2002年自由法曹団5月集会新人弁護士研修での講演から(2002年5月25日) ハンセン病訴訟を担当して 弁護士 国宗直子 |
こんにちは。国宗といいます。よろしくお願いします。 きょうは新人研修ということで、人に研修でしゃべれるほどえらくないんですけれども。少しお話させていただこうと思ってきました。私は環境問題だとか子供の人権問題が自分の本籍地だと思ってます。今ハンセン病のほうに出向させていただいているという感じなので。今日後でお話いただきます村田先生とは日弁連の公害環境委員会で一緒にお仕事させていただいている仲です。 きょうはハンセン病のことでということでいわれましたので引き受けました。他のことで話せるようなことはほとんどないんです。ハンセン病のことだったら話してもいいと思うのは、この裁判が一体なんだったのかということをできるだけ多くの人に知ってもらいたいという気持ちが私の中に強くあるからです。今日の話で感じてほしいことはどういうことかというのをまず説明します。 |
今日話したいこと 一つはハンセン病訴訟を闘ってきた原告の人たちがどういう人たちだったのかというイメージを持ってもらいたいということ。それからその中で弁護士が弁護士としてなしえたことがなんだったのかということを考えてほしいということ。そしてこの裁判自体の社会的な意味はいろいろあったと思います。いろんな人がいろんなことを言っているわけですけれども、原告や私たち弁護士にとってこの裁判がなんだったのかということ。それを感じとってほしいと思っています。 新人の弁護士とはいえ、昨年判決があった時には、修習生だったんですよね。だから当然判決とか興味を持ってみていただいたんではないかなと思うので、裁判での争点だとか法律的な論点だとか、そういったことについては今日はあまり話をしません。ただ前提となる事実について、少し聞きかじっていても、あまり詳しくない人のために簡単に少し説明をしたいと思います。 |
ハンセン病について まずハンセン病という病気ですが、この病気は大した病気ではないと、もうそう言ってしまっていいと思います。インフルエンザのほうがずっと重大な病気だというくらいに大した病気ではありません。感染もあまりすることはないといわれていますし、最近では結構感染は容易にするかもしれんという学説もあるのですが、ただ発症することはほとんどない。日本の社会の中で発症するということはほとんど例外的なものですし、発症したとしても今は風邪薬より効く薬があって、もう大して心配がない病気になっています。そういう意味では隔離しなければいけない伝染病では全然ない。感染症という言い方をしていますけれども、そういう病気です。 このことは今になってそうなったというわけでは実はありません。ここはとても大事なことだと思うのですが、隔離するほどの伝染病ではないということは、実はこの100年前に隔離政策が始まった時からわかっていたことでした。隔離政策が始まった当時も、そんなにうつる病気ではなかったんで、それで割と社会の人たちは共存するという形で生活できていたのだと思うんです。日本では長い間ハンセン病は遺伝病だと信じている人たちがたくさんいました。だから日本で隔離政策が始まる前に存在していた差別、偏見の中にはあれは遺伝すると。だからハンセン病の家系だと。当時「らい」という言葉で呼ばれていたのですけれども、らいの家系だというふうに言われたりしていました。なんで遺伝病と思われるかというと他にはうつらないということを知っていたからです。濃密な人間関係の中でうつる、あるいは一定の体質とか免疫の状態で発症しやすい病気なので、そういう免疫を生み出す体質が似通っているということもあったと思うのです。そういう意味で遺伝病だという誤解をされていた。そういう病気でした。 |
強制隔離政策 隔離政策が始まったのは1907年。最初は「浮浪らい」と呼ばれる定住しない移動する人たちがいたんです。「砂の器」というのを見たことがある人がいらっしゃれば、巡礼という形でハンセン病の患者さんが町から町へずっと歩いていくという場面があります。そういう「浮浪らい」を取り締まるという、取締法として1907年に「癩予防ニ関スル件」という法律ができました。1916年には、法改正により懲戒検束権というのが正式に認められます。もともとこのハンセン病の療養所の所長になるような人はどういう人だったかというと当時はお医者さんではなかったのです。警察官上がりみたいな人が所長になったりしていた時代でした。この懲戒検束権が法的に認められることで、ハンセン病療養所というのが治外法権の強制収容所ということになっていったわけです。 そして1931年に「癩予防法」という法律が改めてできます。この法律は全てのハンセン病の患者を強制的に療養所に収容するという法律でした。しかもその患者をいったん療養所に入れたら出さない。そこで病気をではなくて患者を絶滅させてしまうという療養所でした。ですからいったん入ったらもうここで一生を終えるのだということが療養所の中では常識化されるようなものでした。 この時期、1940年代なのですが、熊本では本妙寺というお寺がありまして、市内に近い所なのですけれども。その本妙寺というお寺は、本来加藤清正を奉っているところなのです。この加藤清正はなぜかハンセン病に関しては霊験あらたかな神様であるということになっていまして。このお寺の周りにハンセン病の患者さんがたくさん集まってくるということがありました。そして一定の集落を持って、自治組織を持ってそこで自活して生活されていたんですが、ここがある日警察官に急襲される。襲われて全員が全国の療養所に収容されるという、本妙寺事件と呼ばれる事件もこの時代に起きています。 そしてその頃スローガン的に叫ばれたことはなんだったかというと、「民族浄化」。つまりハンセン病の患者は穢れたものだと。このヤマトの国にふさわしくない。この「民族浄化」のために各都道府県では、うちの県にはハンセン病患者は一人もいないということを実現するために、「無らい県運動」というのが展開されました。これは戦争の流れの中で、非常にファナティックに行われました。 |
