川辺川利水訴訟判決について
−勝利した平成の百姓一揆−
川辺川利水訴訟弁護団
団 長 板 井 優
目 次
T 完全勝訴判決と上告断念(確定)の歴史的意義
U これまでの闘いの経過
V 川辺川・球磨川流域住民の闘いの影響
W 大型公共事業をめぐる全国の闘いへ与えた励まし
X 今後の課題―農業の新たな発展を目指して―
資料 弁護団名簿
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この裁判を闘われた原告団長梅山究さんを始めとする原告および補助参加人各位、並びに原告団事務局林田直樹さんに深く敬意を表するとともに、これを支えられたご家族に厚く感謝し、闘いの半ばに倒れられた方々に心からご冥福を申し上げます。
また、この裁判を最初からご支援いただいた川辺川利水訴訟を支援する会
(北岡秀郎代表)に厚くお礼を申し上げます。
T 完全勝訴判決と上告断念(確定)の歴史的意義
1 はじめに
九州の丁度真ん中に当たる熊本県球磨郡を流れる球磨川は日本三大急流のひとつとして知られ、その河口は九州のおへそに位置する不知火海に面する八代市である。
国営川辺川総合土地改良事業は、建設予定の川辺川ダムの水を水源とする用排水事業・区画整理事業・農地造成事業からなっている。旧建設省が川辺川ダム(当時は五木ダム)計画を立てたのは1966年である。その時点では、治水目的だけであったが、1968年には利水を入れた多目的ダムとして計画の変更がなされた。
1980年3月27日、熊本地裁は、川辺川ダム建設計画の取消を求める水没予定地に住む五木村民の請求を却下した。これを、きっかけに水没予定者の大多数は条件闘争へと転換した。
1984年、農家の申請事業の形で、川辺川土地改良事業計画(当初計画・対象地域1市2町4村約3600ヘクタール)が公示された。しかし、1994年11月6日農水大臣は面積等を縮小する変更計画を決定した。
そこで、1144人の農家がこれに対し計画取消の異議申し立てをしたが、農水大臣が1996年3月29日却下もしくは棄却したので、866人の農家が同年6月裁判したものである。
2000年9月8日、熊本地方裁判所は原告農家敗訴の判決を出したが、同月22日、原告農家の9割は控訴を申し立てた。
2 画期的な福岡高裁判決
@ 完全勝訴判決
2003年5月16日午後2時、福岡高等裁判所505号(大法廷)で、小林克已裁判長は、川辺川利水訴訟で、一審判決を変更して利水事業・区画整理事業について取消すとの判決を下した。
判決は、理由中で、用排水事業については同意率が65.66%、区画整理事業で64.82%と事実認定し、土地改良法87条の3に定める3分の2以上の同意(66.666…%)に足りないので2つの事業は違法として取消すとした。
A 判決の意義
当初、農林水産省などは判決に対して一部勝訴などとの宣伝をしていたが、農水省が勝った農地造成事業は利水事業がなければ水は来ない欠陥事業であり、事実上農水省の全面的な敗訴であった。その意味では、原告農民側の全面勝訴判決であった。
加えて、3分の2以上の同意があるか否かの判断はいわゆる事実認定に関する判断であり、法律審である最高裁に対しては上告理由とならない。したがって、農林水産大臣が形だけの上告をしても、人吉・球磨の農民に農業政策が浮動状態にあるという苦しみを押し付けるだけの結果にしかならないものである。
したがって、福岡高裁判決は、原告農民が国民世論の支持と理解の下に上告断念を求めて断固闘えば判決を確定させることができるという画期的な完全勝訴判決であった。
確かに、この判決は費用対効果・事業の必要性の司法判断は変更計画には及ばないとし、同意取得手続きの違法性を認めず、錯誤などについての原告弁護団の法律上の主張を退けた。
しかしながら、裁判は本来個別具体的な事件の解決のためになされるものであり、国が「始めにダムありき」の立場から何が何でも裁判を引き延ばして利水事業やダム建設を強行しようとしている状況の中では、憲法が求める司法の行政への抑制作用を断固行使するか否かが問われたこの裁判で、判決に示された裁判所の判断はまさに歴史的な決断であった。
3 上告断念は歴史的な英断
@ 農林水産大臣の上告断念
原告農民や弁護団、支援は判決を受けて、福岡、東京、熊本で直ちに上告断念を求める闘いを展開した。九州農政局は事業白紙撤回を迫る申し入れ書を受けて事業中断に追い込まれ、農村振興局長はアポなしで上京団との交渉に応じざるを得ない有様であった。また、農林水産大臣は、判決直後には原告農民を支援する国会議員たちに会わざるを得ず、さらに19日には激しく降りしきる雨の中農林省正門前座り込み行動を背景にした原告・弁護団、支援者、これを国会議員とともに交渉せざるを得なくなったものである。
