外国報道に見る人口

外国報道に見る人口問題

 すでに「国際安全委員会」の公式記録が南京陥落時の市民の人口を「約20万」と考えていたことは説明しましたが、南京市民を「30万」と記載した記録もあります。 ここではアメリカの報道を中心に外国報道を検証してみたいともいます。(記事の背景色で陥落前と占領後を分けました)






NYタイムズ12/11日(上海発)ハレット・アベンド記事
南京の安全区委員会は金曜日に日中双方に向け、委員会が30万の市民に 避難所を設け、 かつ安全区内からの中国軍側軍事物資の完全撤去を行う為に3日間の停戦を求める、 哀れなほど空しい提案を行った。知られる限り、中国側からも日本側からも 、またラジオで提案を送った蒋介石総統からも返答はない。〜略〜
(アメリカ資料編P403)【注 この色の記事は陥落前】

「安全区委員会が金曜日(12/9)の段階で、市民数を30万と推計した」という資料です。12月9日というのは結構微妙な日付で、城門が閉鎖され中国市民の流出入ができなくなった日だと思われます。(アメリカ大使館報告参照)

 この時期安全区には避難民が緩やかに流入していましたが(ラーベの上申書)、市民の一部はまだ居住地区(自宅)にいたものと思われ、正確な人口は国際委員会でも把握できなかったはずです。すると市民数30万は11月27日の南京市長談話「30万〜40万」(アメリカ大使館報告参照)を情報源にしたものと考えられます。ただし、安全区委員会委員長のラーベは、日記においては一貫して市民数を20万と記録しています。ラーベの認識(20万)と国際委員会の発表(30万)が食い違っている部分は謎として残るのですが、ラーベの認識は「残留予想20万」ということで、国際委員会の30万は12月9日時点の推計値の最大値を公式に発表したものと思われます。






1937/12/15 NYタイムズ (署名なしの記事)
南京の沈黙に上海は戦慄
○30万市民から恐るべき死傷者か
〜省略17行〜
日本軍は大勝利にもかかわらず不可思議にも詳しい情報を封鎖しており、 南京の30万の市民は包囲攻撃で恐るべき惨禍を被ったのではないか、という上海での疑いを強めている。
〜以下4行省略〜
○米人18名の消息不明
〜以下省略23行で記事終了〜
(アメリカ資料編 P412〜413)【この色の記事は陥落後】


 陥落後の報道ですが、一読してわかるのは「詳細な情報がない」ことです。つまりこの30万は、12月11日のハレット・アベンド記事(上記)を参考にしたもので、確証がある数字ではないようです。






1937/12/17 NYタイムズ(上海発)ハレット・アベンド記事
○屍体の散乱する南京
12月16日南京発(米艦オアフ号より無電、AP)。かつてその繁栄を謳われた中国の古都は 、いまや町が被った砲爆撃と激戦により殺された防衛軍兵士および一般人の 屍体が 散乱するありさまだ。町中に軍服が散らばる。潰走する中国兵が平服に着替え 、日本軍の手による死を免れようとしたものだ。
〜中略〜
日本側は、在南京のアメリカ人、ドイツ人の主唱によって成立した安全区に砲爆撃を しないように努めてきた。
10万人以上の中国人が地区内に避難した。
(アメリカ資料編P416)


◎「地区内=安全区内」ということです。
12/11日のNYタイムズで、国際委員会情報を元に「30万市民」と報道したハレット・アベンドですが、この記事によると「安全区に10万人」と報道をしています。安全区外についてはどういう見解なのか、この記事では不明です。また、一般人の死体があったことにも触れていますが、その死亡原因は日本軍による虐殺行為ではなく「砲爆撃と激戦」と考えていたようです。いずれにしても、万単位の市民が殺害された報道ではないといえるでしょう。






1937/12/8 シカゴ・デイリー・ニューズ(A・T・ステール)
南京12月8日発
〜中略〜
連日の砲撃の激しさとその広がりに恐れを抱いて、いわゆる安全区に流入する 市民はどんどん増えている。これはアメリカ人が中心となって設立したもので、 うち14名がこの危機の間も踏み留まる予定である。 この地区の道路、とりわけアメリカ大使館付近には中国人難民が雲集している。 市内には、少なくとも20万の市民が留まるであろうと見られている。
(アメリカ資料編P459)
1937/12/10 シカゴ・デイリー・ニューズ(A・T・ステール)
南京12月10日発。
南京試練の時は来たれり、城壁内に閉じ込められた私たちの唯一の望みは できるだけ早く、かつ苦痛なく片付けて欲しいということである。
〜中略〜
○「安全区」への殺到
○調停案提出される
○食物供給のため炊事場運営中

