ユグドラジル

テーマ「木(樹)」、お題「老成・添え木・手・見えないけれどそこにある」



 この世界は、一本の樹から出来ているという。大地を支えるのは、複雑に絡まった一本の根。
 この世界は、一本の樹から出来ているという。空を支えるのは、天に突き刺さらんばかりの梢。
 この世界は、一本の樹から出来ているという。命をはぐくむのは、太陽をさんさんと受ける葉。
 この世界は……。

「あーっ、やめたやめたっ!」

 手の中にあった本をぱたりと閉じ、俺はゆっくりと顔を上げた。背表紙には、ご丁寧に『創生のサーガ』とはっきりタイトルが付いている。最近相棒が俺に無理やり買い与えたものなのだが、どうにもこの辺りのものは読む気がしない。今回25度目のチャレンジを試みたが、やはり最初の数行で嫌気が差してしまった。
 やはり、環境を変えればどうにかなるかと、仕事で着ている遺跡の野営中に読んでいるのがまずかったんだろうか。
 俺の名はヴィッシュ=ドーナ。こう見えても冒険者で、吟遊詩人。歌と楽器で人々を癒し、明日への活力を導く栄えある職業だ。まあ、もっとも最近は、もう一つの力のせいで有名になっちまったんだが……。

「……ほら、サボるんじゃないの」

 新しい声がして、不意にしなやかな手が頭に置かれる。気配を立ちながら背後に忍び寄るなんてのは、こいつにとっては朝飯前だ。しかし、チェインメイルなんて金属鎧着ているのに、どーしてここまで音がしないんだか。何がどうなってるのか分かったもんじゃない。

「だからって、こんなサーガばっかり読むのは辛いんだよ……」
「ぼやくなぼやくな。この基本ぶっ飛ばしたバードが」

 俺のツッコミにも片手をひらひらっとしただけで返してしまう。最初の頃はむかっ腹も立ったが、今ではもう慣れてしまった。
 紹介が遅れたが、こいつの名前はアニス。本名は教えてくれていない。戦士であることは見てりゃ分かるんだが……。どうも時折盗賊のように器用に鍵外したりもするしわけが分からない。
 まあ、そんな能力のバーゲンセールみたいな奴だから、コンビでやっていけるわけなんだが。俺が魔法とかの担当、アニスが肉体労働担当ときっちり分業も出来ている。
 ちなみに、バードってのは吟遊詩人のこと。最近はもう一つの呼び名が主流になってる中で、アニスだけはこの呼び方を貫いてくれている。正直な話、ここはありがたい。
 もう一つの力は、正直な話あまり好きじゃないからだ。バードは自分の感性で、詩や歌を作ることにこそ価値があるってのに……。

「……来たよ」

 アニスの声に、ふっと我に返る。一つ頷いてから、俺は傍らの相棒に手をやる。両手で抱えるように竪琴を持ち、す、と息を吸い込む。アニスはそのまま、耳をふさぐ。前に来るのは恐らくモンスターの類なのだろう。そうでなかったら、いつもは前に出る彼女がこうする理由が分からない。

「道を、示せ」

 ピン、と弦を一度はじき、歌を始める。そのまま数度かき鳴らしてやると、弦は空気を揺らし音を作り出す。そのまま、長き時を経て渋みと深みを内封する竪琴が音をつむいでゆく。

『汝が前に道はない。我が前にしか道はない。その世界には行く先がなく、汝らは取り残される。挑め挑め、先に挑め』

 声が、周囲を支配してゆく。これはもはや、俺の歌ではない。俺が爪弾いた楽器が、最初のワンフレーズで再現する過去の歌。過ぎし日に忘れられし、呪歌。
 聞き入るもの全てに、偽りの世界を見せる。その世界の中では、全てが歌い手の思うがまま……。

『先がない世界に挑め、そして世界の果てへ行け。この先に道はかけらともなく。全ての道は、絶望にきゆ』
「くそっ、あいつ支配者(クエスター)だ!」
「抵抗しろ! 奴の世界に飲み込まれるな!!」

 そう、だからこそ最近のバードは皆、クエスターと呼ばれる。異なる世界を、聴いているものに見せる呪歌の使い手をさし、そう呼ぶのだ。
 もっとも、これにはいくつかの条件があり。歌が魔力を持つに至る歴史と、古きを経て魔力をもった楽器。そしてそれを再現する力のある詩人。この三つがそろわない限り使うことの出来ない厳しいものだ。
 大概の詩人は、これを操ることなど出来ないのだが……。そもそも、こちらが呪歌を使っている、と言うことさえも普通は分からない。聞こえた瞬間に、その世界に引きずり込まれる。
 だから、聞こえていないと思っても……。そこには、すでに目で見えるものとは違う世界が、存在する。

「おおりゃああああっ!」
「くらえええええっ!」

 モンスターたちが、そしてその背後にいた男たちまでも、我先にと真正面から突っ込んでくる。
 呪歌によって、行動を制限されていることにも気付かず……。ただただまっすぐに、聞こえた歌と同じ運命をなぞる。俺の目の前に至る道しか、すでに『彼らからは消えている』のだ。

「……いくよ」

 背後からの声に頷く。アニスはすでに準備を終えていた。俺はそのまま手を伸ばし、高くに登っていたアニスの手を掴む。そのまま俺は、勢いよく空へと引っ張り上げられ……。
 足元にいる者たちは、一様にその場に立ち尽くした。彼らが走るべき道さえも、失ったのだ。
 何もなくなった、呪歌のとりこたちは……。もはや何もすることが出来ぬまま、立ち尽くすほかない。そう、己が死に至るその時まで。

「……さすがに、これはやりすぎじゃない?」

 肩をすくめて、俺は傍らの相棒に問いかける。何本もの樹が絡まって出来た、即席の座る場所。元々は倒れかけていた物を支える何本めかの添え木だったらしいが、すでに大樹に飲み込まれて何がなんだか分からなくなっている。

「これでも足りないくらいさ。まあ、ここを血で汚すわけには行かないからね」

 アニスはそう答えると、天井を仰ぎ見る。俺より少し上にいる彼女の方を見るのは少し骨が折れるが、まあ仕方ない。ここはそういう場所だから、慣れるしかない。

「さて、そろそろ続きを読むの! いい加減に覚えなさい、大切なことなんだから」
「……へいへい……」

 俺は肩をすくめながら、アニスの小言に答える。いつの間にやら、すでに俺の荷物そのほかもここに移動している。下にいる連中が正気を失うまで、あと少しはこの位置で読書となるだろう。
 世界創生の樹木、ユグドラジル。そのたもとには知識を得る泉がある。
 それを飲んだ者は、例外なく英知を授かるのだ。それが人であれ、物であれ。
 だから、ここではそれを守護する一族、つまりは守護者が存在する。幸か不幸か、俺もその一人なわけで。
 世界のことは知識の泉のおかげで分かるのだが、実際に触れてみたいと思う欲求のほうが強い。しかし、ここを捨て置くわけにも行かない……。
 どうしようもないジレンマにさいなまれながら、俺はまた『創生のサーガ』を読むのである。

 この世界は、一本の樹から出来ているという。その樹木は、全ての英知を携え。
 この世界は、一本の樹から出来ているという。樹の中に携えられし記憶は、解き放つものを待つ。
 この世界は、一本の樹から出来ているという。世界の記憶を解き放つのは、学を奏でる心の持ち主。

 故に我らは、こう呼ぶのである。

 この世界は、楽師の心でできている。





あとがきへ
 


書斎トップへ