失われた翼
お題(テーマ『色彩』):『虹』『水面』『カラス』『四季』
かつて、王国に乱有り。国と国を揺るがす戦乱の折、一人の英雄現れん。
漆黒の剣携えて戦場を舞うその姿、敵には死を告げる鴉の如し。
ゆえに我ら、行方をくらませし英雄を指してこう呼ばん。
敵に不吉を告げる騎士。ナイト・オブ・レイヴン。
そこは、いつ来ても辛気臭い場所だと思えた。置く場所のないものが騒然と置かれた、実験室とは名ばかりの物置。
春は過ぎ、短い夏が来ようかと言うのに。この部屋は四季の移ろいを完全に否定するかのようにいつも肌寒く、そして薄暗い。こんな場所では確かにさまざまな誤解を招いてもしょうがない、と。シグは一人ため息をついた。
長袖のシャツにズボン、革のブーツと言う簡素な格好ではあるが、その四肢は病的な細さではなく、むしろ鍛え上げられた堂々たる肉体である。砂色の髪と瞳はこの地方では珍しく、それを気に入られてここに居るのかもしれないと、思う。
錬金術。ありとあらゆる世界の動きを観測し、そこから奇跡と呼ばれる呪いを起こす力。神の興す法、すなわち神法が世の動きを決めるここアーセリアにおいて、一番の邪法とされている。しかし、世の中と言うのはいつも例外があるものだ。
神聖王国アーセリア首都、ネヴァルフ。またの名を『神都』と呼ばれるこの都市では、神の軌跡を体現するための力の一端として、錬金術研究室が存在する。神に反する力を研究することで、それがいかに非効率的であるかを知る、とか何とか言うのが最初の大義名分だったのだが何と言うことはない。要するに、上は名前に魅せられたのだ。
錬金術、すなわち金を得ることを。
「真理に勝る、金はなし……。だってのに」
錬金術の助手を勤めるようになってからと言うもの、師匠からは常日頃そう言われ続けてきた。世界が神によって生み出されたものであるにしろ、そこには常に法則が存在する。
それを解き明かすことによって、『我々が何故生まれたのかを探る』こと。すなわち真理の探究こそが錬金術の心理なのである。まあ、多くの者が誤解をしているのも無理はないのだが……。
「まあ、思いたい奴は思わせておくがいいさ。金こそ心理、って奴にはね」
不意に聞こえた声に、振り返る。そこにはいつものように、黒いローブと黒髪、黒い瞳と文字通り黒一色の女性が立っていた。聞き様によってはつやのある、人目を引く声ではあるが。その人となりを知っている者にとってはただの寝起きのだらけ声にしか聞こえない。
「……お師匠。また寝起きですか……」
「実験の結果が出るのは三日後だよ? それより、片付いた?」
と、シグの言葉に声を返す女性こそが、この研究室の主にして王国抱えの錬金術師シビュレである。錬金術師としての腕こそ一流ではあるが、生活能力そのほかは人並みやや外れ、と言う評価をシグは下している。特に掃除は下手で、シグの主だった仕事は研究室の掃除だった。
それでも、彼女に言わせれば散らかしているのではなく整頓であり、部屋が混沌としているほうがアイデアが閃きやすいとのことでもある。余り手を触れないようにはしつつ、埃を落とすと言う一種神がかり的な掃除の手腕がシグに要求されている。
「……まあ、一応は。後はこの部屋だけですけど」
「ああ、ここはいいんだ」
きっぱりと、声を上げてシビュレが否定の意を示し、そのままシグの首筋を捕まえようと手を伸ばす。獄自然な動作に見えて、その実かなりの速度を誇る抜き手のような一撃を、身をかがめて避ける。
「だからって、いきなり襲い掛かるのはどうかと思いますけど、ねっ……!」
「親愛の情を示しているだけじゃないか」
振り返りながら言うシグに対し、いけしゃーしゃーと返すシビュレ。錬金術師としてだけではなく、武術の腕も相当なものである。過去に何をしているのか、と言う問いはここではタブーとされている。
シビュレは錬金術師で、シグはその見習い。二人にとっては、それだけでいいのだ。
「……で、俺を呼びに来たのはどうしてです?」
「もちろん。君に見せておきたくてね」
肩をすくめて聞くシグに、同じようにして答えるシビュレ。元々これはシグの癖だったのだが、どういうわけかシビュレにも伝染している。動きが気に入ったのかどうだかは、分からないのだが。
「……実験中の、あれをね」
シビュレはそう言って、小さく笑った。
シグはシビュレに言われるまま、一室の扉を開ける。
通称第二実験室と呼ばれる、シビュレの私室。基本的に錬金術の実験などはこっちで行っている。流石に実験室に通い詰めなのは体に悪いし、眠るならしっかりと眠りたい、と言うのは彼女の弁。要するにずぼらなだけじゃないかと見ているのはシグの推察である。
「……さあ、これだよ」
シビュレが指差したのは、一つのフラスコだった。その中には、一目見るだけでは透明な、水のようなものが入っている。
その様子をしげしげと見るシグがフラスコを小さく揺らすと。わずかにゆらゆら揺れる水面が、七色に変わって見えた。
「虹の、しずく……。確かに」
どこか茫洋とした口調で呟く、シグ。ある一定の法則に従って混合された七種の液体からなるこの水は、見た目透明ながら、しかし揺らせば七色に輝いて見えることからそう呼ばれている。
精製も難しいが、これさえもあるものの原料だというから恐ろしい話である。
「これを三日かけて結晶化させれば……。出来るんだ。お前を救ったものが、ね」
急に言われて、はっと息を呑む。急に顔を上げるシグに対し、シビュレは薄く笑っていた。差し出した右手には、鞘に納まった精緻なつくりの剣が一つ。
かつて、シグが自分の手で捨てたもの。
「ナイト・オブ・レイヴン……。その伝説は耳にしたことはあるけど、ね。近くに居るとは思わなかった」
「……正式には、俺の兄がなんですけど」
観念したように呟くシグ。シビュレに向かって息を吐く。
「兄貴は、俺に剣を渡してどこかに行っちまったんです。『剣じゃ何も、解決しない』って。俺はそれを、知りたくて……」
何も言わず、首を振るシビュレ。いつものように、ただ穏やかに笑って。
「とりあえず、返しておくよ。いつまでも部屋においておくと、物干しに使うかもしれないし」
そのまま差し出した剣を……。シグは受け取り、静かに鞘を走らせる。そこには、まるで鴉の羽か何かのように黒い、刃。黒曜石を磨き上げて作った、鉄より鋭く、軽い剣。
黒き翼の鴉は、何よりも賢い鳥だという。人に忌み嫌われるが故の賢さか、はたまた違う理由か。しかし確かに、兄は鴉のような男だったとも、シグは覚えている。やけに頭がよく、静かで……。
いつもさびしげな、目をしていた。
「まあ、世の中なるようにしかならないものだ。今は考えるだけ、考えるがいい。私も付き合ってやる、飽きるまではな」
いつも通りのシビュレの声が、妙にやさしく、シグには聞こえた。
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