14代将軍家茂(いえもち)の命を受けた象山は、元治元年(1864)3月17日午後4時ころ、栗毛の馬に、洋鞍を置き息子恪二郎のほか門人、槍持、銃手、荷方、仲間、馬の口取等15名を従え、勇ましく京に向かって出立する。
象山その時53歳、北信濃の遅い春も、もう目前にあった。
松代を発った一行は、篠ノ井追分から北国西往還(善光寺西街道)を京都に向かう。その日は稲荷山宿を経て、桑原宿の豪農関家(旧松代藩士の屋敷)に宿す。翌日は猿ケ番場峠を越えて麻績、青柳、会田、苅谷原、岡田の各宿を経て松本宿に宿す。洗馬宿(塩尻市)より中仙道(木曽路)沿いの本山、宮越、上松、妻籠の各宿場に宿し、23日に美濃路に入にる。途中川止めに合い26日ようやく大垣に着き、門人の小原鉄心を訪ね京の模様を聞き、その夜は関が原に泊まる。28日大津に宿す。元治元年(1864)3月29日昼ころ、無事京都に着き六角通東洞院西入の越前屋という旅舎に宿所を定める。この旅舎は御所にも二条城にも近い便利な場所にあった。
松代をたって13日長い上洛の旅ではあった。
松代を発ってから僅か4ヶ月、理想国家建設の大志を抱いて勇躍上洛した佐久間象山ではあったが、志し半ばにして凶刃に斃れ、二度と再びこの道を松代に引き返すことは出来なかった。
稲荷山宿
土壁の街として、今も当時の美しい白壁と蔵づくりの建物が数多く保存されている歴史の街
街道の碑・右西京街道とあり北国西往還の猿ケ馬場峠方面に向かう道筋を示している道標
桑原宿
町並みは一新されているが、象山と親交のあった豪農関家の屋敷が伴月楼記念館として開放され、象山の遺墨、遺品や民俗資料などが展示されている。
この地名が、雷が鳴ったときのお呪いの言葉「クワバラ、クワバラ」の語源と言われている。
関家屋敷の全景、大きな建物が沢山あり庭も広く象山の遺墨や遺品らしき物がかなり見受けられた。
敷地内にあり象山に係る資料が展示されている
佐久間象山上洛の際、宿泊、親交の深かった主人と大いに飲み、食い、政局を語らったと言われる建物「象山佐久間先生御泊の所」の大きな看板がある
佐久間象山自筆の幟旗
謹慎蟄居中の嘉永7年に、上述の関家屋敷でしたためた物で、同地の桑原治田(はるた)神社の祭礼に使用されていた幟旗一対。長野県立歴史館が桑原中区区民から寄贈を受け保管している物で期間限定の公開資料です。
春祈膺介福 永寅春正書
秋報楽豊年 象山平大星
春祈膺介福・・豊年を祈り、幸せを受けるの意
秋報楽豊年・・豊作を祝い、豊年を楽しむの意
幟旗の大きさ・長さ10m余幅1.6m余
幟旗は右の写真のように揚げられる物
麻績村神明宮に掲げられた物(参考)
街道一番の難所で冠着山を右手に見ながら聖山の尾根筋まで登ると頂上付近に大きな湖(番場の池)が出現する、峠の頂上です。現在この付近は開発され娯楽施設や別荘が沢山ふえ聖高原と呼ばれる観光地になり昔の面影は無くなりました。
番場の池(聖湖)
三峰山の展望台からの眺望、遠く北アルプス連峰が望める
麻績の宿
桑原の宿
峠のお仙茶屋
整備された峠道・北国西街道は左側で、ほぼまつ直ぐに下り遊歩道として整備されている
麻績宿
麻績(おみ)村は、飛鳥時代に高麗(朝鮮半島)からの帰化人が住み着き、彼等が麻をつむぐ技術をもっていた事から、この地名が生まれたと言われるほどの古い歴史を持ち、今も其処此処に時代の遺跡や遺構が数々点在している。
この地方は、曼荼羅の里と呼ばれ400年の昔から各地に伝わる観音霊場巡拝の一つとしての、信濃三十三番観音札所の一番札所法善寺を始め五つの寺院があります。
茶屋跡は、下る道の弘法清水の湧く所にあります。旅人の憧れと憩いの茶屋として、この地方で歌われる番場節の一節にもその名が出てきます。
現存する当時の建物で、脇本陣、宿所、商家など住居として使用されながらも保護されています。
青柳の大切通し
麻績宿から青柳宿にぬける街道は、山坂を迂回しており人馬の通行に難儀をきたしていた。
天正8年(1580)ころ当時の城主が命じ切り開いたもので、岩山を人工(鎚とノミ)で幅3m余長さ26m余を三年がかりで掘った。
青柳宿はかなりの傾斜地にあり、屋敷は雛壇状に積まれた石垣の上に建っています。道路脇を流れる用水路が石垣の下を通り特徴ある町並みです。
宿の面影が残る家並みと石垣の下を流れる暗渠型の特徴ある水路は苔むして往時を忍ばせる。
今回は、此の辺で終りにします
この先の宿は、「北国西往還」「中仙道」などで検索してみてください。