福岡県立大学での講演
〜大学作成の講演録から〜

阿部智子
(菊池恵楓園 ハンセン病訴訟原告)



人権に関する講演会 2001年度第2回(2002年1月21日)
人間の尊厳の回復を求めて―ハンセン病問題を考える―


【国宗直子さん(ハンセン病訴訟西日本弁護団、熊本中央法律事務所)】

       (思い切って全部省略!)

 

【阿部智子さん(ハンセン病訴訟原告)】

 皆さん、こんにちは。こんなにも若い方が大勢いらっしゃるところに来たのは初めてです。

私は菊池恵楓園に昭和31年に入所しました。その時は16歳で来ましたけれども、まず病気がわかったのが12歳のときで、そのときに周りの人、親、兄弟が私の病気がどういうものか、何にも教えてくれません。ただ、小学校6年生の1学期行っただけで「もう学校に行かなくていいよ」と……。私はあまり勉強がそんなに好きではなかったのでうれしかったのですけれども、それっきりになりました。そして「どうしてだろうか……」。みんなに、近所の人に顔を見せちゃだめとか、子どもに触れてはだめだよというのを聞かされて、私は自分の病気は何だろうと思って……。やたらといろんな薬を持ってきます。母があちこちから話を聞いてきたといって、私に「これを飲んだら。これを貼ったら」と……。そうして過ごしている間に、退屈ですから、もちろん子ども向けの本なんて買えるようなときではなかったもので、いろんな大人の本を、そこら辺りにあるものを手当たり次第に読んでいると、「らい」という病気が出てきました。私の病気は周りの雰囲気からすると、この「らい」ではないかなと思って。そして家庭医学という選集があったので、それを開いて見たら、まあそれに近いかなと思ったときに、自分が周りの雰囲気から、自然に、なんとなく感じていた恐れみたいなもので、やはりこれは「らい」という病気だと……。そのときに、私が最初に考えましたのは、自殺をしたいと思いました。私は何にも教えられてもないし、聞いたこともないのですけれども、なんとなくすごい差別とか偏見の恐ろしさをわかっていたのです。どうしてかわからないですけれども。それで、家族を守るためには自分が死ぬ以外にはないと考え始めたのが13歳の誕生日を迎えて後です。そうやって毎日、どうして死んだらいいだろうかと自殺の方法を考えていました。死んだら遺骸が残るから、「あそこの子どもはこういう病気で、こうこうだから自殺した」と、田舎ですから何十年と残ります。それも困ります。それでは家族を救うためといって自分は楽になっても、家族は長い間またそのうわさなどで苦しんでいかなければなりません。それで死ぬ方法はいくら考えてもわからないのです。今みたいに交通機関が発達していたり、いろんなメディアの情報が耳に入っていたら、例え10歳でもどこか遠くへ行ってわからないように死んだかもしれませんけれども……。そのとき私は汽車に乗るのでも、だれかについてもらわないと乗れなかったぐらいでしたから。だから行くにしても、どこにも行けない。家の前の方にいっぱい川が流れていますけれども、川に飛び込んだら浮かんでくるというのです。死にはするけど浮かんでくる。それでは、やはりだめだと……。

とうとう死にきれないで16歳を迎えて、そのときにもやはり治療の場がなかったですし、またこの病気になったら近くの病院にも行けなかったのです。あるとき、私がいたずらというか、自分に知覚麻ひがあるのがわからなくてやけどをしました。やけどをしたら母に怒られるかなと思って、皆さん御存じか知りませんけど、ムトーハップというのがありますが、それを綿花に吸わせて、治るかもしれないと思ってつけました。そしたら余計に悪くなって……。傷口ではなかったのですが、原液だったもので、水ほうのところが真っ黒に焼けてしまいました。私は痛みを感じないものですから、あっという間に腕がはれあがってきたので、親にその場所がわからないように隠していたのです。けれども、ちょうどおばに「腕がはれてるんじゃないの」と見つけられて、「どうしたの?」と聞くから、こうこうだったといって、見たら真っ黒に焼け焦げ状態。それで病院に行くわけにもいかないですから、母が使い捨ての安全かみそりを10本ぐらい買ってきて、私が朝、目覚めると枕元にいて、かみそりを持っているものですから、「何するの?」と聞いたら、「これをとにかく取らないと化のうしてしまって腕がだめになる、だからここを切って、黒いところだけでも取り除かないとだめだ」。私はのんきなものですから「そう。じゃあ私また寝よう」といって、私は眠ってしまいました。痛みを感じないものですから。どれくらいの時間かけてしたのですかね、すごく時間がかかったと思います。血管とかがあったりするかもしれないのに、そういう知識はないに等しいですから、ただ黒くなっているところだけを削ろうと思って一生懸命、必死だったと思います。傷あとが今でもここに残っていて、これはものすごく深く、皮ふが薄くなっていますから、療養所に来てからも何回も破れたりして苦労しました。