この判決や闘いを受けて亀井善之農林水産大臣は、2003年8月19日午後8時、上告を断念する旨の談話を発表した。そして、談話では、「今後、本地域の農業用水の確保については、関係農家の意向を確認して、これに基づき必要な整備を進めることが適切であると判断した」と続けている。
A 上告断念の意義
上告断念の意味は、まず、5月30日の上告期間を待たずに判決確定があったのと同じ行動を農林水産大臣が自主的に取るということである。その最大の行動は、川辺川土地改良事業が判決の示した論理に従った結果存在しないと宣言することである。そして、この判断を受けて、判決確定前に自主的に請負工事契約が解約された。
農林水産大臣は、談話の中で、今後この地域で利水事業をするときには関係農家の意向を確認して必要な整備を進めると、「ダムの水による利水」と限定しないで公式談話を出した。熊本県知事は、すでに5月8日にダムの水によらない利水を検討すると記者会見で言明していた。
したがって、川辺川土地改良事業は存在せず、水源をダムの水に限定しない新たな模索が始まったのである。まさに、今回の上告断念は、この地域における農業政策が浮動している状態を解消し、農民の立場に立った新たな農業の展開をする機会を与えたものである。
B 判決確定の歴史的意味
かつて、この国の行政は公害問題で典型的に見られたように後手後手の対応に終始した。しかしながら、2001年5月11日のハンセン病国家賠償判決に対し、国は控訴せず自主的に判決に従った。これに対し、法務省の大臣官房長は「明治以来の司法の快挙」と明言した。
今回の上告断念は、事前に法務省・首相官邸との打合せの下でなされたもので、ハンセン病判決で問題となった国民の基本的人権の課題ではなく、大型公共事業により農村振興を図る農業経済政策の分野にまで、まさに「明治以来の司法の快挙」が広がったことを明らかにしたものである。
U これまでの闘いの経過
1 国営利水計画の変更に至るまで
戦後、火山灰だらけの高原(たかんばる)台地に入植した農民の切なる要求として始まったいわゆる北部利水問題は、減反政策はもちろん、水のないところではお茶などの作物の開発、水のあるところでは地域ごとの利水事業の展開を通じて、その必要性は大きく減殺されるに至った。
しかしながら、1963年から65年の3回にわたるこの地方の水害を契機に、旧建設省(国土交通省)が66年に治水目的のダムを計画し、さらに68年に利水目的を加えて多目的ダムとして計画したことによって利水計画は「始めにダムありき」で動き出した。
ダムにより水没が予定されている相良村の一部やとりわけ大半が水没する五木村では、村民の激しい抵抗が裁判という形まで含めて展開された。しかしながら、氷のように冷たい1980年3月27日の熊本地裁判決で敗訴した五木村の闘いは、82年6月13日の村民大会などを経て条件闘争へと転換した。
この時に、現実にダムや利水事業を推進する政官財一体となった大型開発事業推進派は、下流域の住民の生命財産を水害から守るという治水目的と、北部利水によって農業振興を図るという下流域農民の利水目的と、水没する五木村民の切実な利益とを対立させて、五木村民を孤立させた。当時の闘いは、残念ながら流域住民や県民ひいては国民に依拠したものとはなり得ず、司法も形式論理で 五木村民の要求を無慈悲にも却下した。
そして、これを受けて、83年農水省は川辺川農業利水事業所を開設し、農家申請とされた84年6月9日付けで国営川辺川土地改良事業計画(いわゆる当初計画)が決定・公告された。このときの同意取得は、のちに事業実施の際には対象地域から除外するとの密約が地域の有力者との間で交わされた下で行われ、ほぼ全員が同意したというものであった。
こうして、川辺川ダムを巡る問題は終わったとする世論が大きく広がった。しかし、歴史は「法にかなわない、理にかなわない、情にかなわない」この問題を終わらせることはなかったのである。
2 国営利水変更計画に対する異議申立を巡る闘い
1994年2月8日、農林水産省は国営川辺川土地改良事業変更計画(いわゆる変更計画)を公告し、同意署名を集めた。
