった。国会を動かし、療養所の入所者団体である全療協と連帯し、支援の輪を大きく広げた。その総まとめが5月10日の熊本での2000人集会の成功だった。

5月11日の判決とこれに続く政府の控訴断念は、原告らの勇気に満ちたたたかいと、これを支援した広範な国民の圧倒的な勝利となり、日本のハンセン病隔離の歴史に大きな楔を打ち込んだ。判決の評価や控訴断念を求める歴史的なたたかいについては、すでに多くが語られたのでここではあえて触れない。

判決後、原告団・弁護団は全面解決をめざし、その総力を結集したたたかいを展開した。

ここでは、その判決後のたたかいに焦点を絞って論じることとする。

 

2 2つのルートでのたたかい

原告団・弁護団が当初から設定していた全面解決の柱は、@謝罪、A賠償、B恒久対策、C真相究明、であった。

Aは訴訟が担う課題であり、基本的にはこれは5月11日の判決が示した線での解決が図られていくべきものであった。

他の3点は、5月11日の判決の枠組みを超えたものであり、私たちはその舞台を直接厚生労働省と協議することに見出していくことになった。

こうして、判決後のたたかいは、司法ルートと厚労省協議ルートの、2つのルートでたたかわれていくことになった。

このいずれのルートにおいても、厚労省・国の抵抗は激しく、判決後の控訴断念とそれに引き続く厚労大臣・副大臣の各園への謝罪行脚等にもかかわらず、依然厚労省は解決へのイニシアチブを持っていないことが明らかになっていった。2000人をはるかに超える大原告団がその総力を結集することよりほか、たたかいの道はなかった。

控訴断念を求めるたたかいが、「夏の陣」であったとすれば、厚労省の壁を打ち破る秋のたたかいを私たちは「秋の陣」と呼んだ。そして、最終的に司法ルートに残された遺族原告、入所歴なき原告の和解を勝ち取るたたかいは、「冬の陣」としてたたかい抜かれた。

 

3 司法ルートでのたたかい

1) 国は、控訴断念後、賠償問題の解決のためにハンセン病補償法を制定し、ただちにこれを施行し、補償を実行に移した。これは生存するすべての隔離の被害者に補償を実現するものである点では高く評価できるものであったが、他方、これは原告団を牽制するものであったし、原告団と他の被害者との分断を図るものでもあった。原告団は、補償法による「補償金」を拒否し、あくまでも国の責任を明確化する「賠償金」の支払いを求めた。

2) この問題の解決は法務省との交渉で内容が煮詰められ、7月16日、東京地裁がその内容を和解勧告し、7月19日には熊本地裁でこの内容に基づく和解が成立した。7月22日には、原告団と厚労大臣との間で、基本合意が正式に調印された。

基本合意は、@国は謝罪を行うこと、A杉山判決に従った一時金を支給すること、B国の法的責任の基づいて恒久対策を行うこと、という3つの柱を確認している。これにより、司法解決のルールが確立し、熊本、東京、岡山の三地裁で、次々に和解が成立していった。

また、基本合意の内容は、賠償以外の課題の解決のルート、すなわち厚労省協議ルートへの道を開いた。

3) しかし、この基本合意では、「死亡者の相談人である原告及び入所歴なき原告に対する一時金については、なお協議する。」とされ、問題が持ち越された。3地裁のうち、これらの原告を擁するのは熊本地裁のみであった。7月27日、熊本地裁は遺族原告及び入所歴なき原告の双方について損害賠償請求権がある旨の和解所見を公表した。原告団・弁護団は、国が早期にこの和解所見を受け入れることを求めた。しかしながら、国は、その後1ヶ月以上にわたって回答を出し渋ったあげく、9月12日、この和解の受入を正式に拒否するに至った。

4) 原告団・弁護団はただちに判決態勢に入った。11月2日には入所歴なき原告らについて原告本人尋問を行い、原告らの被害の実態を裁判所の前に明らかにした。これまで全くと言っていいほど知られていなかった入所歴なき原告らの被害の実態は多くの人の心を動かした。

