戦力比較表

 
南京防衛軍の戦力推計

表1 日中両軍一個師団単位の装備比較表(戦争直前)
日本軍 中国軍
人員 21.945人 10.923人
馬匹 5.849匹
歩騎兵銃 9.476挺 3.821挺
擲弾筒 576個 243個
軽機関銃 541挺 274個
重機関銃 104挺 54挺
榴弾砲・野山砲 64門 16門
連隊砲・大隊砲 44門 30門
戦車 24輌
車両 262輌
トラック 266輌
馬車 555輌

[出典] 『中日戦争史略(上)』挿表第七



 この編成表は、『中日抗日戦争史』 石島紀之著作、青木書店P55から転載したものです。表の解説について、同書から引用してみましょう。

『中日抗日戦争史』P55 石島紀之 青木書店
 しかし統一と建設が前進したといっても、当時最強の帝国主義国の一つであった日本との全面戦争を戦いぬくためには、中国の抗戦力はなお本質的な欠陥をもっていた。軍隊の整備計画によって、開戦時には10余個師の調整師団が編成をおえていたが、この新団編成でも、一個師団単位の戦闘能力は、火器と機動力などで日本軍をかなり下回っており(表1)その他の中国軍の実力は新編成師団の5割前後に過ぎなかった。開戦時の中国軍の総兵力は二〇〇余万人、一八二個師と数だけは膨大であったが、中央政府が直接指揮できる軍隊はその四分の一程度で、二分の一は地方指揮官を通じて間接的に指揮できたにすぎず、残りの四分の一は地方軍閥の手中にあって、中央政府は手を付けることができなかった。一方、中国共産党の軍隊も兵力三万余りにすぎず、政治的意識と戦闘能力は高かったが、装備は極めて貧弱だった。


 表で示された編成は、新編成ということで、この編成を充たしていたのは開戦当初は10ケ師程度ということでしょう。地方軍については装備編成も不統一であり定員通りの人員を確保していたかどうかは不明といえます。











 もう一つ、日中両軍の戦力比較についての資料を引用してみます。以下の資料は、蒋介石の次男である蒋緯国(中華民国将軍)の著作からです。

『抗日戦争八年』 蒋緯国 早稲田出版
 ところで、当時の国軍歩兵師団の武器装備と編成を日本軍と比較すると、約一対三であった。(抗戦全期間を通じて、わが戦力が最低であった時は、一対八ないし十であった)


 開戦当初の編成(上記表)で、中国側一ケ師は人員で日本軍の約50%、戦闘力は33%ということですから、日本軍兵士1人当たりの戦闘力は、中国軍兵士1.5人分に相当することになります。これを根拠にして、中国側が劣勢だった時の一ケ師あたりの兵力を推計してみましょう。

解説
人員 戦闘力比率
兵士一人当たりの戦闘力
日本兵10人=中国兵15人
日本 22000人 100%
中国 11000人 33%
日本軍と同等の戦闘力を保持
する為には、中国軍は1.5倍
の人員が必要
日本 22000人 100%
中国 33000人 100%
中国軍の戦闘力が日本軍の1/8
(12%)の場合の中国兵人員
日本 22000人 100%
中国 3960人 12%
計算式 
日本側人員×戦闘力比率(%)×1.5=中国兵の人員



 計算上、戦闘力比率が1対8なら、中国軍の1ケ師は『約4000人』ということになります。












次は中国軍の編成について検証してみましょう。

『南京大虐殺の現場へ』P82 朝日新聞社 笠原十九司
 孫氏によれば、当時の中国軍隊の編成は1個師(編成上は日本軍の師団に相当)が二個旅(戦闘中の非常時編成として表の第八七師のように3個旅の場合もある)、、四個団と各一個営の砲兵、工兵、輜重兵よりなり計1万0923人、したがって13個師の合計は14万1999人。一個団は平均約2200人からなり、17個団の合計は3万7400人。


 以上のように、孫宅魏説の紹介をしています。この編成については上記最上段の表と一致するので正確と考えてよいでしょう。防衛軍全体の推計は別のページに譲るとして、孫宅魏説による一ケ師(日本軍でいう師団)の編成を表にしたのが下記になります。。

孫宅魏説による一ケ師の編成表
一ケ師
(師団)
10.923名
一ケ旅 4400名
(旅団)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
一ケ旅 4400名
(旅団)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
団(連隊) 約2200名 3ケ営(大隊)
砲兵営・工兵営・輜重営(団に相当)2200名 3ケ営



 一見して問題になるのが、司令部その他の人員(戦闘をしない支援部隊・中国軍で言う雑兵)が含まれないということですが、孫宅魏説においてはそれらも含んだ概数として、以上のような数値を採用しているようです。これは、最上段の表からもあきらかで、戦闘員の人員は(機関銃を一丁につき4人と計算しても)概ね5000人〜6000人程度にしかなりませんから、残りはいわゆる歩兵・戦闘員以外の人員ということになるでしょう。輸送部隊(輜重)の欄が空欄になっているのは、部隊によって編成が異なるという理由から、平均値が出せなかったものと思われます。













