#11 ラスベガストリップレポートpart4 - 鷹の眼をもつ女 -
レースのカーテンをするすると動かせば、ストリップの夜景が遠くできらきらと揺れている。この窓からこうしてラスベガスの夜景を見るのは今日が初めてかもしれない、そう思った。そんな夢心地をすぐに冷ましたのが、大きなガラスに透けて見える、目の前の風景におよそ似つかわしくないひとりの男の寝起き姿。
只今、深夜1時。改めて近くの姿見の前に立ってみると、汗をかいたままでベッドに沈んだためか、赤らんだ顔に、なんとなく腫れぼったい目もとをした自分が映っている。しかも、シーツの皺の跡までくっきりとついていた。夜の商売でも、こんな時間に、しかもこんなひどい顔で出勤してちゃ即日クビであろう。救いようのない堕落ぶりとはこのことである。だが、今日も明日も、わたしの予定は「好きな時に好きなだけポーカーをすること」以外にない。
まずは、その情けない顔をしゃっきりさせようと、シャワールームへ向かった。
身支度を済ませ、ベッド脇にチップを置く頃には、そこそこ人に見られても恥ずかしくない顔に仕上がってきた。シーツの皺も、これくらいなら大丈夫。100ドル札3枚をポケットにねじ込むと、部屋の電気をカチリと落とした。
テキサスホールデムのテーブルに向かう時から、不吉な予感はしていた。ひとつだけ空いている席の隣に見覚えのある女が座っているのに気付いた時点で、フロアパースンにテーブルの変更を求めるべきだった。だが、時すでに遅し。彼女はわたしの姿をとらえると、ニヤリと笑った。やはり、魔女。
ざっと見渡したところ、魔女のほかにも知った顔がぽつぽつといることに気付く。いつものように300バイインしたわたしのチップを睨み付けながら葉巻を燻らせていたのは、初日にわたしのJフルをフォーカードで敗ったアジア系のおこりんぼ君。その彼をちらと見たが、くいとそらされてしまう。こいつとはぶつかるしかあるまい。
視線を右に移せば、初日のテキサス、2日目のオマハハイローと同じ席に座ってゲームをしていた地味なアジア系の青年。彼のプレースタイルは至極まともであったし、紳士的な態度だったため、少なからず好感を抱いていた。そうした親しみの感情を察してくれたか、わたしの目礼に快く応じてくれた。この瞬間に、彼とは無益な争いをすべきではないと判断する。
さて、先ほどの魔女なる人物について、このあたりで若干触れておく必要があろう。
わたしが彼女を魔女と名付けた理由は、なんといってもその風貌にある。昔はさぞかしきれいなブロンドであったろう髪は、今やところどころ黄ばみかけており、敢えて櫛を入れないように心がけている彼女特有の習慣も手伝って、見事なほど近寄りがたい雰囲気をつくり出すことに成功している。深い皺の刻まれた顔面の中で射抜くように光る鋭い眼、てこでも動かないという頑固さと狡猾な性質はこれを見れば分かるというほど立派なかぎ鼻を備えた彼女の容貌は、まさしく魔女そのものである。朽ちかけたナツメのような肌の色が、その印象を一層強めてくれる。
気になるプレースタイルは、こうした第一印象を裏切らないスーパーアグレッシブ。しかも、極めて打たれ強いときている。入った時には、このテーブルの中で最も警戒すべきプレイヤーとみていた。
昨日のベラージオでのプレーを反省し、今回は大きく勝つことよりも、とにかくミスを最小限に抑えることを主眼に据えてプレーすることにした。そして、「相手に情報を与えないこと」。その甲斐あってか、始まって1時間はチップを殆ど減らさずに済んだ。だが、大してタフゲームでもないテーブルで、あまり絞りこみすぎるのも考えものである。タイトすぎるイメージは、必要以上に相手に警戒感を与えてしまう。それは、魅力的なポットを獲得しづらくなることを意味する。
