第一章 不穏なる転校生

 黒。他の一切の存在を許さぬ、漆黒の空間。その中で座る人影は、空間の中に身も心も溶かし込んでいるかのようだ。何者の侵入すら許さぬ空間がふと、揺らいだ。

「……何者だ」

 中央に座る影が、よく練れた太い声で聞いてくる。聞く者全ての心をつかみ取ってしまうかのような響きの声は、漆黒の空間に響き渡った。

「阿智 弘羅(あち こうら)にございます。招集の儀により、参上いたしました」

 問いかけに答えたのは、年若い華やかさを帯びた低めの声。成長期の少年によくある微妙な響きは、先ほどの渋みを感じる声と相まって暗闇に二重奏を奏でる。

「来たか……。では、これより儀を執り行う!」

 低い声の宣言に、炎が答えた。部屋を支配する漆黒が、次々に点火される松明の赤に薄められてゆく。灯が灯りきった時、部屋の全貌が明らかになった。
 百畳はありそうな木造の空間。そこに居座る何人もの僧侶(のような格好の人々)。中央部に座る、茶色の法衣を纏った好々爺然とした老人。左右の壁に貼られた奇妙な絵画に、背後には木製の像数体。
 どこからどう見ても異常な空間の入り口に、一人の男が身じろぎもせずに立っていた。
 適当に刈り込まれたざんばら髪。鋭い眼差しと同じように引き締まった顔に、厳しく閉じられた口元。180はありそうな、鍛え残しのない見事な体を藍色の法衣で覆っている。
 絵画から飛び出してきたような男は、両手を胸の前で合わせながら静かに立っていた。

「弘羅よ。本日をもってお主を達行僧とし、闇高野武家衆(やみこうやぶけしゅう)の一派として認める」

 中央の老僧の宣言は、周囲をどよめかせた。何であいつが、信じられない――そんな類の声が、周囲を覆う。

「はい。武家集の名に恥じぬよう、身命を賭して事に当たらせてもらいます」

 入り口に立つ男は、そう言って深く一礼した。その動きは古くさいように見えるがどこまでも優雅で、周囲に油断ならない雰囲気をふりまいている。

「大僧正! 私は納得できません。弘羅はまだ16なのですよ。そのような若造が、いきなり武家集など……」

 僧侶の一人が、不満を一杯に含んだ叫びを上げた。その声に賛同するように、周囲にざわめきが起こる。

「黙らんか瑞鳳(ずいほう)! 男児15にして一人前の男となる。己の未熟さを棚に上げるでないわ!」

 中央の僧侶の一喝が、周囲に静寂を引き戻した。痛いところを突かれたと僧侶たちが黙り込む中、瑞鳳と呼ばれた大きな体躯の僧だけがまだ不満の色を浮かべている。

「さて弘羅よ。お主に武家衆としての任を与える。闇高野の掟は覚えておるな?」

 周囲が静まりかえったところで、大僧正が尋ねる。弘羅は少し待ってから口を開き、

「はっ。闇高野の掟はただ一つ。有るように有れ、これだけです」

 と答えた。大僧正はそれに深く頷き、

「そうじゃ。そして今、約束の刻が訪れた。寄り代の者が、この地に育っておる」
  その単語は、周囲に混乱を引き起こした。弘羅の方も表情を変える。

「寄り代の者……。あの、超霊媒体質という……」
「そうじゃ。幾千の宗教家たちがかの者に神降ろしを行い、現人神(あらびとがみ)として使おうとするであろう」

 弘羅の呟きに、頷きながら答える大僧正。本来、人には異界の存在を関知する力、霊力が備わっている。その能力は人と異界とを繋げ、異界からの侵入を防ぐ盾となり、また異界のモノを払う剣となる。
 本来、この力は表裏一体。剣となり盾となる霊力を、いかなる人間も無意識のうちに操っている。その強弱に関わらず。しかし、寄り代の者は違う。かの者が持つのは剣のみ。異界からの攻撃に対し、一切の防御ができないのだ。

「だが、これは我ら闇高野の教えに反する。寄り代の者も有るように生き、そして滅ぶべきだ。弘羅、寄り代の者を守る役、お主についてもらいたい」

 その瞬間、周囲から一斉に不満の声が挙がった。先ほどのどよめきなどという騒ぎではない。

「大僧正! 武家衆になりたての若造に、そのような大役を任せるおつもりですか!」
「今なら間に合います! 今一度、ご再考を!」

 大僧正の背後に控えていた者たちまで、不満を口にする。もっとも彼らの言う理由は彼の経験不足を根底にした理にかなったもので、左右から響く罵詈雑言などとは一線を画しているが。