しかしながら、利水農家を巡る状況は一変していた。減反政策に引き続き、農産物の自由化政策により農家は国際間の価格競争を強いられており、また各地域での利水事業はほぼ完成し、ダムの水はいらないというのが実情であった。そこで、農民側は、国営・県営・団体営として農地に引かれる用水の最終的な水代と農業政策の内容を明らかにするように、農水省に情報公開を迫った。これに対し、農水省はあたかも水代がタダかのような宣伝を行い農家に同意を迫ったのである。まさに、無駄な大型公共事業を騙してでも農家に押し付けようとする国家的詐欺行為が白昼堂々と行われたのである。
そして、同年11月4日付けで農水大臣は、3分の2以上の同意があるとして変更計画を決定・公告した。
これに対して、同年12月21日までに1144名の農家が異議申し立てを行い、同月29日には口頭審理の申立をした。これに対し、都合3回の口頭審理が行われたが、ダム建設を急ぐ川辺川ダム審議会の審理に合わせ農水省は1996年3月29日、不当にも審理を打ち切り、異議申し立てを棄却する決定を行った。
3 裁判を巡る闘い
@ 熊本地裁における闘い
@ 国を追い詰める闘い
1996年6月26日、866人の農家が裁判に立ち上がり、さらに補助参加人が続々と加わって、合計2100人を超える農家が変更計画の取り消しを求めて闘った。
裁判の中で国は追い詰められ、1997年9月になってついに変更計画の同意署名簿を裁判所に提出せざるを得なくなった。しかしながら、その時期は民事訴訟法が改正され、書面の成立についての立証責任が転換され、多数当事者の裁判について原告の切り崩しを許すことになった後であった。しかしながら、原告弁護団はこの切り崩しを許さず、自らの責任でこの同意書名簿を調査していく中で、死者の署名や市町村の職員による偽造署名、錯誤に基づく署名など法に反した同意署名の実態が明らかになった。
A 司法の自殺
ところが、熊本地方裁判所はすべての対象農家の調査が終わっていないのに、1999年秋に、結審判決の方向を取った。原告としては当時約2000人しか農家の調査が終わっておらず、この段階での結審であれば、3分の2以上の同意はないとの判決しかありえないとして判決に応じた。
しかしながら、判決は3分の2以上の同意があるとするものであった。原告弁護団は民事訴訟法にも反したこの判決に対し「司法の自殺」であると厳しく批判した。
判決後に、農水省渡辺構造改善局長との間で行われた交渉で、渡辺局長は梅山究原告団長らに対し、判決の結果は騙されるのが悪いとまで言い放った。まさに、犯罪者の論理ここに極まれりという状態であった。これに対し、原告団は「ノーなものはノーだ」断固控訴したのである。
こうして原告農家の9割が怒りの控訴を行った。
A 福岡高裁における闘い
@ 終始圧倒した訴訟進行
福岡高裁では、原告団は本件変更計画について十分に審理した上で早急に判決することを求めて、残り2000人の対象農家の証拠調べと、憲法の立場から同意取得手続きについて中川義道熊大教授、事業の必要性については中島熙八郎熊本学園大教授、費用対効果については宮入興一愛知大学教授を証人として採用させて、変更計画の問題点を余すところなく明らかにした。
また、一審で調べてなかった約2000人についてもアタック2001の運動を通じて調査し抜き証拠として提出した。
原告弁護団はそのために、2001年3月の進行協議で証拠調べの方針を明らかにし、5月21日の第1回口頭弁論では「ダムの水はいらない」とのビデオを上映するなど原告の主張をビジュアルに展開した。また、法廷傍聴も毎回成功させ、途中から脱落した推進派と際立った違いを明らかにし圧倒した。
特に、裁判所での闘いの中で、変更計画の同意署名簿が変造されたことを明らかにし、さらに、すでに廃棄したとされる当初計画の同意署名簿をも提出させ、国が3条資格者を200人以上もはずして違法極まりない同意取得をしていたことを明らかにした。
こうして、裁判所の目の前で次々と暴露される驚くべき同意取得の実態は、本件変更計画の同意取得にはいかなる正当性もないことを明らかにすることになった。
A アタック2001の意義
アタック2001は、一審で調査未了であった約2000人の3条資格者の全員について調査不能ということも含めて調査したものである。この取組は、次の点で画期的な内容を持っていたのである。
第1に、これだけ多数の人たちが参加する裁判で、原告弁護団が作成した調査票に基づきその指示の下に、原告農民やこれを支援する市民が調査する形での資料を証拠とすることを裁判所が認めたこと
第2に、これまでの裁判手続きでは傍聴支援以上のことが出来なかった市民が、裁判の自らの名前で裁判手続きでの証拠調べに参加しこと