訴訟は、12月7日に結審した。熊本地裁は結審直後、2度目の和解所見を公表した。これは、具体的な賠償額の算定基準を明らかにするものであった。しかも裁判所は、早期解決を図るため、長期にわたって国の回答を待つつもりはない、とまで言い切ってくれた。

5) 原告団・弁護団はただちに国を和解に追い込むための運動を展開した。12月18日には、全国から300人の原告、支援者らが東京に集まり、国に決断を迫った。国は容易には結論に至らず、裁判所は12月18日3度目の和解所見を公表した。追い詰められた国は、回答期限をずるずると引き延ばしつつ、12月26日に至ってようやく和解のテーブルについた。年明けて、1月28日、原告団と国とはついに基本合意に至り、1月30日、遺族原告、入所歴なき原告の最初の和解が成立した。これをもって、司法ルートでの問題はすべて解決し、全面解決することとなった。今後は個別の和解、新たな提訴の処理等が残されている。

 

4 厚労省協議ルートでのたたかい

1) 厚労省等の間での協議は、年末までに5回持たれた。協議は当初から、厚労省の反省も配慮もない対応に対する不信感が原告側から表明され、困難が予想された。

2) 協議は、@謝罪・名誉回復、A在園保障、B社会復帰・社会生活支援、C真相究明、の4つの作業部会に分かれ、それぞれの課題を協議外で煮詰めながら、5回にわたる協議を進めてきた。特に、Bの社会復帰・社会生活では、高齢でかつ後遺症を抱えた入所者であっても希望すれば退所が可能になる制度をめざして、果敢にその道を切り開いていった。

3) 厚労省の頑なな姿勢に風穴をあける突破口となったのは、9月21日に開かれた退所者原告団と厚労副大臣との面談の場だった。退所者の被害の実態が、厚労省の前につきつけられた。さらに、10月15~16日には全国から100人を超える原告らによって、国会ローラーと政党ヒアリングが実施され、慌てた厚労省はようやく開催の目処すらたっていなかった第4回協議を開くことを約束した。引き続く11月16日の第4回厚労省協議で、初めて厚労省は社会復帰・社会生活支援問題で退所者給与金制度の創設を提案し、原告団はこれを受け入れた。

4) 他の各作業部会でもそれぞれの地道な努力が続けられ、この間大きな成果を得た。ただ、C真相究明の課題では、厚労省の抵抗により混迷を深め、体制をスタートさせることができないままでいる。

5) 12月25日、年も押し詰まった日、全療協をも含めた統一交渉団と厚労省とは、各課題において到達した成果を確認する確認事項に調印した。これにより、国のハンセン病対策の基本的な枠組みを作ることができ、残された課題についても明らかにされた。厚労省協議ルートでの全面解決である。

 

5 今後の課題

1998年7月31日の提訴以来、3年半の時を経て、ハンセン病訴訟は全面解決を見た。しかし、これで終わりではない。残された課題は膨大である。厚労省との間では今後定期的に協議を続けていくことが確認されている。その中では、各作業部会で積み残された課題での前進が図られなければならない。真相究明の課題はようやく緒についたばかりである。戦前の植民地での隔離の被害の問題はまだ手付かずのまま残っている。今後は、地方自治体での施策も重要になってくる。厚労省との確認をベースに、新たな施策の展開を求め続けていかなければならない。訴訟も、すべての和解が終了するまでにはまだ時間がかかる。原告団・弁護団は今後もハンセン病問題の最終解決に向けて、厚労省と対峙し続けていくことになるだろう。

ただ、私たちが切り開いた陣地はけっして小さくない。原告団の団結した力が、ここまでの成果を勝ち取ってきた。私たちはこのことに確信を持ちつつ、次のステップに進んでいこうと思う。

 

6 終わりに

ハンセン病訴訟のたたかいに、様々な支援、助言をくださった皆様に心からの感謝を申し上げたい。特に、これまでの公害闘争の数多くの経験から多くの教訓を提示してくださった公害弁連の諸団体、先輩弁護士たちの熱い支援には、大きな励ましを得てきた。ここで改めて御礼の言葉を述べてこの稿を終わる。