ほとんど自分1人の生活です。友達はいませんし、家族は畑に出て、田舎から勤めに行ったり、学校に行ったりですから、昼間は私1人になります。だから、1人で遊ぶことを考えないといけないのです。遊ぶといっても何にも遊び道具がないですから、うちの中のいろんな雑用をしたり、ちょっとゆとりがあれば自分の庭をぐるぐる回るぐらいで、そうやって時間をつぶして、自分1人の遊びをしていたのです。人が来たら隠れないといけないから……。だからあるとき人が訪ねてきて、ちょうど寝ていたものですから、声をかけられても返事はできないのです。だから何度ものぞきこみながら、声をかけるのですが、私はほとんど死んだふり状態で、息ができないのです。動いたらわかるから、息を止めてじっと我慢して、その人が早く帰ってくれないかなと思って……。そういう暮らしをしていて、とにかく病院に行った方がいいのではないかな、そんな状態なものですから飲む薬もありません。病院から先生方が時々訪ねてきたのをそれとなく感じていましたけれども、「行け」とはいいません。しかし、保健所とかに密告する人がいます。結局、「ああいう病人を、川上のほうに置いていていいのか。早く保健所が病院に、療養所に連れて行け」という人が多くなって、母はあまり手放したくないので、私には言わないできました。とうとう早く治療させた方がいいという思いにもなったのでしょう。「病院に行こうか」と。私がそのときに感じたのは、病院に入ったらもう二度とこの家に帰ってこられない。だから我が家を出るときは自分の命がここで終わったと思わないと出られないから……。ずっと自分の幼いころから遊んできたものを目に焼きつけておこうと思って、一つ一つ記憶にとどめるようにしていました。そして、夜中に療養所に来ました。近所の人に知られてうわさになると、私の兄弟が結婚するときとかにさわりになるものですから、できるだけひそかに来ました。

療養所に来たら、明るいし広いから、開放感があって、とてもいいところだなと思ってほっとした面もありましたけれども……。でもおかしなところだなと思うところがありました。先ほど国宗先生もおっしゃったように、療養所では作業が主です。療養は付け足しみたいなもので、だからおかしいな、病院なのに治療はそこそこでみんな一生懸命働くばかりで、なんておかしなところだろうと感じていました。療養所にいる間にだんだんと、もっと偏見や差別がこれほどのものかということを身に染みて感じさせられるわけです。私は中学校に行っていませんでしたから、分校がそこにありましたので「中学校にどうですか」と、分校の先生が来て「小学校だけではあれだから中学校に。年は16歳と取っているけど、中学校に来ませんか」ということだったので、「それじゃあ」と思って、「体の具合のいいときだけいいですよ」ということで行き始めたのです。みんなそのころは医局の先生方も看護婦さん方も重装備でしたから、大きなマスクをして、目だけ出して、帽子を深くかぶって、白衣を二重三重に着て、私がいたころは先生方が長靴で畳の上に上がってくるようなことはなさいませんでしたけれども、自分が診察用の二重三重の靴下を忘れると、上に上がってこなかったです。学校では、みんな一人一人に消毒綿が渡されて、教室に入ってくると、例えば引き戸をさわると、自分でその綿花を出して、生徒の前でしっかりふくのです。もうそれを見て「ああ」と何にもいう言葉もないぐらいで……。学校の先生にすごい人がいまして、あの当時の先生は、泥の道を歩いてくるものですから、長靴の下が汚れますので、入り口のところに足洗い場があります。先生たち用の足洗い場で長靴を洗うのですけれども、ほかの先生は自分で蛇口をひねって洗いますけれども、1人ちょっと知的に障害のあった子を張り番にさせて、自分が来る時間の前にその子に開けさせて閉めさせる。その子がたまたまいないときは蛇口を足で蹴飛ばして洗ったらそのまま流しっぱなしでいるという先生がいらっしゃった。そうやってドクターの方々、看護婦さん、学校の先生、それから私たちの窓口になっている福祉室の職員さん方からも、本当に折にふれて「ああ、そうなんだ」という自分の病気の現実を見せつけられるようにして、どんどん差別観というものが私たちに染みついてしまうのです。だから、療養所にいる人たちで、「私は菊池恵楓園に暮らしています」といえる人が何人いるかです。もう本当に染みついてしまいました。それに耐えなければなりませんが、それに耐えるには結構よかったのです。みんな一人ずつという感じで、家族と離れて、たよりもあまりなくて暮らしているから、周りじゅうがお友達であったり、お姉さんやお兄さん、お父さん、お母さんたちがするようにとても親切にします。子どもだったら、とにかく年長の人たちが、本当に自分の子と離れている場合が多いですから、とてもかわいがってくれます。子どもたちは特に大切にされていました。それだけ親から離れてさびしいだろうとか、悲しいだろうとか、親そのものも自分の子どもを手放してさびしいとか。

