南京防衛軍

南京防衛軍の戦力






『南京事件』P208  秦郁彦 中公新書
 当時の日本軍は前者を約十万(佐々木倒一回想録、飯沼日記など)と推定していたが、中国側や外国人居住者は約五万と見ていたようである。日本軍が戦場で入手した張群思少佐のメモも五万と記していた。五万と十万では二倍の開きがあるが、あるいは台湾の公刊戦史が記すように「当初は10万、落城時は3.5万〜5万」とするのが実体に近いかもしれない。
 兵力計算を困難にする理由に、民兵の存在があった。正規兵はカーキ色のラシャ制軍服を着ていたが、戦闘直前にかき集めた予後備兵、少年兵をふくむ民兵は濃緑色の綿製軍服を着用、なかには私服のままの者もいた。局面によっては、正規兵よりも民兵のほうが多く、とくに難民区に逃げ込んだ者は民兵が主体だったようだ、という参戦者の証言もあるが、中国側が主張する兵力数に、この種の民兵が含まれているかはたしかでない。


 台湾の公刊戦史が記すように「当初は10万、落城時は3.5万〜5万」という部分が重要です。





『日中戦争史資料集8 極東国際軍事裁判資料編』 P395
(東京裁判判決文)
「中国軍はこの市を防衛するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難したので〜略〜」


 東京裁判認定では、退却時五万です。この点にについては中国側の異論もなかったようなので、本来は南京防衛軍の数については本来は論じる必要がないはずなのです。










■南京防衛軍の数についての歴史的変遷を見てみると。


▼1946年、東京裁判では「南京防衛軍は退却時五万」と認定しています。

▼1984年、初版の中国側公式資料集である「証言・南京大虐殺」(日本語版) でも、南京防衛軍は「退却時五万」となっています。

▼1985年11月に「孫宅魏」氏 が発表した「評唐生智在保衛戦中的功過」においては 「南京防衛軍10余万」となっていますが、これは、当初の動員兵力が10万余りという意味ですから 陥落時は5万程度という見解になるようです。(5万と明記されているわけではありませんが)

▼1988年、「南京防衛軍当初15万、虐殺8万説」(孫宅魏)説が突如として浮上してきました。なんらかの新資料が発見されたわけでもないようなので、非常に不思議なことです。



 



当初15万、虐殺8万説の検証。
 ここでは、虐殺派の中心人物である、宇都宮大学の笠原十九司教授の見解を分析してみることにします。



『南京事件』P223〜226 笠原十九司 岩波新書
 わたしは、総数15万人の防衛軍のうち、4万人が南京を脱出して再結集し、2万人が戦闘中に死傷、約1万人が撤退中に逃亡ないし行方不明になり、残り8万人が捕虜・投降兵・敗残兵の状態で虐殺されたと推定する。(南京防衛と中国軍)。表1からも、その数字は納得できるのではないかと思う。 


 撤退成功が5万で、戦死が2万という見解なようです。これらの期間(南京城攻防戦12/10以降なのか、外郭陣地(近郊部分を含んだ)南京作戦区での戦闘12/4以降なのか)が不明なのでなんとも論評が難しいのですが、それをひとまずおいといて、笠原説の問題点を指摘していきましょう。







「南京大虐殺の研究」晩聲社 P248〜250 笠原教授の記事


 そこで、現状においては、当時の防衛軍の記録が総数をどう記録しているか、つぎに防衛軍の総数を知る立場にあった高級指揮官の回想録にどう記されているか、を見ることがいちばん参考になろう。

一 南京防衛軍司令部編成の防衛軍総数

(1)「国民党第三戦区作戦経過概要・南京会戦」
  12月初、南京守備軍約十五師強

(2)「憲兵司令部在京抗戦部隊之戦闘詳報」
  (撤退時に)10余万の大軍が長江岸に雲集・・・・邑江門から10余万の大軍が退出した。

(3)劉斐・国民政府軍事委員会・軍令部第一庁(作戦)庁長
  「抗戦初期的南京保衛戦」
  蒋介石は可能な限りの兵力を南京防衛に動員し,合計10余万人に達した。

(4)宗希濂・第78軍軍長兼第36師師長「南守城戦」
 (当初の七万人前後に加えて)3個軍の実戦兵力計約4万人前後を新たに増加し、南京防衛の総兵力は約11万余人になった。

(5)譚道平・南京防衛司令長官部参謀処第一科科長
「回憶一九三七年唐生智衛い南京之戦」
12月8日・・・・・ここにいたり、南京防衛に参加した部隊はすでに10万人ほどに達した。

(6)欧陽午・第78軍第36師第108旅第216団第一営営長「南京保衛戦側記」
(南京外囲陣地と南京複廓陣地の)両戦線に配備し、合計兵力約11万人、20万人と公称した。

(7)杜聿明・陸軍装甲兵団司令「南京保衛戦中的戦車部隊」
南京防衛の十余万の将士は、蒋介石の投降主義のため、不必要で報われない犠牲となった。

(8)将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部・抗日禦侮 第三巻」
「第八章野戦戦略」 11月26日に唐生智上将を南京防衛司令長官に任命し、上海から撤退して南京に来た約14個師(すべて残存部隊)の兵力を指揮させ、南京を守らせた。



 次に日本側の資料になるが、南京防衛軍の総数に言及しているものを以下に紹介しておく。



(9)「上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の陣中日誌」
12月17日
今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約20コ師10万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約5万、海軍及び第10軍の撃滅したる数約3万、約2万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。

