世にも奇妙な判決
~川辺川利水訴訟判決~
弁護士 国 宗 直 子
一 はじめに
九月八日、熊本地方裁判所民事第三部(杉山正士裁判長)は、川辺川利水訴訟について原告側敗訴の判決を言い渡した。
川辺川利水訴訟は、建設省が建設予定の川辺川ダムの水をかんがいに利用するという農水省の土地改良事業に対して、対象となった農家が異議を唱えた裁判である。本来土地改良事業は、農家からの申請によって計画されるいわゆる「申請事業」である。ところが、申請する側の農民がこんな事業はいらないと裁判を起こした。原告の数は八六二名。これにさらに一二四五名の農民が補助参加を申し立て、その合計は二一〇七名となった。
土地改良法では事業の決定にあたっては対象農家の三分の二の同意が必要だとしている。この同意をする資格要件を備えた者を同法の三条の規定にちなんで「三条資格者」と呼んでいる。当初三条資格者は約四〇〇〇名と言われていた。二一〇七名といえばその半分を超えている。
奇妙な前提で始まったこの裁判の判決は、これまた世にも奇妙なものだった。
二 判決の特徴
判決の特徴は四つある。
一つは、事業の必要性の判断や、同意を取る際の説明の内容やその範囲の判断など、手続きの全般にわたって行なわれる行政判断に、広範な行政裁量を認めたこと。
二つめは、本件の手続きにおいて、各所に見られた様々な瑕疵(例えば、三条資格者の特定方式や、同意の取り方等)を、些細な瑕疵として一蹴したこと。
三つめは、本件国営事業と密接に関連して行なわれる関連事業(手っ取り早く言えば、国営事業は本管のみの事業で、各農家へ水をもたらす支管は関連事業による)を、本件事業と完全に切り離して判断したこと。
四つめは、三分の二の同意があったという結論を所与の前提として、形式的な意思解釈によって数合わせの議論に終始したこと。
以下、判決内容の主要な部分を見てみよう。
三 判決の内容
1 必要性・費用対効果の判断について
被告は当初本件計画は変更計画であるから事業の必要性や費用対効果については本件審理の枠外であると主張していた。これに対して判決は、必要性・費用対効果の要件は、変更計画においても認められるべきであると正当に判断したが、必要性や費用対効果の判断は、「専門技術的かつ政策的なものであるから、行政庁の広範な裁量に任されて」おり、「行政庁の判断が全く事実の基礎を欠くとか社会通念上著しく妥当を欠くなどその裁量権の範囲を超え又はその濫用があったと認められる場合に限って違法と判断すべきもの」として自らの判断を回避した。
この点に関しては、検証の中で原告は広大な地域においてすでに「水は足りている」情況を立証したが、裁判所はこれに耳を貸さず、被告の言い分を一方的に採用し、水が欲しいと言っている部分もあり、将来的には使い道もあるのだから「全く事実の基礎を欠く」とは言えないとした。
これは、家の者が「うちはいりません」と断っているのに、「そのうちいることもある」と強引に玄関前に居座るゴム紐の押し売りを容認するに等しい。
2 三条資格者の特定について
被告の当初の三条資格者の特定はいいかげんだった。可能な調査を十分にしていなかったことは判決も認めざるを得なかった。このため、当初被告は三条資格者の名簿をなかなか提出しようとはしなかった。開いてみれば死者が多数含まれており、「死者の同意」という希有な事態も出てきた。生存者についても、当初の名簿に搭載されていなかった者が発見された。被告自身、訴訟の中で度々数の修正を行なわざるを得なかった。
土地改良法における三分の二の同意は、国民の財産権の変更を容認するための要件である。言うまでもなく財産権は憲法で保障された権利である。この基礎となる手続きがいいかげんに行なわれていいはずがない。ところが、判決は、本件では三分の二以上の同意があるのだから、こうした瑕疵については法の趣旨に照らして「著しく適正を害しその趣旨を没却すると認められるような瑕疵」にはあたらないとした。