戦後の変化 そして戦争が終わりました。戦争が終わった時に療養所には大事な二つの新しい動きがありました。 一つはプロミンという薬が日本にきました。これは1940年代のはじめにアメリカでハンセン病に効くということで開発された薬だったのですが、戦争中だったので日本に入ってきませんでした。これが戦後日本に入ってきます。そして日本に入ってきただけではなく、日本ですぐに簡単につくれるようになりました。これは今までなかなか急激に治るということがない患者さんたちに対しても、とてもよく効きました。よくコマーシャルで使用前使用後っていうのがあるのですが、ほんとにそれぐらい使用前使用後という写真が使えるくらいに本当によく効いたということがいわれています。これでみんなすごく希望を持ったんです。今までと違うのではないか、自分たちにも新しい人生が開けるのではないかという希望を多くの人たちが持ちました。 もう一つ療養所にあった大きな変化は民主主義です。戦後民主主義が療養所にもやってきました。今までずっと管理されてきた患者さんたちが生活改善運動をやる。いろんな要求を療養所に突きつける。そういったことがありました。それからプロミンが病気に効くということがわかるようになると、プロミンよこせ運動というのが大々的に展開されるんです。これはどういうことかといいますと、プロミンが効くということがわかって全国の療養所にただでみんながプロミンの注射を打てるようにしてほしいという要求があったのですが、最初のうちは予算に限界があるからできないということだったのです。当時の厚生省が出した予算を大蔵省が大幅に削るということがあったので、これに療養所の人たちが立ちあがってプロミンよこせということで、大蔵省の予算を更にもとに戻させるという運動をやりました。こういう運動をやると、やはり自分たちでも何かできるぞと普通思います。これがどこに結びついていくかというと、自分たちはプロミンで治るようになったし、将来の夢が持てている。そういう状況の中で、もう「癩予防法」なんていらないのではないか、当然そう思うわけです。この法律を改正せよということで療養所の中の動きというのは急速に高まっていったんです。 ところがそれがどうなったかというと、1953年に新しいらい予防法という法律が成立して、隔離はそのまま、しかも前の法律よりもっと厳しいのが、例えば逃走罪、逃げたら罪になるという条項まで入れられて、隔離がそのまま維持されるということになったのです。この1953年の法律が、1996年まで長々と維持された。1996年にやっと法律が廃止されたのですけれども、この「廃止法」がどういうものだったかというと、らい予防法を廃止する。今まで療養所にいる人はそのまま療養所にいてもいいですよ。それだけだったのです。 この廃止にあたっては、当時の厚生省の大臣が菅さんでしたが、法の廃止が遅れたことについてお詫びしますという謝罪をしました。遅れたことというのはどれくらい遅れたのか、いつからいらない法律になったのか、ということは全く明らかにされませんでした。国の方針はなんだったかというと、謝らない、償わない、そして園にいれば面倒を見てやる。これが廃止法路線でした。 |
裁判へ 裁判が始まったのは1998年の7月だったのですが、予防法が廃止されてから既に2年が経っていました。なぜ裁判が起きたかというと、この廃止法路線ではイヤだという人たちがいたということです。ですから当然中身は、謝れ、償え、これからちゃんと社会復帰するということについてのきちっとした施策をとれ、これは福祉ではなくて償いとしてとれと。そしてなんでこういうことが起きたのか、二度とこういうことを繰りかえさないための真相究明をちゃんとやれ。これが裁判をはじめた人たちの要求でした。 昨年の判決はとりあえず償いの部分の一部を、本当に一部だと思うのですが、一時金を払うという一部の部分を認めてくれた。実は私たちはその後もずっと闘いつづけていました。あまり一般で報道されなくて特に療養所のある地域では、新聞報道もあったのですが、ない地域では判決後どうなったのかよく知らないという方もいらっしゃると思います。要するに私たちは一時金は償いの一部だと思っていますから、ちゃんと償わせるためには、例えば療養所を出たい人にはちゃんと出れるという施策を取ってもらわなければいけないわけです。それから真相究明もちゃんとやってもらわなければいけない。それから療養所をもう出ていけないと思っている人もたくさんいます。この人たちについて療養所で療養するということを保障しなければいけない。そういう在園保障の問題も残っていたわけです。 |
判決後の交渉 こういった問題を判決の直後から私たちは厚生労働省と交渉をはじめました。実は厚生労働省は煮ても焼いても食えないというか、いろんなことをやってきました。判決直後に厚生労働省は本当に日本の国としてはすばやい法律をつくったんです。ハンセン病補償法という法律をつくったのです。1ヶ月そこいらででてきた法律です。これは療養所にいる人、それから療養所を退所した人全員に判決と同レベルの補償金を払うという法律なんです。その法律自体私は悪いとは言いたくないのですが、少なくとも全員救済の道を開いた法律ではあるのですが、なんで急いでそういう法律が出てきたかというと、もうこれ以上原告が増えては困るということだったのです。当時1500人ぐらいが原告となっていたのですが、原告を増やさない。なんで原告を増やしたくないかというと、その後の厚生労働省との交渉がどういうふうな展開になっていくかということを厚生労働省はやはりしっかりみていたのだと思うのです。これ以上原告が増えては困るという認識のもとに、補償法を本当に急いでつくって補償法でのお金の支払いは原告よりも早くしようということで、めちゃくちゃ急いでものすごく無理な法施行というのをやりました。それくらい厚生労働省は私たちがやろうとすることに対しては、転んでただでは起きないということをその後繰り返し繰り返しやってきました。 判決後、焦点になったものがいくつかありますが二つだけ紹介します。 一つは退所者給与金制度というものをつくらせようとしました。それまでの国の方針はどういうものだったかというと、療養所を出たいという人については250万円支給すると。ただしこの250万円は社会復帰に役立てるというものなので、何か物を買ったらその領収書を厚生労働省に提出するとお金を出してあげるという制度でした。