案の定、ようやくアーリーからポケットJJが入り、レイズをするや否や、bbにはコールされてしまうも、フロップで打てばあっけなく降りられてしまった。その後も、ポケットTTでカットオフからのスティールを決めるなど、覚えているのはスティールばかりで、旨みのあるポットに一度もありつけないまま、気付いた時にはすでに日付が変わっていた。
フォールドばかりで出番がないと、知らず知らずチップで手遊びをしてしまうことが多くなる。数をカウントし直したり、束をきれいに揃えてみたりする。挙句、カタチが気に入らないといって、束のフォーメーションを、トライアングルからヘキサグラムへと組み直したりする。とはいえ、こういった手遊びはあまり見た目のよいものではないという自覚のあるわたしは、他のプレイヤーと比べれば、まだましな方であると言いたい。
たとえば、いつもゲームに参加していないと気が済まないようなタイプの人は、たまにフォールドすると、手持ち無沙汰になるのか、ひっきりなしにチップをいじくりだす。また、いらいらしている人も、総じてチップに手がかかる傾向にある。苛立ちの度合いが、このような動作で大まかに判断出来ることに気付いたのは収穫であった。こういったことは、オンラインでは分からない。
同時に、垢のついたチップを触っているうち、いつしか爪の先が真っ黒になってしまうのも、ライブならではの経験である。だが、これはあまり気持ちのいい経験ではない。ついつい、使うウェットティッシュの量も増えていってしまう。
ポーカールームにおいて、このウェットティッシュの守備範囲は意外なほど広い。単に汚れた指先を拭く時だけではなく、飲み物をこぼした時にも咄嗟の対処が出来るし、口元に当てることである程度の副流煙から身を守ることも出来る。しかも、口の開いた飲み物に栓をする時にだって使える。また、同じように困っているプレイヤーがいたら、すっと手を差し伸べることも出来よう。たった紙切れ一枚で、彼、または彼女からきついレイズが控えられるというメリットを考えると、新顔のわたしにとってはマストアイテムというべきものである。
しかし、この時のわたしが犯していた致命的なミスにより、その揺るぎないはずの計画はがらがらと音を立てて崩れ去ってしまった。今の今までてっきりウェットティッシュと思っていたものが、実は便座除菌クリーナだったからである。これには往生した。もっと分かりやすい包装を心がけるよう、製造者サイドには猛省を促したい。それにしても、ドリンクホルダーの中に、使用済みのウェットティッシュ「らしきもの」が山と積まれているにも関わらず、目のあたりを拭くまで気付かなかったのは、我ながら不覚。この時の感触を敢えて形容するならば、やけに刺激的な清涼感、とでもいおうか。
魔女も去り、その隣にいた白人のじいさんがわたしの隣ににじり寄ってきた。だいぶ酒も入って、ごきげんなふうである。わたしは、次第にルーズになってゆくテーブルの中で、ひたすら仕掛けるタイミングを待っていた。カクテルガールに持ってきてもらうミネラルウオーターも、これで何杯目になろう。本当はコーヒーを飲みたいのだが、ここのコーヒーは薄っぺらくて、ひどくまずい。幸運を呼び込もうとカクテルハニーにやった5ドルチップを、今になって白チップ1枚にすればよかったと悔やみはじめていた。
追加を持っていたさっきのハニーが、にっこりと笑った。飲み干した残りの水は、やけにぬるかった。
時計はいよいよ明け方の5時を回り、ゲームはますますルーズでアグレッシブになってきていた。プレイヤーたちの眠気と苛立ちの度合いが、霧のようにたちこめるタバコの煙から見てとれる。周りのプレイヤーたちのチップも、わたしが入った時と比べて大きく変動していた。その中で、わたしのチップだけは殆ど動いていない。それもそのはず。あのJJの一戦以来、ボードの開いた勝負を一度も取っていないのだから。
