魔弾の射手〜Der Freischutz〜(前編)



 その部屋は、人が住めるのかと思うほどに狭かった。まあ、物が多すぎる、と言うのが何よりの理由なのだろうが。ぎっちりと辞典が詰まった本棚や、収納能力の限界に挑まざるを得ない戸棚や箪笥。その上に積み重なった埃はすでに固まっており、どれだけの時節ほって置かれたかを雄弁に語っていた。
 時間さえも硬直してしまうかのごとき、本来ならば音のない場所。しかし、今は少し違った。
 部屋を満たすのは機械音。そして、入り口で動き回る姿が一つ。漆黒のタキシードをぴしりと着こなし、やや長い髪をきっちりと後ろに流す。年は若く、恐らくは20代半ばかそこらと言うところ。背は高く、体の線も細い。そんな青年がきっちりとした服装をすればおのぼりさんに見えそうなものだが、不思議と彼には似合っていた。全身からほとばしる雰囲気に老成したものがあるせいか、それともただ単に着慣れているのか。どちらにせよ、そのかもし出す雰囲気は唯一つの単語を導かずにはいられなかった。
 執事、と。

「……今は、ゆっくりとお休みなさい。主に必要とされるまで……」

 わずかな呟きをこぼしながら、右手をゆっくりと動かす。左手は今までそこを陣取っていた額縁にそっと触れており、右手がその近くを動くたび、積層状に積もった埃が消えてゆく。その動きに無駄はなく、かといってぞんざいでもない。効率と的確さを重視し、その動きを見れば掃除業者が思わずスカウトに来そうなほどの手並みである。手狭な物置ではあるものの、その中に時間とともに陣取っていた埃と汚れはすでに三分の一ほどが片付けられ、主がいつ自分達を迎えに来ても良いように整頓されていた。
 物置の掃除と言えば、普通であれば罰の一つとして行なわれそうなものなのだが、この男の顔に浮いているのは満足そうな表情。
 そう、彼は明らかにこの行動を楽しんでいた。それがただ単に掃除好きな事を表しているのか、それとも別の要因か。この場では判断がしづらい。汚かった部屋が綺麗になってゆくことに、掃除好きは喜びと達成感を見出すからだ。しかも、事前事後の格差が激しければ激しいほど、その喜びは倍増するものである。だが、世の中そうそう良いことと言うのは長続きしない。例えそれが、一般的に9割の人間が忌避するものであったとしてもだ。
 苦しみと共に、喜びの形も千差万別なのである。

「御剣さん? お嬢様がお呼びですよー!」

 この場合は、同僚のメイド長からの呼び出しだった。わずか残念そうな笑みを浮かべると、右手を翻して掃除機のスイッチを切る。主の呼びつけとあればいかなる状況であろうとも駆けつけるのが執事の務め。違うかもしれないが、彼、御剣涼(みつるぎ りょう)はそう信じている。

「今、参ります」

 丁寧な言葉を外へと投げかけると、そのままゆっくりと部屋を後にする。右手に持った掃除機の管を丁寧にワゴンに載せ、そのままそれを押し、ゆっくりと屋敷を歩き出した。急がないのは性質の問題ではなく、様々な掃除用具を載せたワゴンのバランスを崩さないようにする配慮である。下手に速度を出したとしても、道具が何かの拍子にばら撒かれてしまえば余計な時間を食ってしまうだろう。そういうことを考えれば、現状出せる最速でもって彼は移動していた。

「……お嬢様。御剣、参りました」

 豪奢なドアの前、丁寧な二度のノックを成して来訪を告げ、相手の声を聞かずしてドアを開ける。この家の主に最初に言われたことは、誰であるかさえ告げればドアを開けて入ってきて良い、との事だった。駄目な時のみ返事をする、と言うわけである。
 丁寧な一礼をして顔を上げた先にたたずむのは、深窓の令嬢、と言う言葉がよく似合いそうな姿だった。着ているのはごくごくシンプルな黒のサマードレスの上に同色のケープ、黒髪は腰の辺りまでを柔らかく覆い、伏目がちの双眸はこちらを見やり、満足そうな笑みを表情に浮かべる。

「……あの、ね。今日うちで簡単なパーティーがあるのは、知ってるわよね?」
「存じております。ですが、御自身の誕生祝賀を簡単な、とは言わぬほうがよろしいかと存じますが。美弥お嬢様」