だからまず買わなければいけないわけです。買って領収書をもらったらその領収書に対して厚生労働省がお金を払ってくれる。それが250万でした。 療養所にいる人たちはどういう人たちかといいますと、平均年齢がもう74歳を越えました。 療養所に収容された時に家族と断絶してしまった人がたくさんいます。だからもう故郷に帰れるという状態ではないです。しかも療養所の中では結婚が認められましたけど、断種や堕胎が強制されて、子どもがいない人がほとんどです。そうすると養ってくれる子供もいないです。 しかもハンセン病の後遺症があります。この後遺症もただハンセン病になったから自然にできたというものではなくて、療養所はもともと強制収容所でしたから医療設備が整っていたわけではないし、医療スタッフも最初から不十分でした。だから、療養所内の作業というのは療養している人がしなければいけない。そういう場所でした。ハンセン病の症状の特徴の一つとして、手足の感覚障害というのがあるのです。この感覚障害というのはものすごい、ほとんどなにも感じないといっていいくらいの感覚障害なのです。私は水俣病をやっていたので水俣病の感覚障害というのを随分見てきていたのですが、水俣病はかなり鈍いという程度の人が多いんですが、ハンセン病は全く感じないというのがほとんどです。この人たちが例えば作業するとなるとどうなるかというと、例えば建設の作業とかやったりすると、板とかに釘があったりしますね。この釘を踏み抜いても気がつかない。一日の作業が終わって自分の部屋に戻って靴を脱ごうとすると脱げない。なんで脱げないかと思ったら下から釘が刺さってるというんです。本来こういう感覚が鈍い人たちにそういう作業はさせるべきではない。それが療養のはずですが、実はこういうことが行なわれた。そして怪我をすると気がつかないので、ばい菌が入って腐ってきます。そうするとそれを例えば病棟のほうに見せに行くと、「もう切りましょう」と言われるんです。簡単に切られてしまう。切る時も本当に簡単な手術で、どうせ感じないでしょうというようなかたちで、簡単に切られてしまう。私の知っているある原告の人は、病棟に行くと足を切るといわれるからといって、病棟から消毒薬とかガーゼとかを自分で勝手に持ってきて自分の部屋でこっそり治療した人がいるんです。おかげで足を切らずに済んだ。そういう人もいます。ですからそういうふうなことで手足の欠損、あるいは手指の欠損というのが日本の療養所の患者さんの中にすごく多いです。あとハンセン病で目の見えなくなった方とかも結構いらっしゃいます。 そういう人たちが250万円もらって家族もなくてどうやって社会で生活すると思いますか。これはもう不可能ですよね。私たちは強制隔離政策が間違っていて、そのことについて償いをするというのであれば、まず療養所から出て生活をしたいという人に対しては、その人がちゃんと生活できるような補償をすべきだということを主張していました。ところが厚生労働省というのはいつまでも廃止法路線が頭から離れない。つまり面倒みてやっている。これは福祉政策なわけです。そこから頭が離れないので、最初は毎月8万位なら払っていい。毎月8万では生活できないですよね。その次に14万ぐらいなら払っていい。これは生活保護のレベルです。ここで交渉は暗礁に乗り上げてしまった。つまり福祉から一歩も出れないということを厚生労働省は主張していたのです。 これをやはり打ち破るために全国的な運動を展開しなくてはいけなかった。この時に中心になった人たちというのは、もちろん療養所の中にいて出たいという人もものすごく頑張ったのですけれども。既に出ている退所者といわれる人たちが本当にこの交渉を粘り強く頑張り抜きました。退所者の人たちというのは裁判でいうと少し遅れた人たちだったんです。最初にやっぱり療養所にいる人たちが先に立ちあがって裁判はじめたので、退所の人たちがワアッと提訴するようになるというのは、本当に判決後のほうがむしろ多かったと思うんです。この人たちが運動の中心になっていってこの厚生労働省の認識を覆していくという広範な運動をやりました。 もう一つ判決後のポイントは、遺族に対して、あるいは入所歴がない人たちに対して国が補償するかということがひとつ大きな問題になりました。これもよく考えるとバカみたいな話なのですけれども。皆さんわかりますよね。本人が当然損害賠償請求権があると国が認めたわけですから、これを相続する人は当然相続人として裁判を起こしますよね。他のいろんな交通事故やほかの損害賠償請求で当然やっていることですけれども。国はこの人たちと和解しないとあくまでも頑張ったわけです。それから入所歴がない人たち、この人たちも社会の中で本当に生活していくのが大変だった人たちですけれども、この人たちについても補償しないということで頑張って、裁判所は早くからこういう人たちにも損害賠償請求権があるんだという所見を出しているにもかかわらず、頑張ってしまった。要するに償うという発想ではなくて、福祉ですから、広げないということが非常に国の命題としては大きかったのだと思うのです。これも原告団が立ちあがって解決させるということに本当に頑張ってもらって今年の1月にようやく国との間で和解ができるという状況まできました。大体そういう概要で裁判というのをやってきたんですが、きょうお話したいのはその中で私たちがどういうことをしてきたのかということです。 |