こうなってくると、ますますATやKJといった手札はもちろん、ローやミドルのポケット、それにコネクタスーツといった中途半端な手札もいきづらくなってきてしまう。終いには、隣のルーズなじいさん(彼のようなタイプは、自分がタイトだと思いこんでいる)から、こんな言葉までかけられてしまった。
「おまえさんがコールしてくるまでわしゃいかんぞ。ヒッヒッヒッ」
こんな他愛のない挑発に対して、すぐに「上等じゃねぇか」と心の中で鼻息荒げてしまうあたりが、わたしのまだまだ未熟なところ。なにがなんでもガツンと一発食らわしてやろうと、今まで以上に強く初手を絞り込むことを決意する。しかし、40分後、わたしはその間一度もコールすることなしに、これ以上このテーブルで勝負を続けることを断念した。
結局、30ドルほど減らしてしまい、どうにも上手くいかなかったが、良い知らせがまったくないということもない。このじいさんが、一時は大勝ちしていたチップをすべて失い、バイインしたのだ。
わたしが去る数10分ほど前に大きなポットを失った彼は、それ以降人が変わったようにスーパールーズアグレッシブになり、その度に負けた。そら恐ろしかったのは、負ける度に例の笑い声でヒッヒッヒと、むき出しの歯をこちらに向けてきたことである。負けて怒り出す人は珍しくないが、笑い出す人はそう多くない。だから妙に凄味がある。隣に座っているわたしとしては、彼をなんとかつなぎとめている理性の糸が、いつぷつんと切れて、わたしの首を絞めてくるのではないかと、愉快な反面、身を細らせる思いでいたのだった。
「ひどいテーブルだった。みんなすごくアグレッシブで…」
「ほんと。クラップスみたいだったわね」
恰幅のいい例の彼女と笑った瞬間、これまで張りつめていた緊張がみるみるほぐれていくのを感じた。
隣のオマハハイローのテーブルに入らせてもらったわたしの判断は正解だったようである。ゲームの調子は、先ほどのテキサスとは打って変わって上々だった。このゲームに慣れていないようにみえる中年のプレイヤーがひとり、ふたり混じっており、あとはどのプレイヤーも分かりやすいプレイヤーで、まずテーブルのアクションが良かった。それに、フルテーブルだというのに、訳の分からんマニアックがひとりもいなかった。わたしは、ただナッツローの狙える手札でだけ地味にコールしていればよかった。ハイペアを含んだローの狙えない手札は、ナッツフラッシュが見込めない限り、たとえAAであれKKであれ、すべて捨てた。また、アクティブプレイヤーが少ない時は、ナッツロードローも潔くマックした。そして、明け方の7時前には、僅かではあるが手持ちのチップを増やすところまで漕ぎつけたのである。
どこからか甘くて香ばしい匂いが漂ってきたのも、丁度その頃である。見渡すと、テーブルはわたしのいたテキサスと、今のオマハハイローの2卓のみ。その他のテーブルは、いつの間にか閉じてしまっていた。そんな中、空いているテーブルのひとつに妙な人だかりが出きている。彼らが手にしているものを見て、先ほどからの匂いの正体がドーナツだと分かった。
ここオーリンズのポーカールームでは、毎朝7時にシアトルズベストが店を開けるのと同時に、フロアパースンの手でドーナツが差し入れられることになっている。そして、美味しいコーヒーを味わいながらそのドーナツをつまむのが、夜更かしプレイヤーたちのささやかな幸せになっているようである。Cがわたしの分もコーヒーを持ってきてくれたので、周りのプレイヤーたちと一緒に、日本では決して味わえないブレックファーストの時間を過ごすことになった。
これまで、パソコンの前で朝飯を済ませた日は幾たびもあったが、まさか実際のポーカーテーブルの前でこうして朝飯をとることになろうとは、ほんの数週間前までは夢にも思っていなかった。また、そのポーカーテーブルを目の前にして食べるドーナツがこれほど旨いものだったか、ということも。