第3に、その結果、判決で死者の同意署名など完全偽造、一部偽造についての未同意の立証だけでなく、全ての者を調査したという事実から調査不能の一群の立証責任が農水省にあるとして、未同意者として数えることになったこと
第4に、以上の意味で新たな形で大衆的裁判闘争の理論と行動を発展させたこと
B 時間と空間を超えた連帯を求めた闘い
原告農民の闘いは、一度は下流域の住民の声に従うということでダム湖に沈むことを決断した五木村民からすれば、外形上大変不信に満ちた行動である。しかし、前述したように、それが大型公共事業を強行する政官財癒着による分断工作による結果ということが理解できれば、時間と空間を超えた連帯が可能となる。
その意味では、全ての流域住民との連帯を求めて闘い続けることが勝利への最短の道となる。まさに、ここでの時間は、分断されたものが連帯し団結するために与えられた武器である。
私たちは、そうした立場、さらに全国の国民の支持と理解を求めて毎年夏に現地調査を行ってきた。このなかでは,西村久徳五木村長も現地での報告者として加わった。
V 川辺川・球磨川流域住民の闘いへの影響
1 川辺川ダムをめぐる闘い
美しい川辺川とともに生き続けようと誰よりも願ったのは他ならぬ水没を決断させられた相良や五木村民たちである。
また、自らの体験として、ダムが水害を防ぐのではなく逆に水害を招くのではないかという拭い去ることの出来ない深刻な疑いを持っているのは、他ならぬ人吉を中心とする下流域の市民たちである。
さらに、これまでダム建設が豊かな漁業資源を奪い生活の基盤を掘り崩すことにつながると深刻に思い詰めているのは、戦後漁業補償を受けて球磨川本流のダムつくりに応じざるを得なかった漁民たちである。
そして、尺アユと球磨川くだりという永遠に続く自然の恵みの大事さを知り尽くしているのは、大型公共事業によってもたらされる宴会や宿泊による経済効果も知り尽くしてきた旅館・ホテルなどの観光業者たちでもある。
最後に、ダム建設により、川辺川での尺アユ釣り、カヌー・ラフティング、心が洗われるよう旅行など人生の楽しいひと時を永遠に奪われることに深刻な危機感を持っている人たちは、かつてはわが国のどこにでも存在した川辺川のような川を守れなかった多くの国民でもある。
われわれは豊かな自然が無尽蔵に残っているからこれを守ろうとしているのではない。逆にこれを失い続けてきた痛みが分かるからこそこれを守ろうとしているのである。
清流川辺川を残そう、ダムはムダという闘いは、後のない譲ることの出来ない人間たちのぎりぎりの要求なのである。
2 流域住民の闘いへの影響
清流川辺川は何よりもこの川に棲む尺アユなどをはじめ豊かな資源を産む永久の財産であるばかりか、川辺川をめぐる豊かな自然環境は、流域住民はもちろん極言すれば人類が生存する上での必要にして不可欠な環境そのものでもある。
ダム建設が、10年単位という一時的な形で鉄とコンクリート使うことによる経済的効果をこの地域に冨をもたらすことは争うことの出来ない経済法則である。しかし、その時期を過ぎればこの経済効果はなくなり、逆に深刻な経済危機をもたらすことになるのもまた争うことの出来ない経済法則である。九州縦貫道路という高速道路の建設は、この地域の一部にその論理を刻み込んだが、いまだ流域全体の追体験とはなっていない。
国による大型公共事業が止まることがないという思いと諦めが、永遠に等しい豊かな恵みを壊してでも一時的な経済的活性化を得たいという現象を生み出していることは、紛れもなくわが国の現実であった。
今回の農水省の上告断念は、絶望ではなく希望を持ってあきらめずにともに手をとって闘うことの大切さを流域住民に教えたのである。
W 大型公共事業をめぐる全国の闘いへ与えた励まし
わが国では、住民の意思に反した無駄な大型公共事業がいまだに大手を振ってのし歩いている。
例えば、近くでは諫早湾干拓事業による有明海が死滅しようとする現実がある。また、東京では、霊山高尾山に道路トンネルを造ろうという神をも恐れぬ事業が強行されようとしている。
全国各地のダム、道路、橋、トンネルなど数え上げればきりのないもの誰もがこれを滅ぼすことが出来ないと思っていた現代の悪魔、その名は「大型公共事業」。
しかし、闘い方如何ではこれをとめることが出来る。今回の上告断念はまさに全国で頑張っている多くの方々に対する希望のメッセージである。
X 今後の課題
1 農業の新たな発展を目指して
国営川辺川土地改良事業は、現在、この地域に存在しない。農民の意思に反し、国民の税金を無駄に使うこの大型公共事業は死滅した。