一番難しかったこと 弁護士としてこの裁判で一番難しかったことは何かということですけれども。一番難しかったのはなんといっても、被害の聞き取りだったと思います。この被害の聞き取りというのは本当に高度なイマジネーションを要求されました。何十年も療養所の中で暮らしている人たちの生活を、私たちの日常生活からはとてもやはり想像できないのです。そこにあるいろんな人としての痛みというものを私たちは想像しないといけない。この作業が、私たちにとっては一番大変だったのだと思います。 理由その1 聞き取りが難しかった原因にはいくつかあって、複合的に原因が重なっていたと思うのですけれども。まず最初の原因としてひとつ思うのは、療養所の中では被害が被害として意識されていないということがありました。 だからただ療養所に行ってどういう被害を受けましたかと質問しても誰も何も話をしません。今は幸せだからいいですみたいなことを言う人もたくさんいます。長い間一つの人権が侵害されている状態が続いていくと、それは生活の中ではすごく当たり前のことになってしまっているんです。自由に療養所から出て行けなくてもそれが当たり前。職員の人が威張っていてちゃんと治療してくれなくてもそれが当たり前。そういうことの中で一体その被害がなんなのかということが、実際被害を受けている人自身が自覚できないというそういう状況があるんです。これは私たちの生活の中で身を置換えて考えると、あまり適切な例ではないかもしれませんが、うちは旦那も働いていて、私も働いている。家に帰るとまず家事をやるのは誰かというと、私なわけです。今性別役割分業というのは国際的な両性平等の関係では非常に重要な概念になっていて、この性別役割分業をどう克服していくかというのが、国際人権課題なわけです。だけど、自分の生活の中できょう自分が台所に立っているからといってすごい人権侵害を受けているというふうにはあまり感じない。それと似たようなことが療養所ではもっと違ったレベルで続いてきていたのだと思ってもらったらいいかなと思うんです。自分の人権が侵害されていてもそれが当たり前になり自覚できないという状況の中で話を聞いていくというのはとても難しいんです。つまり私たちが何が被害かということをわかってこないと、その人から被害を聞き出せないわけです。いろいろ話を聞いていく中でこういう被害があるんだとわかってくるとそのことを尋ねることができるようになる。そのことを尋ねることができきるようになるまでというのが、ちょっと大変だったかなと思います。 |
理由その2 二つ目の原因は、被害自体がものすごく深刻だったということだと思うのです。これは高度なイマジネーションが要求されたと言いましたけど、はっきり言って私たちの想像力をやはり超えていたと思うんです、被害が。だから最初にそれがわかってくるというのがとても難しかった。私たちは最初に原告全員の陳述書というのを裁判所にドーンと出すというそういう時期があったのですけれども。ほんとに陳述書をつくるのに大変な作業をしたわけですが。今その時の陳述書を見ると、なんにもわかってなかったなと思います。ましてや提訴をした時に私たちは被害の実相をなんにもわかっていなかったと思います。まず心を開かないと話をしてくれないというのがありますよね。自分が本当につらかったことを人に話をできるようになるというのは一定の信頼関係が必要なわけです。一回や二回行っただけでは本当の話というのは聞けないわけです。 私が担当したある原告は今年92になるおばあちゃんがいます。このおばあちゃんは奄美大島の奄美和光園という療養所があって、私は奄美和光園を担当していまして、このおばあちゃんといろんな話をします。そのおばあちゃんは与論島から和光園に来たんです。与論島というのはハブがいない島なのです。ところが奄美大島というのはハブがいて奄美和光園というのはハブの巣みたいなところにつくられた。本当に辺鄙なところにつくられた療養所だった。私が「最初にここに来た時にハブ怖くなかった?」と聞いたんです。そしたらハブなんて全然怖くない。人間のほうが怖いというふうに言うんです。そのおばあちゃんは本当に外が怖いのです。そのおばあちゃんがある時転びました。転んでもう年齢が年齢なので骨が弱くて、転んだだけで大腿骨骨折をしてしまったんです。骨折の治療が療養所ではできないということで、県立病院に入院させられるのです。県立病院に私はお見舞いに行ったのですけれども、療養所だと割とリラックスしているそのおばあちゃんが県立病院では本当に小さくなっている。小さい体なんですが、それを一層小さくして身を固くして病院のベッドに寝ているのです。その部屋は大部屋で6人ぐらいの人が一緒にいるお部屋ですが、他の人たちにすごく気を使うのです。クリスチャンで、カトリックの信者さんなので、シスターとかもお見舞いにきてくれたりするのですけれども、私が「お見舞いにきてくれてよかったね」とかいうと、来ないほうがいい、周りの人たちに気を使うから来ないほうがいいというんです。そして私にいつ退院できるかと聞くんです。いつ療養所に帰れるのかって。そんなのは看護婦さんとかお医者さんに聞けばいいんだよと言ったら、聞けないと言うんです。自分の病状について質問することすらできない。それくらい人が怖い。外の人が怖いのです。自分たちを差別していじめる人たちだと思っている。だから例えば弁護士が療養所の外から行って話を聞かせてくださいと言っても、簡単に心は開けないのです。何度も何度も話を聞いて信頼関係つくって、お互いに共感し合いながら話をしていかなければとても話なんか聞けなかったのです。 例えば、療養所を出てくる時のお母さんと別れた時の場面、その場面の話をするのでも、私たちには最初は単純に要するにただ連れてこられたのだという話しかしないです。その時のお母さんの思いとか自分の思いとか、何回も行って初めて出てくる話というのがいっぱいあるんです。私たちは最初に陳述書をつくりました。これは一回か二回話を聞いてつくっているのです。大量にぼんと出していますから、一人が何十人も対応するわけですから、そんなに丁寧に話が聞けなかった。ところが後で原告本人尋問、24人でしたか、原告本人尋問をやるのですけれども。その人たちにはじっくり話を聞きに行くわけです、尋問をやりますから。そうすると前の陳述書と違う話がいっぱい出てくるんです。しょうがないので私たちは第二陳述書をつくるわけです。もう既に最初のは裁判所に出ているわけでしょ。すると次の陳述書は前のと違うものをまた裁判所に出すわけです。原告本人尋問の時に、すかさず国の代理人はなんで前に言ったのと今度のは違うんですかと聞くわけです。弁護士は自分の聞き方が足りなかったと思って、そう言われると胸がぐさっとなるのですけれども、そこを本当に原告はよくかばってくれて、最初の時に自分が本当のことを言っていなかったからです、弁護士さんが悪いわけではありませんというふうな話を原告の人がしてくれたりしていました。 |
