ハンセン病訴訟を共にたたかって

 

弁護士 国 宗 直 子

 

はじめに

 今年の7月31日で、ハンセン病西日本訴訟は13人の原告による最初の提訴から丁度3年となる。

 3年前、提訴に際して、私たち弁護団は「この事件は3年で解決する」と宣言した。

 原告の中には、すでに80才を超えた人もあった。ハンセン病療養所の入所者の平均年齢もすでに70才を超えていた。私たちは悠長に構えるわけにはいかなかった。

 裁判は長くかかるとよく言われる。しかも、国家賠償請求訴訟は困難を極めると思われている。そんな裁判で、勝つことを前提に「3年で解決する」というのは、ただの景気づけの大言壮語だと思われていたかもしれない。けれど、当の弁護団は結構本気で真剣だった。

 思えば、この3年間、私たちは大言壮語を繰り返してきた。

 「500人を超える原告団を作ろう」

 「提訴を全国に広げよう」

 「1000人の集会を成功させよう」

 「次は2000人の集会成功を」

 ある原告は私たちを大言壮語弁護団と呼んだ。しかし、私たちの大言壮語はいつも本気だった。そして、この3年間、その一つ一つを現実のものとしてきた。

 その力はどこにあったのか?

 とりわけ私たちの弁護団が優秀であったわけではない。

 しかし、私たちは何か大きな力に突き動かされてきた。

 ハンセン病強制隔離の歴史は、初めにそれを知ったときに、私たち弁護士を打ちのめした。歴史に燦然と輝いたはずの日本国憲法のもとで、なぜこうした深刻な人権侵害の事実が放置されてきたのか。なぜ法律家である私たちがこれまでこの問題を知らず、これを放置してきたのか。この思いはいつも私たちを急き立ててきた。

 そして、このたたかいを、人生の最後のたたかいと位置付けて、人間としての存在そのものを賭してたたかってきた原告ら。この人たちと出会ったことで、これまで、改めて考えたこともなかった、「人間」という言葉の意味を、私たちはこの訴訟の全体を通じていつも意識させられた。

 このたたかいに勝つこと。それは「人間」として絶対に譲れないものだった。

 そして3年。訴訟は5月11日の熊本地裁の判決(杉山判決)により全面勝訴となり、国に控訴断念を迫るたたかいにも打ち勝った。現在、この裁判の係属する熊本、東京、岡山の三つの地方裁判所では判決を経ていない原告らの和解手続が進行中である。この夏にはこれらも大方解決を見るだろう。また、今後の権利回復のための施策については、厚生労働省との協議も進んでいる。残された問題は多々あるが、それでも約束した「3年で解決」の約束は8割方は果たせたと言えないだろうか。

 これは、何よりも原告らの勇気に満ちたたたかいの成果であったし、また、この原告らを支えてくださった全国の心ある市民のみなさんの力添えによるものであった。

 

ハンセン病について

 まず、ハンセン病という病気そのものについて話しておきたい。

 ハンセン病は細菌による感染症である。しかし、その感染力は弱いと言われてきたし、感染しても容易には発症しない病気である。発症するかどうかは、個々の個体の免疫力と社会的な状況によるとされている。

 ハンセン病は過去には遺伝病だと信じられたこともあった。それはとりもなおさず、なかなかうつりにくいという事実に基づいていた。

 重要なことは、この「うつりにくい」という事実は、戦前から医学的には十分に了解された事柄であったということである。にもかかわらず、ハンセン病は恐ろしい伝染病として喧伝され、強制隔離が実施されてきた。

 そして、このことは、ハンセン病患者に対する謂れのない差別と偏見を助長し続けてきた。ひとたびハンセン病に罹患すると、伝染の恐れがあろうがなかろうが、治癒していようがいまいが、患者とその家族は、この差別と偏見の渦に巻き込まれてしまった。

 

ハンセン病政策の歴史

 わが国で最初にハンセン病に関する対策が講じられたのは、1907年の「癩予防ニ関スル件」という法律によるものである。それ以前、わが国では放浪するハンセン病患者もあり、これらの人々を救済していたのは、主に外国人の宗教家などであり、何ら救済措置を取らない日本政府への批判も強くあった。国はこうした事情を背景に、ハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」であると捕らえていた。1907年の法は、こうした放浪する患者を警察的に取り締まるという意味を強く持っていた。