 中国軍の編成についてもう少し詳しく説明すると、南京戦当時の中国軍は「3単位編成」を採っていたようで、これは中国側資料『南京・上海・抗州 国防工事の構想、構築と役割』(南京戦史資料集UP475)にも、≪当時の歩兵営陣地は三歩兵連、一重機関銃連、一迫撃砲連で編制されていた。各連陣地は三排(小隊)陣地からなっている≫という記述からも間違いないでしょう。(ただし、2ケ団で一旅になる)。中国軍の最小単位は「班」で、日本軍でいうと分隊に相当します。この「班」の人員に関する資料は、『新・南京大虐殺のまぼろし』に準拠しました。

『新・南京大虐殺のまぼろし』 P187 鈴木明
 「班」は、中国では縁起のいい数といわれる「八」を基礎にしていて、正規の「班」は八の2倍である16人で編制されるはずだが、実際には16人を擁した「班」は少なく、あいまいではあるが解り易く、仮に一班を十名としよう


 

 ここでは基本編成の検証なので「一班16人で計算します」

一ケ団
総員
約2100名
一ケ団(戦闘兵)
1296名
1ケ営
(連×3)
432名
1ケ連
(排×3)
144名
1ケ排
(班×3)
48名
1班 16名

1班 16名
1班 16名
支援部隊
(司令部雑兵含む)
戦闘兵の約60%=777名
上記戦闘兵の他に、支援部隊(雑兵)が
戦闘兵の約60%ほど。



最小単位は「班」で「定員16名」
「班」×3=「排」48名
「排」×3=「連」144名 
「連」×3=「営」432名
「営」×3=「団」1296名

 計算上、「一ケ団の戦闘兵は約1300人」ということになります。これに支援部隊を加えると、計算上は「一ケ団2100人」となり、孫宅魏説の一ケ団2200人と、ほぼ合致するといえます。(概数ですから計算方法によって若干誤差がでます)。支援部隊(雑兵)の比率が、戦闘兵の60%であるという根拠は、最上段の表と、譚道平参謀の推計を参考にしました。ただし雑兵比率は編成・装備により50%〜60%と幅がある(例えば、砲兵が少なければ輸送・輜重隊人員が少なくなるし、師団レベルになると司令部の人員が増加する)と考えられるので、実際には1個師は一万程度と考えるのが妥当と思われます。
 
  







 

(1)中国側資料によると「1個師=約11000」
(2)「戦闘兵は5000以上、雑兵は編制により変化」
(3)「装備編制は日本軍の50%以下」











その他資料から、中国軍の編成について。



「図説、日中戦争」河出書房
P44 (中国軍の)1個師は1万足らず
P55 (中国軍の)1個師は5000〜1万程度。日本軍の1個師団より小規模で、員数もバラバラのケースが多かった。

「わかりやすい日中戦争」光人社
P87(要約)中国軍の1個師は日本軍1個師団の30%〜40%。
P87(要約)正確な兵員数は把握できないが、中国軍60個師なら40万人程度であろう。







『第十六師団参謀長・中沢三夫大佐の手記』
  (基本部隊は)計8〜9師、当時の1師は5千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく1万ありしものとすれは、8〜9万。以前(上海派遣軍)軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ20師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か10師分ある故2〜3千と見て2〜3万、総計10〜13万の守備兵力なるへし。

「第16師団関係綴」(防衛庁防衛研究所戦史部所蔵)の第16師団参謀長中沢三夫大佐の手記。
「南京大虐殺の研究」P249より


 南京戦当時の中国軍一ケ師は、大体5000人ぐらいで、首都防衛軍という事で定員を充たしていれば一万人くらいというのが日本側参謀の見解です。

 
 












外国側から見た「南京防衛軍」 


1937年12月22日 NYタイムス(ダーディン)
「少なくとも3万3000と数えられる兵力が殲滅された。これは南京防衛軍のおよそ2/3にあたるもので,このうち2万名が死刑に処せられた」
〜中略3500文字〜
「南京防衛戦には16個師団が参加したという。この数字は正確とみなされる。中国軍の師団は平時においてさえも平均してわずか5000名編制にしかすぎない。南京を防衛して痛撃を蒙った師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ、2〜3000名の編成であったこともありうる。約5万の軍が南京防衛に参加し袋のネズミになったといっても間違いは無い」

(日中戦争史資料集9 英文関係資料編 P284〜287)







1937年12月17日 マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー
 首尾よく上海から退却したと思われる中国軍30万のうち、7万5000強の兵が実際に南京付近に駐屯したとするのは疑わしい。最強の正規部隊は陥落前のある時期に退却が終了しており、長江を渡河する兵士や西方に逃亡する兵士の群れは、陥落直前まで絶え間なく見られた。また、最終攻撃には、たかだか2万の中国軍と戦ったこと、それも南京防衛軍の兵士ではなく、鎮江からの撤退組であったことを日本の公式声明が発表しなかったのは、頷けない。

(南京事件資料集アメリカ関係資料編P524) 







アメリカ大使館報告
○「12/10後の主な報告」
 南京の陥落を前にして、人口のおよそ4/5が市を脱出し、主要な部隊は武器、装備もろとも撤退していった。南京市の防衛はわずかに5万人の兵士に任されていた。

(南京事件資料集 アメリカ関係資料編 P239)





○外国人は「南京軍を5万程度」と見ていたようです。

 





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