この他にも、原告は様々な手続き瑕疵を指摘していたが、判決はいずれについても、本決定を違法とするほどのものではないと、これらをことごとく斥けた。「行政に甘い」と評価されている所以である。
3 三分の二の同意について
(本件事業は、用排水、区画整理、農地造成の三つの事業からなっており、三分の二の同意の要件はそれぞれについて要求され、裁判所の判断もそれぞれについて行なわれたが、ここでは便宜上、主要なかつ最大の事業となる用排水事業の数字について解説する)
① 三条資格者の数
判決は、本件における三条資格者の数について、被告が最終的に主張した三九〇四名を是認した。当面公式な三条資格者がこれで確定されたと考えていいだろう。
② 同意者の数
(a)有効な署名がない者
これらの三条資格者のうち、どれだけの者が平成六年の同意取得時に有効に同意したのか? これが本件の重要な争点である。原告は、同意署名簿のうち五一六名の署名は本人が書いたものではなく同意はされていないと主張した。これは弁護団が現地に赴いて調査した結果による。判決は、署名も印鑑も自分のものではないと主張した者については原則として同意がなかったと処理したが、たった二四人の本尋問の結果から、二六三名については有効な同意があるとした。尋問の中で見受けられた、記憶の曖昧や、同意や同意の取り消しが何度も錯綜して生じた混乱、些細な記憶違いも、全部原告不利に解釈された。
(b)同意が無効な者
さらに、原告は、有効な署名がある者についても、うち五四六名は誤った説明を受けたために、誤解をして意思表示したもの(錯誤)であるから、この同意は無効であると主張した。この錯誤の中心は「水はタダだと思ったから」というものである。
この背景には、こんな事実があった。
本来国営土地改良事業にも受益者負担部分がある。ところが、変更計画の際、農水省は受益者負担があったのでは同意が取れないと踏んで、国営事業の受益者負担部分を市町村に押しつけて受益者負担をなくした。そして大々的に「水はタダだ」と宣伝した。しかし、関連事業で支管が完成しなければ農地に水は来ない。関連事業では受益者負担は免れない。「水はタダだ」と言われれば、「タダで農地に水が来る」と思うのは当然である。本件の原告の中には、結局関連事業では金を払わなければならないのだと聞いて驚いて訴訟に加わった者が大勢いた。農民にとっては、国営事業と関連事業とは一体となった一本の用排水事業なのだ。
ところが判決は、国営事業と関連事業とを完全に切り離した。要約すれば、本件の同意は国営事業に関するものだから、「タダだ」に誤りはない。関連事業に負担がある点での思い違いは「動機の錯誤」であって、同意を無効とするほどの重大な錯誤ではない。農水省がこの点をきちんと説明しなかったのは計算がまだできていなかったのだから違法ではない。どうしても金を払いたくないのであれば、関連事業のときに改めて拒否するチャンスもある(そうは言っても関連事業で自分だけが反対しても三分の二の同意があれば負担は強制されることになるのだが)、というのだ。
これについては、判決直後、日比谷公園の松本楼でカレーライスを食べながら、支援の人たちの間からこんな例え話が話された。
ある食堂の前に「カレーライス無料」との張り紙がありました。そこで、
「らっきー 、ちょうどおなかが空いていたんだよね」
とばかりに食堂に入り、カレーライスを注文しました。
すると、出てきたのはご飯だけでした。
「あのー、すいません、カレーは?」
と聞くと、店員は、
「カレーは有料になりますけど、よろしいですか?」
と言います。そこで、
「だって『カレーライス無料』って、看板に書いてあるじゃないですか」
と言うと、
「ライスは無料ですが、カレーはこの店に入っている別会社の担当なので、有
料になります。もうじきカレー担当会社から注文を取りに来ますので、不満で
したらそのときにカレーだけ断ってください」