被害 一つの例を紹介します。それは弁護士にとってすごくショックなことでした。この裁判が最終的に結審する最終弁論の時、原告の意見陳述を毎回弁論ではやってきていましたので、最後の意見陳述をやろうということにしたのです。最後の意見陳述を誰にしようかという話があって、もう何人もやってきているので大体主だった人は終わってきていて、しかも法廷でしゃべれるというのはすごく勇気がいることなので、ある園の原告団の取りまとめをやっている方がいらっしゃって、その方にしようということで決めたのです。その担当弁護士はうちの弁護団の中でも一番若い部類の弁護士で、弁護士2、3年目だったと思うのですけれども、彼が担当で最後の最終弁論の意見陳述を準備したんです。そしたら彼がいままで陳述書の中でも全然書いてこなかった話がそこで出てくるんです。最終弁論の準備でですよ。 それはどういう話かというと、彼の奥さんは実は過去に妊娠したことがあった。奥さんは中絶を強要されて子どもをおろさなければいけなかった。それで子どもをおろしたのと胎盤とかが一緒に出ますよね。子供は多分療養所のほうが処理したのだと思うのですけれども、胎盤だとか残ったものこれを彼が土に埋めたんだそうです。そしてその後彼は断種の手術を受けます。つまり子どもをおろさせたということがいかに奥さんに対して負担だったのかということが彼には本当につらかったわけです。彼女をこれ以上つらい思いをさせたくない。それで彼は自分が断種手術を受けることで、もう二度と彼女にこんな目に合わせないという決意をするわけです。そして断種手術を受けました。この話を彼は以後誰にもしなかったんです。療養所の仲間にもしませんでした。当日法廷に来ていた療養所の仲間の人が初めてきょうその話を聞いたと言ったのです。弁護士にとってもその人は原告をお世話して取りまとめている人なので、2、3回話を聞きにいったとかそういうのではないのです。行くたびに毎回お世話になって、行くたびに話をして、一緒に飲んだり話したりしていた。そういう原告の人が最終弁論のその時まで弁護士にその話ができなかった。それはやはり彼にとって非常に深刻な被害の話、それはやはり人に話すということがとても大変なことなのだったというふうに思います。 それから私たちがなかなか最初よく理解してなかったなと思う被害の中に退所者の被害があります。西日本弁護団は、後で東日本弁護団と壮絶な論争をやるんですが、それはこの被害の本質は何かということですごく壮絶な論争をやったんです。端的にいうと「隔離かスティグマか」ということで。スティグマに重きをおく東日本と、隔離に重きをおく西日本という違いがあったんです。最終的には西日本は隔離とスティグマの二本立てという理屈を考え出して、それを構築していくのですけれども。最初のうちは私たちは隔離を被害の中心だと考えていました。隔離というのは要するに身体そのものがそこに置かれるわけですから、人権侵害としては非常に大きなものでこれを中心に構成していけば全体が出てくるのではないかと思っていたのです。 その観点からいくと、少なくとも自ら飛び出したにせよなんにせよ、いったん社会に出て生活している人というのはずっと閉じ込められていたという被害からすれば、程度が低いものと思いがちだったのではないかなと思うのです。特に私たちは隔離が長い人たち、50年、60年の隔離の人をずっと見てきていたので、そういうふうな思い方が、あからさまではなくても、心のどこかにあったと思います。ところが退所した人、あるいは入所経験のない人たちの話を聞いていくと、この強制隔離政策の被害というのはそんなものではないというのがわかってくるのです。これは例えば断種堕胎についてもいえることなのですけれども、療養所の中で断種堕胎って最初にやはりひどいと思ったのだけれども、断種堕胎がひどいということは逆にいうと断種は自分はしていませんという人にあうと、ちょっと自分がほっとしたりしていた部分があるわけです。その人の話をよく聞くとその人は療養所にずっといて結婚していないわけです。結婚していないから断種も受けてない。独身の男性というのは結構多いです。こういう人たちは断種と引き換えに結婚することを拒否したという面があるんです。そんな手術を受けるぐらいならもういいやと。療養所の中でずっと一人で暮らし続けるというそのことの被害を私たちは最初にやはり気づいてなかったと思うんです。話をしていくなかで人間らしい生活、人として当然あるべき生活ができないというのはどういうことかということを考える時に、単に断種をされなかった、されたという違いではなくて、そういう位置に置かれたことによって受けている被害ということに目を向けざるをえなくなってくる。そうすると退所者の人も同じで、隔離されたかされなかったかではなくて隔離されるというそういう位置に置かれた人たちの被害というものが見えてくるようになるんです。 例えば岡山県にある長島愛生園というところは、全国の療養所で唯一高校があったところです。これは県立高校の分校という形で高校がありました。邑久高校新良田教室というのがあったのですけれども。この新良田教室は全国で一つしかないので全国の療養所からその高校に進学してくる人たちがいたのです。当時昭和30年以降ですから、本来全然隔離が必要ない時代で、そんな高校を療養所の中につくる必要は本当は全然なかったわけですけども。とにかく療養所にいる人は進学するとしたらその高校しかないというそういう状況でした。その高校を出て、社会復帰する人も実はたくさんいました。比較的病気が治る時代になっていますし、その当時高校生だったということは退所の条件がそれなりにあったので、退所していった人もたくさんいたんです。ただし本気で進学する人は、そこの高校の卒業にしていない。2年生から3年生になる頃別の高校に一応転校して、要するに邑久高校の卒業生ではなくて、どことかのなんとか高校の卒業生という資格で大学を受けるとしていました。それは過去を隠すためです。そうやって過去を隠した人たちはずっと過去を隠して生きていくんです。ただ新良田教室の人たちは一年に一回同窓会とかやったりするのです。この同窓会には結構たくさんの人が集まってくるのです。なんで集まってくるかというと、ずっと過去を隠しているけど、この同窓会だけはただひとつ過去を話せる場所なんです。だいたい泊まりで、全国から集まってきますから泊まりで同窓会をやるのですけれども、泊まらずに帰る人がいる。