そうやって私たちにはそれが染みついてしまったものですから、今度の裁判のときに原告となられた方々に勇気があるなと思って、すごく感動しました。自分はここに暮らす1人として、これがらい予防法による隔離収容政策が憲法違反であるということを訴えられた。これは本当に勇気がいることだと思う。もう感動的で、自分もその一員になりたいと思ったのですけれども、故郷に暮らすもう何十年全く行き来のない家族にしても同じように苦しい思いをしてきただろうと思って……。せっかく安心して暮らしているところに、何かわざわいがあってはいけないなと思ってなかなか踏み切れなかったのです。ようやく控訴断念をさせましょうというところで、本当に私たちを支えてくださっている大勢の弁護士の先生方と、第一にボランティアの人たちのすごく温かい心が感じられました。ああ、私は自分のことなのに自分が積極的に動かなくてどうしよう。この支えてくださっている方たちに対してとても恥ずかしい、自分自身に対してでさえ恥ずかしいと思いました。今日は志村さんのピンチヒッターで来ましたけれども、お話があれば、現代の日本で行われ続けてきたということを一人でも多くの人に知ってほしい。

私は家族とのきずなも切れてしまって、両親が亡くなったときも知らせは受けませんでした。例えば、これが重罪を犯した人であっても、親が死んだときには刑務官に付き添われてでも墓参りができます。病床を訪ねることもできます。でも、私にはそれができませんでした。

母が私を園に旅立たせる、あんまり会えないかもしれないといって、私のしたくをしてくれながら、いろんな話をします。そのときに私は私が深刻になって悲しい顔をすると、母が悲しいだろうと思ってわざと冗談をいってみたりして明るくしていたのですけれども、急に母の話が途切れて黙っているのでどうしているのだろうと見たら、母の顔が真っ赤にふくれあがるようです。どうしたのだろう、体の具合が悪いのかしらと思った瞬間に叫んだのです。声とも何ともいいようがない叫び。それで私は、母はこれほどまでに悲しい思いをしていると思ったけれども、私が一緒に泣けば、母は一層悲しい思いをするだろうと思ってわざと知らんふりをしていました。「あら、お母さん泣いたのね」ともいわない。「どうしたの」ともいわない。黙って知らん顔をする。それで、母がまた泣いたりすれば私を悲しませることになると思ったのでしょう。一瞬のうちに、その声をおさめてまたもとどおり静かな顔になってその作業を続けました。