と言われました。
「冗談じゃない、あの看板は詐欺じゃないか! だいたい、カレーはいくらに
なるんだ!」
と言うと、今度は、
「看板を書いた段階では、カレーの材料費がはっきりしていなかったので、い
くらになるかを書くのは限界がありました。だから詐欺じゃありません」
と言われましたとさ。
(著作権者・渡辺誠&安藤眞)
結局判決は、錯誤主張のうち、「除外になった」との説明を受けて同意した二〇名のみを錯誤者として数からはずし、あとの錯誤による同意をすべて有効とした。
③ 裁判所の集計
判決は以上を計算して、本件での有効な同意者の数を二九三二名とした。これは三条資格者の七五・一%にしかならない。当初九〇%以上の同意があったと農水省は豪語したが、原告に厳しいこの判決をもってしてもここまで割り込んでしまったことになる。
四 判決の奇妙な帰結
① 奇妙その一
一番奇妙だったのは、判決に勝ったはずの農水省の対応である。
法廷に現われた農水大臣の代理人らは、判決を聞くとニコリともせずそそくさと法廷を立ち去った。原告らが面会を求めた農水大臣はこの日留守を決め込んでおり、対応すべき構造改善局長は最初原告らには会わないと駄々をこねた。面会を断り切れなくなると、憮然とした表情で応対し、「粛々と事業を進めるだけだ」と答えた。
ところが、九月一〇日付けの朝日新聞では、構造改善局の担当者が、インタビューに答えて、「地元の意見をもう一度聞いて事業を進めていきたい、計画変更も可能性としてあり得るという前提で模索していく」と発言している。
どうやら農水省は判決に勝ったことを喜んでいないらしい。それは、同意率がわずか七五・一%までに割り込んだ状態で、事業を強行できるのかといった心配だけではない。
実は、この判決当日もうひとつ重要な決定が裁判所によってなされた。この決定で、補助参加を申し出ていた一二四五名のうち、三条資格者と認められる九七一名の補助参加が認められた。判決で原告のうち三条資格者と認められたものが六一一人。両方合わせると一五八二人。これらの人たちは口頭弁論終結時において明白に本件事業に異議を唱えているということが公式に認定されたのである(別表参照)。全体の四〇・五%にあたるこれらの人たちの意思は無視できるのか。さらに問題なのは、関連事業の同意はまだ集められていないのである。農水省に展望はない。
判決は広範な行政裁量を認めたが、そのことは逆に農水省の責任負担を大きくしたとも言える。ダムを作ると言い張る建設省に面と向かってはノーと言えない農水省。農水省は誰かにこの事業を止めてほしかったのではないか。
② 奇妙その二
判決は、このまま農水省が事業を進めることを容認した。しかし、このまま進むとどうなるのか? 国営事業を進めて、後の関連事業で三分の二の同意が取れなければ、この地域には巨大な用排水本管が築かれる。しかし支管はない。巨大な無用の長物である。判決は、関連事業の際にノーと言うことができると言うが、それはこういう奇妙な結末を容認することだ。司法がここまで無責任であっていいのか?
そう言えば誰かが言っていた。「巨大な無駄本管が完成したら、功労者として裁判長の名前を石碑か何かに残してほしい」。
五 控 訴
九月二二日、七六〇名が福岡高裁に控訴した。わずか二週間の間に原告団はこれだけの委任状を集め切った。原告団のこの団結力と行動力は私たちの宝なのだと思う。これだけ必死になっている農民を相手に、農水省はどんな闘いを挑もうというのか。舞台は高裁に移ったのではない。舞台はいまや川辺川現地で、全国で、大きく広がろうとしている。
(了)
別表:訴訟参加者中の三条資格者数
|
訴訟参加者 |
判決が三条資格者と認めたもの |
① 原告 |
862 |
611 |
② 補助参加者 |
1245 |
971 |
①と②の合計 |
2107 |
1582(40.5%) |
三条資格者全体 |
──── |
3904 |