なんでかというとちょっと出張でどこそこたとえば大阪に行ってくるとか言いながら、実は岡山の同窓会に来ている。でも奥さんにもちょっと出張でと言って来ているので、泊まるとまずい。どこに泊まったかという話になる。だからどうしてもきょう中に帰らなければいけない。そういって帰っていく人がいる。それから記念写真を取るのですけど、どうしても記念写真に写らないという人たちがいる。皆さんわかりますか。自分が療養所にいた、ハンセン病だったことがあることを自分の配偶者にも話さずに何十年も生活してきているということが想像できますか。私はちょっと想像できません。その生活の日々どういうサイクルの中でどういう思いで生きていっているのかということは、とてもちょっと私には想像できないというふうに思います。この退所者の人たちの被害を聞いていく中で、あるいは療養所にも入らなかった人たちも、病気を隠しつづけて生活していかなければいけない、奥さんにも子どもにも言っていない、そういう人たちの話を聞く中で、本当にこの被害の深さ、私たちが想像できない深さというものを感じました。それを聞いていくにはある程度想像してそのことを聞いていかないと出てこないのです、話として。それがとても私たちの仕事としては難しかったなと思います。 |
理由その3 もう一つ難しかったことの3番目の理由。これは人間としての誇りです。 私が最初に療養所に行って裁判やりたいという人たちと話をした時に、最初に気がついたことは、この人たちは助けてほしいと救済を求めているかわいそうな人たちではないということ、これを最初に気がつきました。今度裁判に最初に闘った人たちというのは、1953年のらい予防法の闘争の時に命懸けであの闘争を闘った人たちでした。その後予防法闘争には敗れて、予防法ができるわけですけれども、その隔離の壁の中で自分たちの生活を守るために厚生省とずっと対峙して闘いつづけてきた人たちだったんです。だから私にとってあの人たちは、なんというか根っからのファイターというか闘う人です。そして本当に人間として困難な場面、生きていくのがとても困難な場面に何遍も遭遇しながら、そこを生き抜いてきた、サバイバーだというのを思いました。このファイターであり、サバイバーである人たちというのは、非常に誇り高い人たちです。この人たちが自分の人生は人権が侵害されて非常に惨めなかわいそうな人生だったという話は決してしません。自分は自分の人生をどう闘ってきたか。どういうふうに自分の人生を意味あるものにしてきたかという話を、本当に熱っぽく語られるんです。でもそれでは被害にならない。私たちは今、損害論をつくろうとしている時にいかに人間として立派に生きてきたかということを書いては、被害論にならないという面があるんです。しかもそうやって闘ってきた人は、自分の被害については目をつぶろうとするところがある。そこを描き出そうとしない。これは男性にものすごくやはり強くある。男性は雄々しくかっこよくなければいけない。闘う先頭に立っていなければいけないというのは今の日本の社会では通念になっていまして、そのことは療養所の中でも同じで、男性は本当にかっこつけです。らい予防法はこんなに間違っているという話をさせると本当にすごい話をする人が、自分の被害については本当に声が小さくなってあんまり話したくないのだということになってしまう。ここの突破口がやはり何かというと女性です。被害を語らせたらやはり女性のほうが本当に被害の本質を語ってくれる。これは水俣病でもそうだったのですけれども。被害を語るのは本当に男の人は下手だなというのを思いました。 例えばさっき言った最終弁論で初めて妻の堕胎と自分の断種の話をした人。この人も原告団の中心にいた人です。この人が話せなかったということの中には被害が深刻だったということもあると思うけれども、やはり自分の人間としての誇り、それがあってこの断種の話はできなかった。療養所の人たちは言われるのです。断種というのは自分が犬猫と同じように扱われたということなのだと。自分が犬猫と同じように扱われたという話は、やはりそれを人にするのは誇りが許さないというとことがあったと思います。(中略) やはり被害を中心の人から聞いていく。闘争理論とかそういうのではなくてその人の被害を語ってもらうということに私たちは本当に全霊をつぎ込んだ面がありました。 |
被害を自覚する過程 こういうふうな作業の中で、原告の人と話をして被害を聞いていく中で、本当に私が感動したのは、話している人たちが初めて自分の被害を被害として自覚していくという過程があったんです。それまでいろんなことがあって、ただ悔しいとかそういうことだけで終わっていたこととか、あるいは被害とは気がついてなかったこととか、長い間人に言えなかったこととか、それを初めて話していく人たちの気持ちの高揚と、人間としての自分への確信みたいなものをそばにいて感じてきたんです。それはすごく私としては感動しました。 最初に裁判をやる時は本当にこの悔しい思いをなんとか晴らしたいということで、裁判に入ってきた人たちだったのですが、そのことが自分を解放するまず一歩だったのだなと今思うと思います。人間としての解放を国にしろということで、国に人間としてみんなを解放しろということで始めた裁判だったのだけれども、原告の人たちはまず自分が裁判に立ちあがることで自分を開放の道に一歩踏み出させて、しかもその後被害を語ることで自分の被害を自覚して、そしてそのことを自分が闘うエネルギーにしてきた。その一つ一つの現場を私たち弁護士は共にすることができた。それをやはり感動して見ることができたというのは、その過程に全部一緒に立ち会えたからなのだと思うのです。そして最終的には勝利判決を勝ち取ったという、そのことができた、共に喜べたということが私にとっては本当に非常にうれしいことでした。 |