(10)「第十六師団参謀長・中沢三夫大佐の手記」の「敵の兵力、敵に与へたる打撃」(カッコ内は笠原)
(基本部隊は)計八〜九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八〜九万。以前(上海派遣軍)軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ二〇師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か一〇師分ある故二〜三千と見て二〜三万、総計一〇〜十三万の守備兵力なるへし。


 以上の資料からほぼ確実に言えることは、最高時の南京防衛軍の編制は約15師相当の部隊よりなり、総兵力は10万以上と言う事である。数としては、11〜13万という数字があげられている。ここではひとまず10数万という言い方をしておく。



 ここで問題になるのは、この防衛軍総数に中国で、雑兵、民夫、民工と呼んだ後方(勤務)部隊の兵数がカウントされているかどうかである。南京防衛に参加した第71軍第87師所轄の第二六一旅旅長・陳頤県から筆者が直接聞き取りをしたときの話では、当時国民党軍の一旅は7000の兵員からなり、戦闘兵が5000人、運送などにあたる後勤部隊が2000人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。
 上記の資料で「総兵力数」と兵力を明記している場合はおそらく(武器をもって敵と交戦できないという意味で直接の戦闘力にならない)雑兵の類をカウントしていないしたがって正規、非正規の後勤部隊の兵数を含めれば、南京防衛に動員された者の数は上記の数をさらに上回ることになる。

〜中略〜

 そこで現状ではやむなく概数を推測せざるを得ないが、先の総兵力と次に述べた正規・非正規の軍務要員とされた軍夫・民夫を総計して、(すでに紹介したことのある江蘇省社会科学院の孫宅魏氏の推定した)約15万という数が、いまのところ妥当であるように思う。





 問題点(1)

 なるべく公平に検証するのが目的なので、長めの引用となりました。この理論には幾つかの問題がありますが、その中でも一番問題なのはこの部分です。

笠原教授の主張

「この防衛軍総数に中国で、雑兵、民夫、民工と呼んだ後方(勤務)部隊の兵数がカウントされているかどうかである」

「上記の資料で「総兵力数」と兵力を明記している場合は お そ ら く(武器をもって敵と交戦できないという意味で直接の戦闘力にならない)雑兵の類をカウントしていない」


 つまり10万余という数値には、支援部隊(中国で言う雑兵)の類が含まれていないという推測をしている部分が問題といえるでしょう。これらの数値に「雑兵が含まれている」というのは、いくつかの資料によりあきらかになっています。




(5)譚道平・南京防衛司令長官部参謀処第一科科長
「回憶一九三七年唐生智衛い南京之戦」
12月8日・・・・・ここにいたり、南京防衛に参加した部隊はすでに10万人ほどに達した。
 
(4)宗希濂・第78軍軍長兼第36師師長「南守城戦」
 (当初の七万人前後に加えて)3個軍の実戦兵力計約4万人前後を新たに増加し、南京防衛の総兵力は約11万余人になった。

 上記表(5)、譚道平推計には確実に「支援部隊(雑兵)」が含まれており、宗希濂の記述も分析すると、(当初の七万人前後に加えて)という部分は譚道平推計とほぼ一致することから、やはり支援部隊(雑兵)含まれると考えられます。(詳細は、15万説の考察ページで説明)











支援部隊(雑兵)が含まれるという根拠


『評唐生智在保衛戦中的功過』 1985年11月
「孫宅魏」著作 「笠原十九司」訳

 一方中国軍は、唐生智の率いる守城部隊が十五個師、およそ十余万人であったが、雑兵が多く、敵軍と直に戦闘できる兵隊は六割にすぎなかった。防衛軍全体の中で、まだ入隊したばかりの新兵が四割近くもしめていた。

(『南京事件を考える』P160 より 大月書店)


 以上のように、南京防衛軍10余万には明確に「支援部隊(雑兵)」が含まれていことになります。このことは笠原教授自身もご存知だったようなので、「おそらく〜含まれない」という自信の無い表現になったものでしょう。(ちなみに、新兵40%というのは戦闘兵の中で40%という意味で、譚道平推計では、およそ2万6000人が新兵だったとされている)

 陣地構築に動員された民間人労働者がいたとしたら、これは南京防衛軍には含まれないと考えられますが、いたとしても戦闘開始前には解放されていると思われます。仮に軍隊に置いていても、戦力として役に立たないうえ、食料を配給しなければならないのですから意味がありません。兵士として徴用された者が、工事を行っていた場合は防衛軍に含まれるでしょう。












 問題点(2)

 笠原教授の文章を読むと、「笠原説」「陳旅長」「孫宅魏」これらの主張が互いに一致して、支えあっているかのように書いていますが、これはちょっと問題です。実は、孫宅魏説と陳旅長説は明確に矛盾しているのです。
 まず「陳旅長」の聞き取りですが、一ケ旅(日本風に言うと旅団)の総数が7000人(戦力が5000人+支援部隊2000人)としています。陳旅長の説を元にして計算すると、「一ケ師=1万7500人」ということになり、孫宅魏説のほか、ほとんどの資料と矛盾することになります。(戦力比較表参照)




孫宅魏説による一ケ師の編成表
一ケ師
(師団)
10.923名
一ケ旅 4400名
(旅団)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
一ケ旅 4400名
(旅団)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
砲兵営・工兵営・輜重営(団に相当)2200名 3ケ営


孫宅魏15万説では雑兵を含んで一ケ旅は約4400人です。
陳旅長の一ケ旅7000人説とは両立しない。


 このように、陳旅長の戦後の証言は、支那事変当時の資料とは明確に矛盾するようです。(戦力比較表参照)





 以上の検証により、「笠原教授の防衛軍当初15万、8万人虐殺説」は当時の資料に基づかない説であると判断して間違いないでしょう。







 





トップへ
トップへ
戻る
戻る