 至極つまらなそうな美弥の言葉を、丁寧に返す御剣。彼女、織部美弥(おりべ みや)が今回の誕生祝賀を歓迎していない理由については、すでに予想が付いていた。だがまあ、それでも準備と言うものは進んでしまうものである。大規模な祝賀と言うものの前では、えてして当人の意思など無視されてしまうことが多いが、今回もその一つに見えた。執事などをやっていると、そういうケースには幾度かぶつかるものなのだ。ましてや、自分など……。

「他人が決めた許婚と結婚なんて、嫌に決まってます! そういう古めかしい風習に縛られて一体どうすると言うんですかっ! 自分の婚約者の一人や二人、自分の手で捕まえて……。御剣さん聞いてます?」
「聞いております。ですが、お父上の心遣いを悪く言うものではありませんよ。とりあえず、一度だけでも会って見ないことには……」

 やんわりとした見剣の言葉に、業を煮やしたかに見える美弥。正論と言うものはえてして正しいのだが、世の中いつもそれが通るとは限らない。ましてや、逆上しているような相手に対しては。

「御剣さんでは話になりませんわ! 父上に断りの電話を入れてきます!」

 彼女なりに肩を怒らせて、足早に部屋を出て行く美弥。その後姿を見て、御剣はただ静かに息を吐き出す。彼女の執事になるに至った経緯を思えば、父親の行動は決して間違っていない。ただ、それに対する説明が足りなかったのだ。まあ、うまく説明しろ、と言うほうが無茶苦茶なのかもしれないが。

「……さて。そろそろ私の、本当の仕事が近いんでしょうな……」

 ふ、と。主のいない部屋で御剣が笑みを、浮かべた。



 その日の夜。どんなに彼女が嫌がろうとも、正式に記念祝賀が催された。流石にパーティーの内容までは、捻じ曲げるわけに行かなかったと言うのが正直なところだ。彼女の言い分がどれだけ強かったのかは分からないが、とりあえず許婚などの話は会ってからどうにかする、という事になっている。

「さて、どう出ますかね……」

 そんな折、御剣はどうしているかと言うと。すでに入場も終わった玄関前に立っている。遅れてやってくる参加者もなく、全員がやってきているにもかかわらず、だ。華々しい世界の裏で、こういう仕事が必要なのはよく分かっている。
 まるで、真実の隠蔽されたこの世界のように。

「お嬢様まで、知ってしまった人(ノウンマン)になる必要はないのですから……。さあ、そろそろ出てきてはいかがです?」

 御剣の声に、空気が答えた。ぞわり、と背筋が逆立つような感覚がし、そこここの暗がりから爛々と輝く目が次々に現れる。
 一つ、二つ、三つ……。獰猛な獣の吐息を耳に聞き、広げた両手に二丁のリボルバー拳銃を握る。耐え切れないといわんばかりに飛び出した獣に向け、一切迷う事なく返礼を送りつける。
 轟音、一閃。銃撃を受けた獣の傷口が、ぶくぶくと不気味に泡立つ。再生しようとしている傷が、何かに阻まれているように。

「教会による法儀式済み純銀をベースにした銃弾です。中には大蒜など、あなた方が嫌うものを仕込ませていただきました。不死者の血族たるあなた方に対してでも、十全な効果を成すものと自負させていただいております」

 まるで料理のレシピのように、銃弾の中身を説明してゆく。二丁のそれを構えたその様はいかにも優雅で、着ているものもあいまってこれから社交ダンスでも踊りに行くかに見える。怒号に聞こえる唸り声と、雲間から注ぐ月明かり。楽しげに表情をゆがめた御剣に向かい、無数の獣達が飛び掛る。牙を剥いた獣の口に銃口を突き入れ、射撃。三発で動かなくなる一匹には目もくれず、宙を舞う二匹に向かって銃弾を見舞う。
 無論一発程度では致命打にならず、さらに襲い掛かろうと身構える獣達。しかし相手の戦力を知ってか、うかつに飛び込めなくなっている。その様子を見やりつつ、銃に新たな弾を込める御剣。そこを好機と迫る獣は、リロード中途で残された弾丸の洗礼を受け、無様に転がる。