全面勝訴の基準 原告に人たちの誇りの高さについて、少し話はそれますが、一つだけエピソードをお話したいと思います。判決の時に、勝訴という大きい垂れ幕を若い弁護士が二人、福岡の黒木弁護士と迫田弁護士と二人でダッと持って飛び出してくる場面というのが、繰り返し繰り返しテレビであったので皆さんご覧になったし、新聞でも見られたかも知れないと思うのです。あの時の垂れ幕は「勝訴」となってました。あの場面でどんな垂れ幕を出すかということは実は事前に協議しなければいけないのです。皆さん方も弁護団でいろいろ活動されるとわかってくると思いますが、大きい事件では必ずああいう垂れ幕が出ます。どの垂れ幕を出すかというのは瞬時に判断しなければいけないんです。判決を聞いて瞬時に判断してこれだとやらなければいけない。そのためには基準をつくっておかないと、とてもその場では判断できないのです。実はあの時に三種類準備してあって、「全面勝訴」というのと、「勝訴」というのと、「不当判決」というのが用意されていたのです。この「全面勝訴」と「勝訴」、この違いがどこにあったかということですけど。今は私たちは、去年の5月の判決は全面勝訴判決だと評価しているのです。 判決直後にはそこまでの評価ができなかった。それはなぜかというと、判決全文を読めないんですよね。もうとにかく法廷で要旨が読まれています。要旨が読まれている時に、どの旗持って行けということで責任者が指示するわけです。そうすると、迫田登紀子弁護士がこれだと持って行ってダーッと出すわけです。 その瞬時の判断をするために基準をたてました。一つは裁判に私たち負けるということはまずない。どんなに不当でもいくらかは損害賠償金は取れると思って完全敗訴はないと思っていました。問題は、いつからが違憲違法になったかということについて、私たちは1947年憲法ができた時からこの政策については違憲違法だと主張していたわけです。憲法ができた時には、まだ新しい「らい予防法」ではなくて旧「癩予防法」だったのですけど、もうそれを廃止して、人権の立場からもう強制隔離が必要ないとすべきだったと。憲法ができたときからそれは違憲になったのだと主張していました。判決がどこから違憲違法だといってくれるかというのがひとつの争点だったわけです。私たちは、私なんかはもう60年で勝つだろうと思っていたのですけれども、60年で勝てば全面勝訴でいいじゃないかと弁護士は実はそう思っていました。それで最初の基準案の時には、60年で勝てば全面勝訴で出そうというふうに弁護士は話していたのです。それを療養所に持って行って説明したら、療養所の人が絶対納得しないんです。60年じゃだめだと。53年だというのです。53年というのが何かというと、「らい予防法」ができた年です。命がけでみんなが「らい予防法」は反対だと闘った年なのです。自分たちのあの闘いが正しかったといってくれる判決でなければ、全面勝訴とは言ってはいけないと言われたんです。だから1953年の評価で全面勝訴にするかどうするかということを私たちは設定せざるを得なかった。だから60年で勝った時に弁護士の気持ちは全面勝訴だったのですが、原告との約束があるので判決の要旨で60年と聞いて、全面勝訴の旗はやめにして、勝訴の旗にしたんです。 今なんで全面勝訴というふうに私たちが評価しているかというと、判決の内容を見た時に1953年の「らい予防法」はなんの合理的根拠もなかったと理由の中に書いてあるんです。つまり60年というのは本当にぎりぎりまで引っ張ってきてそれまでは全然根拠がない、根拠がない、客観的な根拠がないということをずっと判決は言ってきて、60年にいよいよ誰の目から見てもこれ以後強制隔離の政策を続けるということについてはもう容認できない事態に至ったのだとそういう判決になっているのです。だから53年のときも客観的な合理性は何もなかったというふうに言ってくれているのです。これであの闘いを闘ったもう70、80にもなっている療養所の人たちが納得してくれたのです。私はあの判決は本当にそういう意味では非常に丁寧なとてもいい判決だと思っていますが、あの60年の全面勝訴説に対して療養所の中であれだけ強い抵抗があったということに、本当に改めてこの人たちは闘う人たちなんだということを思い知った、そういう場面でした。 |
新しい生活へ 〜それぞれの生き直し〜 今のことを少し話します。去年1年間、5月からのこの1年間ずっと闘ってきてこの4月から退所者給与金という制度ができました。退所者給与金の制度というのは、新しく療養所を出る人が一人出る時に月26万円の生活費を確保できるというそういう制度にしたのです。後色々減額があるのですけれども、とりあえず基準として新しく療養所から退所する人に関しては月26万円確保できるということになりました。これで初めて少しぐらい後遺症があっても、少しぐらいこう目が不自由でも、とにかく介護の人を頼みながらでも、療養所を出れるかもしれないという人たちが今出てきています。私の担当の原告なのですけど、ほんとちょっと歩くのも大変で、目は完全に見えない。その人が今度退所します。大丈夫かなと私が言うと、大丈夫なんとかなる、介護も頼めるしと言うのです。とにかく一遍だけでいいから外で生活してみたい。彼はそう言います。 この前5月11日がちょうど判決から一周年だったのです。熊本で判決一周年の集会をやったのですけれども、そのレセプションの会場で熊本のある原告の人、この人は4月に退所しました。そしてそれをみんなの前で報告するのに、アパートの鍵、公営住宅に入ったのですけれども、アパートの鍵を高々と差し出して、これがアパートの鍵ですといってみんなに報告したんです。はじめて自分だけの鍵を持ったんです。その喜びを、鍵を示すという形で彼は表しました。 沖縄の愛楽園に宮里新一さんという入所者がいます。彼は一応この前退所式に出たのですけれども、実はまだ退所していません。彼は、退所者ではありませんでした。ずっとこの20年ぐらい入所していたのですけれども、長期外出という形で外で生活をしていました。なんで長期外出という形で外で生活するかというと、しょっちゅういろんなとこを悪くするのです。たびたび治療を受けなければいけない。特に手足の神経痛だとか、あるいは足に傷をつくったりだとか、そういったことがたびたび起きるのでしょっちゅう療養所に入らなければいけない。だから正式に退所できなかったんです。医療の面ですごく不安があった。でも彼は社会で生活しながら音楽をやっていました。フォークを歌っていたんです。彼が歌う歌というのは実は療養所と社会とを行ったり来たりしながら、その悩みを歌に託して歌っていましたが、療養所にいるということが人に言えないので、それをずっと隠したまま歌いつづけていました。 