その後、付き添って私を園まで連れてきたのです。時々面会に来てくれるのですけれども、あるとき別れづらくてバス停まで送っていこうと思いました。そしたら途中で巡視の人がいたのです。「菊池野」(恵楓園自治会が発行している冊子)の今度の1月号に詳しく載っているんですが、関啓さんという方が書いた文章があるのですけれども、昔から現代までのいろんな園の状況がわかりやすく書いてあるのですけれども、昔は中の巡視、外巡視というのがありました。自転車でぐるぐる回り、患者が外に出ていないか、いろんな舎を回って、そこにちゃんと本人がいるかどうかを確認して回る、それが巡視の仕事です。その巡視の人が番小屋のところで呼び止めて「ちょっと、あなたはどこに行くの」というから、「バス停まで」といったのです。そのときは母も一緒で「あのね、患者さんはあそこに門が見えるでしょう。あそこから出てはなりません」。ほんのちょっと草深い田舎道を通っていくのに、それを知りませんでした。ここに隔離収容された身ですから、まだ飲み込めていなかったけれども、そうか私は病人だと思って……。帰りながら、杉の生け垣があるのですけど、そこの下から母の足元を眺めながら別れてきたのです。そうすると母が1時間もたたないうちに、私の部屋のあるところにまた来ました。「どうしたの」「あんたのね、足がとても力なく見えたから帰ってきたよ」と言いました。私はそういう母の温かい気持ちを嬉しく思いました。何とか長く生きて、元気でいてほしいと思いましたけれども、母といつも別れるときにこれが最後に見る母の背中だなと思いながら別れました。そんなに何回も会いませんでしたから、いつも母と別れるときはこれが最後。途中で私が、大病をしたときも来てくれました。二十のときでした。ただ寝ているだけで、何も治療はありません。全身が、猛烈な痛みです。生身を裂くとかいう表現だけではつかない感じの痛みがあって、1カ月ほどは、何も食べられずに、ただ寝ているだけ。医薬品費がないから、痛み止めの注射なんてありませんでした。その当時は痛む人が多かったので、あっという間にほとんどが1週間どころか、1日で亡くなってしまいます。そういうときは何もしないで、痛いものを我慢して、ただ寝ていました。そして、私はそのときに何を考えたかといいますと、この痛みが高い波のうねりのように来るから、何とかものすごいものになって、どんどんひどくなってくれればいい。そのものすごくうねる波のような痛みの中で考えることは、このままこの痛みがものすごく強くなって、そのまま息が切れてほしいなと思った。それがたった1つの望み。でも、周りにいたお友達が「これでは死んでしまう。何とかしなくちゃ」ということで、結局、医師に相談に行ったのです。もちろん、医師が来てくれるわけではありません。ただ、そういう痛みですから、モルヒネを処方してくれました。モルヒネを打ったら本当に何十秒もかからないうちにその痛みがとれました。それからだんだん治る、痛みが薄らいでいくきっかけになったから、現在こうしているのですけれども……。   

そのときのものがずっと神経痛とかになって起こります。こういうふうに手も後遺症となって、麻ひするとだんだん筋肉も衰えてだめになるから、指先が本当に汚くなってきて、感覚がない。感覚がなければ、やけどをしやすいとか、傷を受けやすい、その傷をしているのに気がつかないで、そのまま重症になっていくという悪循環です。   

そういう状態の中でもみんな作業をするのです。患者作業がものすごくあって……。

そこで私が本当におかしいと感じたのは、死ぬ人がとても多かったことです。最初入ったときに何で死人が多いのだろうと感じました。いつもごろごろ大八車に乗ったひつぎが寮の横手を通るのですけれども、友達がみんな「まただれか死んだんよ」という。「どうしてわかるの」といったら、「大八車が通るから」と。石で敷き詰めた割れ目のあるようなところを大八車が通るものですから、夜にとても響いて聞こえます。それをずっと火葬場まで引いて行って、園内の火葬場で火葬にするのです。まきでするものだから、長くかかります。とにかく何から何まで患者作業でやっていたのです。そういうふうにして暮らしているうちに、みんなは治療どころではない、重症者の看病もしなくては、自分の生活もあり、いろいろとして、だんだんと手足も悪くなっていきました。先ほども国宗先生がおっしゃったように、高齢の人は90歳を超えてしまって、体に障害があっても、この病気は病気そのもので死にません。インフルエンザなんかにかかると、下手をすると何とか脳症とかいうのがあると聞いたのですが、そうやって死んだりしますけれども、死なないところだけがいいのか悪いのか。