しかし、この地域に生きている農民に水は必要である。太陽と大地と水は古代から農業になくてはならないものである。そして、農業とはまさに水を求める闘いでもあった。
しかしながら、「始めにダムありき」という利水事業を原告農民たちは「ノーなものはノー」とこれを許さなかった。今日、闘ってきた農民たちは「ダムの水はいらん」と高らかに宣言する。
そして、原告農民たちは、ダムの水によらない新たな利水事業を求めて、この地域の農民たちとの新たな団結を軸に、水源から海に至るすべての流域・海域の住民たち、さらには熊本県民、国民、すべての人類と時間と空間を超えて連帯して生きていく決意を固めている。
2 ダムは要らない
川辺川ダムは多目的ダムとして計画され、今回利水という重要な目的の中味である国営利水事業計画が違法とされなくなった。その結果、土地収用法に基づく事業の認定申請の際に添付された国営川辺川利水事業変更計画と、現在の申請手続きとの間で著しく異なることが明らかとなった。
その結果、川辺川ダム建設事業計画は土地収用法上却下されざるを得なくなったのである。そこで、国土交通省はなんとかこの苦境を乗り切ろうと様々な手を使っている。しかしながら、国営利水事業が裁判所の判決で違法とされ、農水大臣がこれを受け入れ上告を断念したというかつてなかった事態の中で、最早国土交通省に逃れる術はない。
私は、勝訴判決直後、ホップ(利水の勝訴判決)、ステップ(上告断念による判決確定)、ジャンプ(国土交通大臣のダム計画の見直し)により、川辺川ダム問題の解決を図ろうと提起した。
今、国土交通大臣がすべきことは、川辺川ダム建設事業計画の見直しという歴史的英断である。その上で、この問題を、河川法による河川整備計画策定の中で論議し、ダムに依拠しない新たな河川のあり方を実現 していくことである。球磨川水系の河川整備計画は源流から海に至る流域住民の意見によって作られるべきである。その意味で、川は最早国すなわち官僚のものではなく、国すなわち国民のものである。日本国憲法は公務員をして全体の奉仕者であるとする。それは、この国の主人公が国民であることを謳ったものである。
今、流域住民たちは自らの力で扉を開き、国民こそが主人公という新たな歴史が始まろうとしている。
この裁判で証言された中島熙八郎、中川義朗、宮入興一の三人の教授に深く感謝いたします。
資料 弁護団名簿
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板井優(団長)
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西清次郎(副団長)
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森徳和(事務局長)
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内川 寛
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奥村惠一郎
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尾崎俊之
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国宗直子
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塩田直司
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寺内大介
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原 啓章
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松野信夫
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馬奈木昭雄
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三浦宏之
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三角 恒
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堀 良一
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