 この法律に基づき、全国にハンセン病療養所が作られていった。

 1916年には、療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。所長は裁判手続によらず自由に療養者に対する懲戒を実施できた。各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされた。

 特に、療養者たちが恐れたのは、群馬県草津にある栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設である。設置は1939年。厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下17度にまで気温下がった。ここには、全国の療養所で「不良患者」とみなされた者が送られてきた。監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された92人のうち14人が監禁中または出室当日に死亡した。

 療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていったのである。

 1931年には、新たに「癩予防法」が制定された。この年は日本が15年にも及ぶ戦争に足を踏み出した年であるが、「癩予防法」もまたファシズムを思想的背景にして、「民族浄化」の理念のもとにハンセン病を根絶するという目的を持っていた。この法律により、放浪する患者のみではなく、すべてのハンセン病患者が収容されることとなった。わが国のハンセン病絶対隔離政策がこの法律のもとで確立されていった。

 この絶対隔離主義を背景に、全国的には「無らい県運動」が展開された。全国で大勢の患者が駆り立てられた。国民の身近で行なわれたこうした強制収容は、否が応でも多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であるとの恐怖心を植え付けた。

 終戦後、ハンセン病療養所内の空気を一変させる重大な出来事が二つあった。一つは、ハンセン病の特効薬、プロミンに代表されるスルフォン剤の登場である。劇的に症状を改善させるこの薬は、ハンセン病を「治る病気」にした。

 もう一つは民主主義である。戦争が終わると、わが国でも民主主義の運動が広がった。それは療養所内にも及んだ。様々な改善要求が患者の側から出され、多くの患者は未来に明るい展望を見ていた。

 1947年、基本的人権の擁護を基調とする日本国憲法が制定された。本来であれば、このときに、人権を無視した不合理な絶対強制隔離政策は根本から見直されるべきだった。

 しかし、国の政策に変化はなかった。国は1950年頃には、すべてのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、強力な強制収容を進めた。私たちはこれを「第二次無らい県運動」と呼んでいる。これにより、わが国のハンセン病患者のほとんどが療養所に収容された。

 1953年、多くの患者の命をかけた反対運動にもかかわらず、「癩予防法」はその政策の基調を維持したまま「らい予防法」に改正された。「らい予防法」は、民主主義を渇望し、自主的に活動を始めた患者らに対する治安維持的な意味合いも持っていた。患者らの闘争は、広く社会に知られることもなかった。

 この新法の制定にあたっては、「近き将来本法の改正を期する」とする参議院厚生委員会の付帯決議がなされた。実際に法が廃止されたのは、これから43年もの時を経た、1996年であった。

 

強制作業、断種・堕胎

 ハンセン病療養所は、「療養所」は名ばかりの強制収容所であった。医療スタッフも設備も乏しく、生活介護者もない中で、重症患者の看護や身の回りの世話は軽症の患者が担わなければならなかった。園内のあらゆる生活の整備が患者の手に委ねられた。伝染の恐れのない軽症患者の収容はまさにこうした所内の労働のためであったと言ってよい。ハンセン病の症状としての重い感覚障害を持つ患者らはこうした強制作業のために、手足の機能を失っていった。

 また、療養所では子どもを産み育てることも許されなかった。園内の結婚は認められていたが、多くの療養所では男性が断種をすることが結婚の条件とされた。「誤って」妊娠したりすれば堕胎が強要された。こうした堕胎・断種は一九四八年までは全く非合法に行なわれていた。一九四八年には、なぜか、重要な議論もなく、優生保護法にハンセン病条項がもうけられ、その後は「合法」の衣をまとって行なわれた。

 

裁判での争点

 私たちは、国が1996年まで行なってきた「らい予防法」による強制隔離政策そのものが何ら合理性を持たない違憲・違法なものであり、この政策の実施により原告らは多大な人格被害を被ってきたことを主張・立証した。

 これに対して国は、隔離は一九八一年まで必要だったと主張した。1981年というのは、ハンセン病に対する「多剤併用療法」と呼ばれる治療法が確立した時期を言う。確かにハンセン病治療に関する医学的知見は戦後大きく進歩した。「多剤併用療法」によれば後遺症も残さず、再発の恐れもなく、ハンセン病を完治させる。しかし、スルフォン剤単剤でも完治する人はいた。感染力は決定的に力を失っていた。社会状況の変化を背景に新たな患者の発生はごくわずかな人数となってきていた。難治性の症例までをも完治させなければ解除されない隔離政策とは何なのか。隔離は「伝染病」だから取られた措置ではなかったのか。国のこの議論のすり替えは笑うに笑えない冗談のようだった。