すでに10万人近くが、ここは残留住民の多くに地獄の苦しみを与える 砲撃や耳をつんざく弾丸の音から逃れられる天国だと全く信頼して、 安全区に入った。戦災を逃れた多くの者は中国人の家に避難所を見いだした が、また教会施設に収容された者もおり、また防空壕に居心地のよい 家を造りあげて、不法占拠の権利を主張している者もいる。 何百という筵の住宅がアメリカ大使館近くの道路に並んでいる。
中国当局からの金銭と食料の提供によって、安全区に入ってくる大勢の 欠乏者に無料食堂が開かれている。
(アメリカ資料編P461)
1937/12/18 シカゴ・デイリー・ニューズ(A・T・ステール)
上海、12月18日発。
南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、もし攻撃の間ずっと残留した 少数のアメリカ人とドイツ人の勇気ある活動が無かったなら、状況は限りなく 恐ろしいものになっていたであろう。 これらの外国人は、この攻撃下の町の10万の市民の福祉のために のみ働き、ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。
(アメリカ資料編P471)


 シカゴ・デイリー・ニューズの記事によれば「南京残留市民は当初約20万と予想」されていたようです。この予測は12月8日現在のものでしょう。安全区には12月8日頃から避難民がつめかけ、12月10日には10万人近くを収容したと記しています。南京陥落は12月13日ですから、陥落までの間継続して安全区に避難民が流入したことが推測されます。

 これもシカゴ・デイリー・ニューズの記事ですが「この攻撃下の町の10万の市民の福祉のために」とあるように、12月18日(陥落後)の記事で、南京残留民を「約10万」と報道しています。この数字の根拠は不明ですが、NYタイムズのハレット・アベンドと同程度の予測であるところが興味深いといえます。
 この数字は、安全区内の人口を指していると考えるのが自然ですが、南京陥落前から南京にいた「新聞記者」の感覚では、「南京陥落時の人口はかなり少なくなっていた」、という意味に理解するのが妥当でしょう。シカゴ・デイリー・ニューズ、スティールの報道によれば「安全区10万=南京市の人口」というように感じられます。実際の安全区には20万〜25万人を収容していますから、狭い安全区に、予想以上の収容能力があったということでしょう。






1937/12/19 NYタイムズ(ダーディン)
南京における外国人の役割賞賛される。
○外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる。
○生命しばし危機にさらされる。
○市政府官吏避難のため、安全区委員会が任務を遂行。
〜20行省略(内容は上の見出しの説明)〜
○ドイツ人グループの長を務める。
〜18行省略(安全区メンバー紹介など)〜 それにもかかわらず、この地域は暫くの間、かなりの規模にわたって非武装地帯となり、 そのため日本軍もあえてこの地域を砲撃する必要を認めなかった。 その結果、10万を越す非戦闘員たちは通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にも かかわらず、日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。
○それ弾損害を与える
日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、100人以上の死傷者を出した。 それ弾による死者はほかにも100人はいるものと思われる。 一方、安全区という聖域を見出せずに自宅に待機していた民間人は5万以上 を数えるものと思われるが、その死者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害 された。 安全区の非戦闘員の食料は、中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。
(アメリカ資料編P423)


 この記事は非常に間違った引用をされることが多いので、慎重に行きましょう。「時間系列」に要注意。

○ドイツ人グループの長を務める。
 この記事は、南京陥落前の安全区に対する説明のようです。南京陥落の時点で『安全区に10万以上』というのがダーディンの見解と考えてよいでしょう。

○それ弾損害を与える
この記事も『南京が占領される前』の記事です。
「日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ちた」のは「12月11日」これは各種史料で確認できますが、当HPにおいては「アメリカ大使館報告」に該当報告があります。(ラーベ日記にも記載あり)。すると、「自宅に待機していた民間人は5万以上」というのは12月11日現在の予測と考えてよいでしょう。13日の陥落までには、多数が安全区に避難したと考えられますから、この報道を根拠にして、安全区以外に数万人が存在したと主張するのはちょっと苦しいといえます。さらに市の南部では数百人が殺害された。この部分も「12月11日前後」のことになり、いわゆる南京大虐殺とは無関係ということになるでしょう。この時期、日本軍はまだ、城壁の外側にいるのですから。





 

 以上のように、当時の外国報道によれば、南京陥落時の人口は「10万〜15万」程度という事になりそうです。新聞記者たちは人口調査をしたわけではありませんが、陥落前よりも人口が減少したと考えていたことは確かなようです。これは、大規模な難民の流入はなく、下関から避難する住民が多かったということでしょう。

 つまり、当時の新聞記事を元にした「人口30万説」は成り立たないといえます。その理由を再度説明すると、「人口30万」と言うのは国際委員会の推計であり、国際委員会は後に「南京残留市民を20万」と記しているからです(30万という見解は修正されている)。また、当時南京で取材に当たった複数の新聞記者の陥落後の見解は「10万―15万程度」であり、やはり「30万」という数字は出てきません。また、中国が主張するように「むやみに数万単位の市民を虐殺」したという報道はないと言ってよいでしょう。。








