歴 史

戦国時代

松島城主奉納 本尊 弥勒菩薩坐像

 明音寺が開創された享禄3(1530)年は室町時代末期、戦国の時代である。当地方では武田軍との攻防が相次いでいた。当山は後の2世となった一峯慶文大和尚が錫を留めた地に松島城主小笠原政行(松島政行)が外護檀越となり大伽藍を建立し、名僧、真珠院3世大仲霊乗大和尚を勧請し曹洞宗として開山された。本寺真珠院は静岡市清水にある名刹で、信濃にある末寺としては当山の他に奈良井長泉寺、諏訪永明寺(茅野頼岳寺の前身)がある。開基家は小笠原信濃守持長の末葉にて小県郡を領有し、2世の政行は当地に入ると在名より松島氏を名乗り初代松島城主となった。二代城主貞実は天文22(1553)年、宗家小笠原長時に従軍した桔梗ヶ原の戦いにて武田軍に敗れ、木曽義昌に松島城を落とされ流浪した。弘治2(1556)年、貞実が亡くなると、明音寺は城主の外護を失うこととなる。

江戸時代

   箕輪領主 太田氏甲冑

 江戸時代となり、慶長6(1601)年、伊那郡代官朝日受永より黒印地3石を安堵され、寺請制度も確立し寺院運営の基礎とした。3世大光文岳大和尚は松島長福寺、上古田正全寺、北大出守慶寺(現安曇守桂寺)を開山した。寛永3(1626)年4世在天芳存大和尚代に火災に遭い伽藍を失い、5世月心秀全大和尚代に堂宇を再建した。元禄期になると、当地は旗本太田氏の知行所となり寺との関係を深める。8世格門慈越大和尚は北大出明光寺、羽場真福寺を開山、また、庫裡、山門建立や秋葉三尺坊遷宮、北島新田開発、城村3ヶ村深澤筋争論の和談に貢献した。伊那諏訪88ヶ所霊場5番札所に指定されたのもこの頃である。宝暦8(1758)年13世太陽寛光大和尚代に再び災禍に遭い山門と宝蔵を残して焼失するも、宝暦14(1764)年に本堂、明和2(1765)年に庫裡を再建する。15世大旭寛豊大和尚代に鐘楼を建立、京都の公家富小路家の御祈願所となり、獅子吼林の山門額や御駕籠などを賜る。

明治・大正時代

    大正6年再興 本生山秋葉寺

 明治期に入り、21世徳應海順大和尚は廃仏毀釈の多難な時期を乗り越え、農地開発に尽力し寺領を増やした。また、安曇に転寺した守桂寺の法地開山となった。24世普山徳順大和尚代には位牌堂建立、鐘楼銅版葺替、松島の大火を受け、秋葉三尺坊を祀る秋葉寺を再興開山した。

昭和・平成時代

   明音寺旧本堂と旧庫裡(1970年代)

 26世大忍徳隆大和尚代には戦時下の国難の中、堂宇は学童疎開中野桃園小学校の校舎と変わり、終戦を迎える。戦後は農地解放にて多くの寺領を失い困窮したが、保育園を始め寺院運営を支え、庫裡、山門屋根葺替、供出した梵鐘の再鋳造を行った。27世大俊徳明大和尚代には昭和54(1979)年に本堂大改修、平成5(1993)年に客殿、庫裡を新築した。

現在(令和)

      整備された現在の伽藍

 現住職28世晋山式に合わせ、檀信徒の皆様の多額の寄進により、山門・鐘楼・位牌堂・土蔵・本堂玄関・浄光の間の改修、本堂屋根銅版葺替、納骨堂新設、延命坂・内塀建設などの工事を行い、格調高き伽藍景観となった。延命地蔵、白衣観音、水月観音などの石仏も建立し、裏庭には300本のドウダンツツジ、大庭園の池には睡蓮を植栽するなど境内整備に力を入れている。また、バリアフリー化を進め、檀信徒の心の拠り所として、親しみやすく解放された寺院作りを目指している。令和3年11月に大寶塔と水神谷へ向かう遊歩道が完成した。