振り返ってみれば、わたしが明け方にオマハハイローのテーブルへと移り、フロアパースンの手でドーナツが運ばれてくるまでの短い時間が、この日のうちで最も楽しかったと思う。お喋りしながら朝食の時間を過ごせたこと、自分の負け分を取り戻せたことはもちろんだが、それにもまして、信じられないほど愉快な老練プレイヤーと出会えたことが大きい。
わたしのすぐ右隣に座っていた彼は、御年なんと86歳にして、今も現役のゲーマーを続けている。そして、そのプレースタイルがまた愉快というほかなかった。飄々としている風貌に似合わず、思いっきり口先ブラフをかましてくるのだから。少なくとも、プレーに関することは、言うことなすこと見事に嘘だらけ。
たとえば、すでにターンでがちがちのナッツローをもっているくせに、フラッシュドローに見せかけて「ハート来い!」とか叫んでみたり、ショウダウンなくして勝ったときは、ナッツの手札ではなく、別の2枚の手札を開いて、あたかもストフラドローのブラフで勝ったように見せかけるといった具合。しかも、その間自分のカードをこちらにわざと見せたりして、もうとにかくお茶目なのである。隣のCとふたりで、彼が大ボラを吹いて勝つ度に大笑いしていた。彼よりもでかくて迫力あるプレイヤーばかりが、揃いも揃って、たったひとりの痩せこけたじいさん相手に頭を抱えて悩むさまときたら、情けないことこの上ない。
「これ(今持っているチップ)負けたらスロットに移るかな」
そうやって弱気な発言を繰り返すほど、手持ちのチップは増えていく。
彼の豪傑ぶりはこれだけにとどまらない。プレー中、しばしばポケットを探っては、メモ用紙らしきものになにやら書き込んでいる姿を見かけたのだが、それは何かと彼に尋ねてみると、こんな答えが返ってきたから驚いた。
「言葉を忘れんように、ちょくちょく書き留めとるんだよ。つまりは頭のトレーニングじゃな」
紙切れを見せてもらうと、記号のような、暗号のような、わたしがこれまで見たことのない長い単語がいくつか並んでいた。やがて、左隣の席から身を乗り出すようにしてその紙切れを熱心に見つめていたCが、ぽつりと一言。
「こんな単語見たことないわ」
無理に発音してみながら、彼の書き留めた単語は見たことない、存在しないと主張する彼女。ついには長身の若手フロアパースンまで呼んで、単語の有無を確認する始末。度重なる訓練のうちに、いつの間にか彼の中で単語の綴りが変化していったのかもしれない。
しかし、注目すべきはその単語が合っているか間違っているか、ということではない。この年にして、今もなお頭に刺激を与えてやろうという貪欲な、もとい前向きな姿勢をもっていることである。もっとも、彼の実践している訓練がどこまで有効かどうかは、専門家の意見が必要かもしれないが。
合間を見つけては、何度もくしゃくしゃの紙片を取り出して、使い古しのボールペン(これも、毎日ポケットの中に忍ばせて出かけるのであろう)で熱心に「単語」を書き付ける彼。こんな彼に正しい綴りを強いるのは、おそらく間違っている。
やがて、同い年という奥さんが「日課」のスロットから帰ってくるのを見るや、彼はその背中を追いかけるようにして席を立った。そこには、派手に散らかしたドーナツの欠片だけが残った。
彼とは対照的に矍鑠としている彼女の後ろを、カルガモの子どものようにひょこひょことついてゆく彼。あいつは同じ日に、同じカジノのスロットマシンで、ジャックポットを3回も当てたことがあると、彼女の体験を誇らしげに語った彼の表情を思い出す。
愛すべきそのカップルを、わたしはいつまでも見送っていた。
ランチタイムになろうかという頃、わたしたちは依然としてオマハハイローのテーブルに張りついていた。チップは浮いていたが、水分の摂り過ぎで胃が重い。そろそろどこかで飯にするかと思っていた時、隣のCが声をかけてきた。Mike Ventoと会ったか、と。