その他の報道

南京占領時の中国人のパニック
1938年2月3日 シカゴ・デイリー・ニューズ(A・T・ステール)


 大使館中庭の騒ぎが、何か事が起こったのを告げた。中国市民―男も女も子供も―が門を抜けて大使館敷地内になだれ込んでくるところであった。いずれも寝具や 包みの重たい荷物を背負って、あたかも驚いた地ネズミの大群のように館の防空壕に急ぎ入るところであった。 

○噂が本当に
「あの連中はなんだ。いったい彼らはどうしたんだ」と、中国人の用務員に聞いた。恐怖で目を丸くした用務員は震えていた。「あれは大使館使用人の親類縁者、300人ほどです」彼は言った。「日本軍が迫ってきた、ここが知っているなかで一番安全な所なので避難しにきた、とのことです」私たちは笑って、用務員に「親戚に、穴から出て家に帰るように言いなさい。また中国人の噂に騙されたのだね」と言った。
 だが怖がる市民は、それはデマだという言葉を決して信用しなかった。少しでも動こうとしなかった。それが正解であったのだ。というのも、中国では不可思議な巷の噂が、新聞よりもずっと早く虚実取り混ぜて情報を伝えるのであるが、今回は実際、事実にもとづいたものであったからだ。30分後、中国軍まる一個師団が大使館の横を駆けて逃げていくのを見たとき、私たちはそのことを悟った。
(アメリカ資料編P473)



 この記事は12/13日の日本軍入場時の「安全区」の様子です。陥落当日になってから避難した市民も少なくなかったようです。

 「安全区」といういわゆる聖域に人々は集まりました。また、集まる理由があったということです。「虐殺派」の筆頭である笠原十九司教授は「住民が軍隊と一緒にパニックを起こしながら避難したという」という虚構を描いていますが、少なくとも外国人記者はそういう光景を目撃していないといえます。外国人記者が記録したのは「パニックに陥った中国軍」の様子なのです。





1938年2月3日 シカゴ・デイリー・ニューズ(A・T・スティール)


○将校が退却を阻止する。

 数人の青年将校が、退却する大群の前に立ちはだかって食い止めようとしていた。 激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちは、いやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻り始めた。だが盛り返したのはつかの間であった。30分以内に中国軍の 士気は瓦解し、全軍は潰走することになった。 もはや彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(邑江門)に向かって、群れをなして街路を通りぬけていった。 この市の西北隅の門が彼らに開かれた唯一の退却路で、門の半マイル向こうに長江が流れ、そこに一群の艦船が先についた者を待っているのだった。 
 午後4時半頃、崩壊がやってきた。初めは秩序だった退却であったものが、日暮れ時には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追劇をしてくると考え、余分な装備を投げ捨て出した。まもなく街路に投げ捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

 兵士らが退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき 、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されており、火が砲弾・爆薬倉庫に達したとき、恐ろしい爆音が夜空を貫いた。

 銃弾と砲弾の破片が高く、あらゆる方向に甲高い音を出して散り、川岸にいたる道路をうろうろする群集のパニックと混乱を一層高めた。燃え盛る庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群衆の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。 
 兵士たちは行路を切り開こうと望み無き努力をしたが、無駄であった。 路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。いまや各人がばらばらとなった。燃える障壁を迂回して何とか下関門に達することのできたものは、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。

  それからは、この巨大な城壁を乗り越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは胸壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが、彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのだった。あらゆる船は、運良く最初にそこに到達した人々を乗せてもう行ってしまっていた。
(アメリカ資料編P474〜475)



 この記事は「中国軍の撤退」を描いた記事で、全ての文の主語は「中国軍」ということになります。「トラック、大砲、オートバイと馬を引く荷車がぶつかりあってもつれ」という表現もよく見ると「市民の脱出ではない」ことがわかります。紛らわしいのは「群集という訳語」で、これは「中国軍」と訳すのが適当でしょう。注目するべきは、軍隊に同行して避難を試みる市民の描写がないということです。ちょっと考えれば解りますが、市民は中国軍と同行しても、安全を確保することにはならないということです。それどころか、日本軍に攻撃される可能性が高くなりますから、下関門(邑江門)に向かって数万単位の市民が大量に避難したということはありえないと考えてよいでしょう。 
 
 また、スティールは邑江門から垂れ下がる衣服のロープも撮影しており、また、下関の門(邑江門)は閉まっていたと記しています。日本側の記録でも邑江門は土嚢で閉鎖されていたとしていますから、下関で数万単位の市民が日本軍に虐殺されたということは、ちょっとありえないと判断して構わないと思われます。



 





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