「さあ、存分に踊りましょう。客をもてなすのは、執事の本懐である故に!」

 無数の獣達を相手に、同じだけの銃声が吼える。外れる弾などあるはずがなく、問答無用に獣達を吹き飛ばす。確かに、ここには一つの舞が披露されていた。獣達の砲声と銃声を伴奏に、華麗に舞い踊るその様は、月光を受けて一枚の絵画の如く決まって見える。誰も見るものがないことが残念ではあるが、そもそも見せることなど考えていない。
 この表の戦いを見せたくないが故に、中に参加者を全て閉じ込めておく必要があった。いや、この祝賀会そのものが、ただ一人を護るために催されていた。見なくてもいい物を、わざわざ見せるようなことは罪悪に値する。そう信じるからこそ、御剣もまた己の全力を振り絞っていた。
 それ故に、気付いていなかった。硬くカーテンをかけていたはずの、テラスに人影があることに。



 息の詰まりそうな祝賀会から、逃げ出すのも自分のプライドが許さない。せめてテラスに出る程度ならばいいだろう。美弥がそう考えたのも至極当然ではあった。実際、こういう屋敷でテラスと言うのは昼夜を問わず休むために存在する。彼女自身もそういう風に利用していたこともあってか、外に出ることに抵抗などなかった。
 戸を開いた瞬間、火薬が爆発するような音が響かなければ。

「……えっ!?」

 開きかけたテラスの戸をそのままに、美弥が硬直する。この扉を開けてはいけない。開けたが最後戻れなくなる。頭の中の乾いた部分がそう、ささやく。彼女はその直感に従い、ぐっと扉を閉めようとした。
 ただ、その扉が逆側から開かれようとは、思っても見なかったわけで。

「……こんばんは、わが姫君よ」

 ドアを思い切り開け放った人影は、そう声を上げた。やや高い声に似合う、どことなく17世紀を思わせる風貌の美青年である。漆黒のスーツにマントをまとうその様は不思議なほどにぴたりとはまって見え、両手を広げて見せる芝居ががったしぐさも気にならない。

「あ、貴方は……!?」
「私はヴィクラウド=エクス=ファーレンハイト。夜に身を置く不滅の公爵。新たなる姫君として、汝を迎えに来た」

 やや乾いた声になってしまった美弥の問いかけに対し、仰々しく答えて頭を下げる男。表情こそ微笑んでいるように見えるが、その奥にある何かが、美弥の脳裏で最大限に警報を鳴らしていた。
 この男に、近寄ってはいけない。

「新たな姫君って……。私はそんな、重婚者の嫁になんてなるつもりは……っ」
「私に何が不足していると言うのだね? 永遠の美、不滅の若さ、公爵としての地位……。全てを与えようと言うのに」

 声を上げながら数歩後ずさる美弥に向かい、ゆっくりと手を伸ばすヴィクラウド。手なんて届かない距離まで逃げたと思っていたのに、気付けばその手をしっかりと握られていた。美弥の手をとる彼の手先は、まるで氷のように冷たい。
 そのまま微笑む彼の口もとに、何やら鋭利な光があるのを美弥は見逃さなかった。

「さあ、誓いを遂げようではないか。今宵こそは満月の夜……。婚礼の儀には相応しい!」

 狂ったように声を上げるヴィクラウド。声を上げるために動く口の中には、四本のとがった歯が輝く。八重歯や乱杭歯などではない、それは文字通りの牙。そのまま美弥を自分の下へ引き寄せ、炯々と輝く眼差しを美弥の首筋に注ぐ。逃げようと身をよじる美弥ではあるが、細身のくせにヴィクラウドの力たるや凄まじく、細い手先を一ミリも動かせない。

「……嫌あっ!?」

 最大限の拒絶の叫びを、美弥が上げたその時。背後で轟音がこだました。手がわずか離れた隙を付き、テラスの端まで一気に逃げる。ヴィクラウドの表情は憤怒に染まり、階下にたたずむ姿をにらみつけた。

「眷属の方々には、全てお引取りを願いました。嫌がる姫君に誓いを強要など、貴公子のする事ではございませんよ、ヴィクラウド卿?」
「貴様、何者だっ!?」

 何故か聞こえた涼やかな声に、美弥は声を限りに、叫ぶ。安堵の言葉を。

「御剣さん!」



後編へ
 


書斎トップへ