マイク・ヴェントーというのは、ここオーリンズのポーカールームマネージャの名である。まだだと答えると、わたしがオーリンズに泊まっていることを知っていた彼女は、彼は今あそこにいるからと、すぐに立ち上がってマイクと引き合わせてくれた。わたしが日本人だということを彼女から聞かされたのか、それともわたしの外見からそう判断したのか分からないが、いきなり腰を下げて合掌する彼。滑稽だとは思ったが、これは彼なりの、精一杯の出迎えなのであろう。つられて、思わず金剛合掌で応じてしまうわたし。とにかく、ポーカールームレートでの宿泊を手配してもらった。
それから数10分後、Cとわたしは"Courtyard Cafe"のテーブルについてランチをとっていた。彼女はこのカジノの常連であるため、どこのレストランもタダで飲み食いが出来るという。この時、本当はイタリアンレストラン"Sazio"へ誘ってくれたのだが、生憎店が開いておらず、この店になったというわけである。豊富なメニューに目移りしているわたしを見て、全部タダなのだから、何でも注文していいのだ、と快活に笑う彼女。
透き通るほど白い肌に包まれた豊満な体躯と、すべてを見透かすタカのような、それでいて妙にみだらで蠱惑的な瞳。諸々の迫力に圧倒されて、オーダーをする前から腹がいっぱいになってしまった。
15年前からポーカープロという「仕事」を続けている彼女とは、チャイニーズ中心の皿が並んだテーブルで、いろいろな話をした。彼女の身の上、プロとしての生活、それから彼女が世話になったプレイヤーたちの話などなど。わたしからは、何人かプレイヤーの名前を挙げて、彼らの評判を尋ねてみたが、ウェブではとてもいえない答えばかりが返ってきて面白かった。でも、次から次へと話したいことが溢れてくるのに、それがすぐに英語にならないのは、やはり歯痒い。
「ひとつお願いがあるんだけど、僕に会話をレッスンしてくれる?」
「いいわよ。あなたの英語の先生になってあげる」
「ありがとう。じゃあこれ、授業料…」
ポケットの中から1ドルチップを手渡すと、彼女は大きく口を開けて笑い転げた。わたしも笑った。
夜、メンツはすっかり様変わりしていたが、Cとわたしだけは同じ席にずっと座っていた。Cと知り合いの女性たちもゲームに加わって、ともにナチョスチーズを突っつきながら交流した。こうした和気藹々とした雰囲気の中で、タイトな彼女たちとは互いに傷つけあわないという暗黙の了解を取り付けたわたしは、長時間のプレーにも関わらず、順調な伸びを続けていた。かつて、金がかかっていないから安易にソフトプレーへ走ると述べたことがあるが、それはこう訂正しなければならない。金がかかっているからこそ、人はソフトプレーへ走るのだ、と。
テーブルの向こう側の険悪なムードに気付き始めたのは、10時過ぎである。わたしは、これまでに100ドル以上勝っていた。ポットを獲得するたび、周りとはしゃいで手を鳴らしたり、喜びを全身で表現していた。そしてそれが、一部の男性プレイヤーたちの反感を買ってしまったようである。
彼らは、わたしを挑発してくるようになった。はじめは、プリフロップでわたしの番が回ってくると、なかなかコールしてこないわたしに「コール!コール!」と太い声で複数のプレイヤーが囃したてる程度だったが、そのうち、ひとりのごつい中年男があからさまに攻撃してくるようになってきた。
「おい、聞いてるのか300ドル野郎。コールしてこいよ。ほら」
300ドル野郎というのはわたしのことである。周りから耳にしたのか、はたまた自分で観察していたのかは分からないが、彼はわたしが300ドルをバイインしてゲームに臨むことを知っているようであった。