 また、国はこの事件に20年間の除斥期間の適用を主張した。提訴の時から遡って20年を経過した事項については損害賠償の請求を許さないという民法の規定を本件にも適用せよというのである。国は、ほとんどの患者を隔離し、自分の手中に管理しながら、これらの人が裁判を起こせなかった責任をすべて患者の側に押し付けようとした。そして強制隔離政策の事実そのものが明らかになることをも妨害しようとした。しかし、私たちは、国の絶対隔離政策による国の行為は1996年まで続く一体的な行為であると主張してきていた。行為が完了するのは「らい予防法」が廃止された1996年である。行為が完了しない以上、除斥期間の適用はない。

 さらに、国はこれらの主張に付随して、人間として容認できない数々の主張を行なった。

 @ 所内作業は強制ではなく、患者の慰安と健康増進を目的としたものだった。A 断種・堕胎は同意に基づくものだった。国立病院で子どもを産み育てることができないことは当然である。子どもが産みたければ園を出て行けばよかったではないか。B ハンセン病に対する差別・偏見は古来から存在するもので国の政策とは無関係である。

 これらの主張は当然のことながら多くの患者・元患者の怒りを呼んだ。原告の中には、「らい予防法」廃止を見て、これからはのんびり余生を送ろうと思っていたのに、この主張を見て黙っていられなくなった、と提訴を決意した者もいた。

 

杉山判決

 5月11日の杉山判決は、ほぼ全面的に原告側の主張を認めたものとなった。

 隔離の必要性については、1953年の「らい予防法」は、「制定当時から既に、ハンセン病予防上の必要を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的な制限を逸脱していたというべきであ」り、遅くとも1960年には「その合理性を支える根拠を全く欠く状況に至っており、その違憲性は明白となっていた」。さらに、これを1965年に至っても放置し続けた国会議員の行為も違法であり、「国会議員の過失も優にこれを認めることができる」と判示した。除斥期間の適用も認めなかった。

 強制作業についても事実を認め、差別・偏見についても国の政策が新たにこれを生み出したもので、政策はさらにこれを助長、維持したとした。断種・堕胎については、「被告の右主張は、入所者らの置かれた状況や優生政策による苦痛を全く理解しないものといわざるを得ず、極めて遺憾である」とまで言い切った。判決の中で、一方当事者の主張を単に斥けるのではなく、それを主張すること自体「遺憾である」と批判することは異例のことである。

 さらに杉山判決は、原告らの被害を、「人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれ」た人格そのものに対する被害であると評価した。

 ある原告は、杉山判決を「愛の判決」と呼んだ。ある原告は、「ようやく人間として認められた」と顔をあげた。

 

これから

 判決の確定と、それをベースにした裁判所による司法解決により、隔離の被害者に対する謝罪と賠償問題は解決を見ようとしている。しかし、入所者・退所者の今後の生活をめぐる恒久対策の問題や、なぜこうしたことが長期間にわたって許されてきたのかといった真相究明の問題は、これからの課題として残されている。さらに日本政府が戦争中植民地で行なった過酷な隔離政策については、まだほとんど調査が進んでいない。

 私たちは、現在厚生労働省との継続協議により、早期にこれらの問題の解決を図っていきたいと思っている。また、社会の受け入れ態勢を作るために、各地方自治体への働きかけも始めている。韓国のこの問題に取り組む人たちとの交流は今始まったばかりである。

 一番困難なのは、何十年もかけて人々の心に烙印されてしまっている差別と偏見の問題だろう。判決が確定した今でも、多くの退所者・家族は社会の中で隠れて生活を続けている。しかし、この困難に挑まなければ、私たちのこれまでのたたかいは無意味に帰する。

 これからこそ、もっと多くの市民のみなさんの協力・支援が必要とされているのである。

 

最後に

 弁護士として、過酷な強制隔離政策を生き抜いてきた心豊な人たちと、このたたかいを共に歩むことができたことを、私はとても幸せに感じている。ある年老いた原告が、私にこんなことを言ってくれたことがある。

 「あなたは本当にいい仕事をしていますね。これはあなたの財産になりますよ。」

 その原告は、昨年、判決を見ないままに亡くなった。私は今その言葉と共に、山のような財産を抱えている。

 原告のみなさん、本当にありがとう。

(2001年7月31日記)