先ほど話しましたように、両親が死んだのも知らせてもらえなかったし、やはり帰ってきてほしくないと思うのでしょう。いろんな偏見や差別を受け続けたから、家族は思い出したくないのです。もう本当に思い出したくもない、私に帰ってきてほしいなんて思いもしない。そういうことをそれとなく自分で感じるものですから、墓参りにもまだ行けないのです。両親が死んでからもう17年になりますけど、まだお墓に参ったことがないのです。自分で自分の心に墓を建てようと思い、両親のことは毎日忘れることがありません。

同じく忘れられないのは、私が結婚して、妊娠して「中絶をしましょう、いつしますか」と先生から言われたときに、何が悲しいとか何とかではなくて、すごく泣いたのです。私は自分ではそんな人前で泣くこともなかったのに、どうして泣いたのだろうと思ったのです。普通なら「妊娠しましたよ」というと、その時点で今は母子手帳とかをいただいて「大事になさい」「おめでとうございます」という言葉が返ってくると思うのですけれども、そうではなくて「いつしましょうか」と……。そのときも私はこういう病気だから、妊娠しても「おめでとう」も言ってもらえない。喜んで生まれてくることさえできない子がいる。あそこでは、それは普通のこととされていたのですが、自分の身に降りかかると、それはものすごくつらい思いでした。子どもの形はまだできていないですから位はいとかそういうものはありません。写真ももちろんありませんから、そのかわりの人形をその子と思って、その生まれてこられなかった子どもの年を数えながら、いつも仏壇では両親と子どもをまつるのです。だから私はこのように若い方たちを見ると、私の子どもも生きていたらこうだっただろうかとか、こうしてこんなしぐさをしただろうかとか、なんとなく親しい感じがするのです。若い人や子どもたちを見ると、自分の子どもではないけれどもつい親しい感じがするのです。

今度、違憲の裁判が起きて、私もやはり周りの人と同じように国のお世話になっているとか思ったりもしたこともあるのですが、それはやはり間違いだった。私は私で選びたかった。今はどこでも、何の病気でも医者を自分で選ぶことができますけれども、私たちには選ぶ権利がなかった。ただ一筋に療養所に隔離収容するだけだったから……。だから私は自分が生きるとか死ぬとかいうことは自分で選びたかったと思いました。例え、のたれ死んでもいい、自分で選んだ人生だったら納得がいくけれども、「あなたたちはここに汚いものだから、この塀の中に入って出てこなくていいよ」というのは本当に自分としては納得できないと思いました。こうやって弁護士の先生方とか支援者の方たちに励まされながら、私は生まれて初めて、去年の10月に飛行機に乗りました。東京に抗議行動のために国会ローラーに参加させてもらいました。何もかもが本当に初めてづくしですけれども、あちこちに行きたかったりして、帰ってくるとくたくたですけど、「また行きましょう」というと最後まで頑張り、もう乗りかかった船というかほとんど躊躇しないで、目的に向かって一目散に行かないとだめだなと思って……。そうやって今度の裁判を皆さんと一緒に闘わせていただくのです。いかに個人個人の人権が大切か。

ここにいらっしゃる方は、みんな二十を過ぎていますか。どうでしょうか。選挙のときはどう考えて投票なさいますか。私は若いころから自分自身のことを考えながら、自分が置かれた環境があまりにも自分に納得できないものだったから、選挙のときはとても真剣に人を選んで、欠かしたことがないのです。

皆さん方、まだ若くていらっしゃるから、これから結婚して家庭を持って、子どもさんが生まれてというときに、これから今まで行われてきたようなひどい政治をさせないためにも、一人一人の目で確かなものを見て、自分たちの未来、子どもたちの未来のために、やはり国は一人一人がつくりあげていくと思うのです。今、国は国民にこれをしてやっているとかいいますけれども、国というものは国民一人一人のもので国民が支えている、つくっていると思うのです。だから、私が思うように、自分自身のために闘うときは闘いぬく。ここに集まっていらっしゃる若い人たちには、悲しむ者が少なくなるように、自分の将来に幸せな家庭が築かれていくように、人の支えを求めて支えてもらって目的を達することを、真実を見分ける目を持ってほしいと思います。私は小さいときから、家族に恵まれませんでした。最近はどうでもいいのではないかという風潮があり、親に反対してみたり、ちょっと暴力的になってみたりとかありますけれども、本当に真剣に自分の幸せを考えて、勉強もですが、周りの人と手を携えて、生きてほしいと思います。

どうもありがとうございました。