彼はだからいつも療養所にいなかったので裁判のことをあまり知らなかったのです。去年一応結婚していたのですけれども、奥さんともうまくいかなくて、奥さんと別れて行くとこがなくて自分はもう療養所に戻るしかないというので、療養所に帰ってきました。そこで最初はずっと部屋にこもっているのですけれども、なんかみんなが「裁判、裁判」って言ってて、初めて裁判のことを知ったのです。ちょうど判決の前の頃になるんです。判決の控訴断念を求める東京でのいろんな闘いに彼はその時参加します。そして自分自身も原告になります。その中で初めて彼は自分がずっと隠しつづけてきて、そのことからただ逃げよう離れようとしてきたという自分が間違っていたのではないかなということをすごく考えるようになるんです。私も彼が間違っていたというふうには思わない。むしろそういうふうな社会が問題だったのだと思うのだけれども、彼はそこを一歩踏み出そうということで、自分がハンセン病だったことを全部社会的に明らかにした上で自分の音楽活動をするということを決意して、この4月からそれを始めました。ここはちょっとコマーシャルになるのですけれども、自由法曹団のほうにお願いして彼がこの4月に発売したCDを売っていますので、是非皆さんに聞いてほしいと思います。ほとんどの歌は、彼が自分がハンセン病の療養者であるということを隠して歌っていた頃につくった歌ばかりです。彼の思いを是非いろんな人に聞いてほしいと思っています。 今新たに療養所を出て行く人ばかりではないです。自分は療養所を出れないと思っている人も、今いろんな形で外へ出ています。 例えば去年私は団の80周年の集会で話をさせてもらったのですけれども、その時に生まれてはじめて飛行機できて、飛行機に乗って東京にきて、国会議員に訴えたという人の話をしました。彼女の話は、自分が死んだら自分の骨を故郷の山にまいてほしいという話、散骨してほしいという話だったのです。どうしてそういうことをいうかというと、彼女はまだ故郷に堂々と帰れていないんです。それはまだ親戚がいたりして、故郷の家族にはものすごく気兼ねしているから、だから正式に故郷に帰れない状態です。だけど、骨になって故郷の山にまいてくれたら自分の故郷の町がその山から見える。自分は納骨堂に入りたくないから山にまいてほしいと。雨が降ってその骨が水に流されて、川までたどり着いて海まで行けば自分が行ったことのない世界中を旅行できるかもしれない。それが自分の夢なんだという話をしました。私は去年の80周年のそのスピーチの時にその話をさせてもらいましたけど、その話をした頃は彼女は初めて人前で話をするという状況だったのです。けれど今は例えば私と一緒に大学の講義があるので来てくれと言われて、そこに一緒に出かけて行って被害の話をしたりとか、あるいは女性たちの集会があるから来てくれと言われて、そこで話をしたりとかしています。今度6月はHIV訴訟の九州の原告団総会があるので、そこに行って彼女は話をすることになっています。彼女は自分は療養所の外には出ないけれども、やはりあの判決で自分の生き方が全然変わったと言っています。今多くの人たちの生き直しが療養所で始まっているのです。 その生き直しの一つ一つの場面、それは人によって形が違います。例えば音楽活動を始めるという人もいれば、退所して自分一人の生活を始めたという人もいるし、療養所の中にいて仲間が広がったという人もいるし、外に出て話をするようになったという人もいるし。でも一人一人があの判決で何が変わったかということをずっと噛み締めているのです。私はそのことが今とてもうれしいです。そのことを、いろんな話を聞くたびにあの裁判をやってよかったなと思います。 |
これからの課題 ただまだ課題がいっぱい残っています。去年厚生労働省との間でいろんな確約をしましたけれども、まだまだ在園保障の問題でどうなるかということについては不確定なことがいっぱい残っていますし、それから退所者の人は退所者給与金の制度はつくったのですが、医療保障はまだ全然されていません。医療保障がないと今後また療養所に帰らないと生活できないかもしれない。私たちはそういう問題についてもいまからもっともっと厚労省と話を詰めていかなければいけない。 在園保障の問題で一番私の頭を痛めているのは、私がずっと担当してきた奄美和光園ですが。今全員で公式には90人ぐらいいらっしゃるのですけれども、実際に園にいる人はもう70人ぐらいしかないと思います。この奄美和光園が今後どうなっていくのか。最後の一人まで園を維持して、この人たちの生活を守ってほしいという要求をしているのですけれど、実際10人20人となってきた時に本当に国がこの園を最後の一人まで守ってくれるのかどうかわからないです。しかもその時にはほとんどの人が寝たきりの状態で自分で意思を表示できないかもしれない。この奄美和光園をどうやって守るかということが、私の頭の中で一生懸命考えていることで、もし奄美和光園を守れなかったら、全国の国立の13の療養所は守れないのではないかと思っていますので、何とか奄美和光園を守っていきたいということを考えています。 これからの課題は本当にいっぱいあってまだまだ大変だなっていう気持ちがあるのですけれども、ただ療養所の人たち、退所した人たちの温かさの中に包まれて、本当に私たち弁護団はいつも励まされてきたと思うのです。弁護団の中では時々本当に衝突して喧嘩みたいになるのですが、療養所に行くたびによし頑張ろうと思えるようになる。療養所はそんな場所でした。やはり人間としてつらい場面を味わってきながら、そのサバイバーとして今もっている人間としての厚みというか温かさというか、そういうものに私たちは本当に救われてきたのだと思っているのです。多分これからもエネルギーをもらいながら頑張っていきたいなと思っています。 私はもともと年をとるのがいやな人間で、できればもうなんか40か50ぐらいで死にたいなと思っていたのですけれども、最近素敵なお年寄りをたくさん見てきたので、長生きするのも悪くないなとちょっと思えてきています。もうちょっと長生きしてみてもいいかなというふうに思っています。どうもありがとうございました。(拍手) |