当然、わたしは徹底して取り合わないようにしていたが、それはかえって逆効果だったようである。
「もっと俺と話そうぜ。こっちにこいよ」
彼の態度は、ますますエスカレートしていった。
さすがに、ディーラーも見かねてフロアパースンに事態の深刻さを告げるかと思いきや、待てども待てども動き出す気配はない。その時、わたしは悟った。ディーラーは、単にディーリングをするためだけに雇われた労働者でしかないと。わたしは半ば呆れ、半ば自分の甘えを呪った。
彼の助けが得られないということが分かった以上、自分が立ってカウンターまで行けば良かったが、それまでに乱闘にならないとも限らない。このようなローレートで身の危険など感じる必要はないと言う人がいるかもしれないが、すべては怒りの度合いによる。ローレートであろうがハイレートであろうが、関係あるまい。
Ad23Qhのダブルスーツ。ファーストアクション、ついにわたしは動いた。もう、わたしに対してあからさまに囃したててくる者は誰もいない。ただ、突き刺すような視線が一部のプレイヤーから送られてくるだけだった。自分ひとりが取り残されたような険悪なムードの中、予想通りというべきか、例の親父がコールしてきた。ポットは、彼も含めて5人程度。
3s-4d-6s
わたしがチェックすれば、やはりあの親父がテーブルにぶつけるようにしてベットしてきた。わたしはこの時点でナッツローである。アクションはフラットコール。
Qd
これで、わたしにはツーペアが出来た。たしかに、強いハイとはいえないが、わたしにはナッツローもあり、さらにはダイヤのナッツフラッシュの可能性も出てきた。チェックすれば、やはり彼はベットしてくる。
彼は上手いプレイヤーだが、今はわたしに対して感情的になっている。もしかしたら無理な押しを続けているのかもしれない。この手でもスクープは十分にあり得ると思った。わたしはここでレイズした。
彼と、bbにいたチャイニーズのおっちゃんのみがコールし、ポットは3名。あれほど賑やかだったテーブルは、今やしわぶきひとつ立たない。
Kd
親父は、わたしのベットにノータイムでコールした。彼も同じくナッツロー。2枚のスペードも見えた。
「ナイスボーイ」
彼が言ったすべては、これだけだった。
彼が去ったあとも、火種はくすぶり続ける。
わたしの右隣には、日本に勤めていた時、全自動の麻雀卓を見て感激したというおっとり型のチャイニーズが座っていたが、そのおっちゃんの隣に、地味な格好をした、ひどく無口で暗いおっさんがいた。濃い髭面のその彼は、これまで随分と負けがこんでいただけではなく、妙な行動をとっていて、なんとなく気には懸かっていた。しかし、このおっちゃんを注意深く観察しているうちに、事態の深刻さが次第に掴めてきた。
彼は、他のプレイヤーには決してプリフロップレイズをしないくせに、わたしがブラインドの時にだけ、必ずレイズを仕掛けてくることが分かった。しかも、わたしがフォールドした後にフロップが出るや否や、自分のすべき仕事は終わったといわんばかりに、すぐさまチェックダウンするのである。もちろん、わたしが参加しているポットでは、どんなに無理なドローでも必ずついてくる。これぞ捨て身の戦法、信じられない行動であった。
さすがに周りも訝しく思ったのか、彼になにやら話しかけていたが、その彼はわたしに聞こえるように、はっきりとこう言い放った。
「あいつは俺にチェックレイズしてきやがった。勝とうが負けようが関係ない。俺は、ただあいつがブラインドにいる時にレイズするだけだ」
背筋が凍る思いだった。
結局、ゲームを終え、カウンターでコンプを管理するためのプレイヤーズカードを手渡した時には、夜中の3時を回っていた。結果は、プラス112ドルとまずまずだったが、なんとも後味の悪い気分だけが、いつまでもねっとりと残った。