「分かっておると思うが、寄り代の者は近づく霊的存在に対して無防備だ。式神や神降ろしを使えば、降臨した者たちがかの者に乗り移るという場合もあり得る」

 大僧正の言葉に、武家衆たちの意見が止まった。自分たちの得意技といえばその二つだが、それを使えば寄り代に危険が及ぶ――その意見に、ようやく納得する。

「その点、弘羅の操るものは心配ない。かの者たちは、独立した生命ではないからな……」

 大僧正はそう言うと、弘羅に片手で合図した。誘われるままに弘羅が近寄ったところで、その額に右手の中指を当てる。大僧正が指を引っ込めると、弘羅の額に文印が刻まれていた。

「今、封印を解いた。弘羅よ、お主は下界で悠久山慈護眼(ゆうきゅうさん じごめ)を名乗り、寄り代の者を護衛せよ!」
「……この身命に代えましても」 

 弘羅はそう言うと、優雅な仕草で一礼した。


 朝。活力に満ちた人々が、今日の仕事を求めて町を行く。スーツ姿のサラリーマンやキャリアウーマンたちが悠々と闊歩している中、一人場違いな人物がいた。

(何なのだ、ここは……)

 弘羅は困惑していた。今までとは、あまりにも違う環境に。
 まず、周囲の景色。緑はなく、足下も土ではない。周囲には石のようなもの(コンクリート)やガラスで造られた建物が建ち並んでいる。
 ついで、人。あまりにも多すぎる。それぞれ行く先を知っているからかそれぞれの方角に歩いているものの、これだけ多くの人がいる場所など見たことがない。
 とどめに、服装である。皆一概に洋装を身にまとい、それぞれ着こなしている。弘羅はと言うと、抹茶色の和服に藍色の袴姿。外に出るということで用意してきた外出着だったが、それが逆に目立ちまくっている。
 緑豊かな山林で、食事など大僧正に呼ばれた時以外は孤独な日々を過ごし、法衣を着ることを求められるという文字通り純和風の巣窟にいた弘羅は、今の日本がどうなっているかなど全く知らなかった。

(緑はなく、人は無駄に多い。おまけに洋装……? 変われば変わるということか。俺も、洋装を用意した方がいいだろうな)

 周囲の様子から、日本の現状(と言っても、あくまで外見的な一般常識だが)を何となく理解する弘羅。和装の人間が目立つという事実を、彼はこの時ようやく思い知った。

(しかし、こうも人が多くてはなあ……、困ったぞ)

 周囲の様子をきょろきょろと見回す弘羅の目に、学生服を着た二人の女子生徒が目に入った。記憶を紐解き、ここに来る前に見た寄り代の者の絵と彼女を照らし合わせる。

「……彼女が寄り代の者、楠葉みのりか……」

 弘羅はそう呟くと、気配を消して手近な電柱のそばに隠れる。二人がある程度の距離にまで離れたところで、ゆっくりと尾行を開始した。


 ちょうどその頃、彼女――楠葉みのりも困惑していた。
 160前半の背に、引き締まった体つき。やや大きめの瞳に快活そうな光を浮かべ、全身から元気の塊のような気配を放つ少女が、今は困惑していた。周囲の様子を観察し、目を細める。

「……どうやら、道に迷ったみたいね……」

 出てきた言葉には、深い後悔の念がありありと浮かんでいるものの、結構落ち着いていた。

「ど、どうすんのよみのり! 始業式に間に合わないじゃない!」

 わめき散らす友人の言葉をよそに、みのりの方は頭を抱えて考え込む。
 どこで道を間違えたのだろう? 道順も、降りる駅も間違っていた試しはない。とすれば……。

「分かった! 出口間違えたんだ! 東口にバス乗り場があったじゃない!」

 みのりが大声を上げ、まわれ右して走り出す。慌てて彼女の友人――遠野貴子もその後を追った。
 長い髪に、170を超える背丈。そのまま行けば運動神経も良さそうなものだが、顔立ちその他からはどこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。そのアンバランスさが、かえって彼女の姿を魅力的にしていた。

(全く、夢中になると単純なことさえ間違えるんだから……)

 貴子はそう思いつつ、かなり速いみのりの背中を追う。彼女が道を間違えたとき、みのりは文庫本を読むのに夢中で周囲に気を配ってなかったのである。
 夢中でみのりを追っているため気が付かなかったが、彼女たちを追ってくる和服の影が一つあった。言わずと知れた、弘羅である。

(しまったな、感づかれた。まだまだ修行が足らないと言うことか……)

 彼女たちの行動を大きく勘違いしながら、弘羅は二人の視界に入らないように素早く移動する。大声を張り上げながら大通りを突っ走る女子高生二人と、それを静かにつけ回す和服の青年。
 傍目から見たら、異様な光景としか言いようがなかった。


 先ほどの駅を東口で降りて、バスに揺られること20分。肩で息をしながら、みのりたちは校舎を見上げた。
 私立洛潜学院(らくせんがくいん)高等部。小から大学まで一貫でありながら各部において校舎の棲み分けをするという贅沢な校舎は、一つ残らずハイテクの粋を集めたリッチな作りになっている。

「ああほら、急がないと始業式始まっちゃうじゃない! 急がないと!」

 みのりはそう言いながら、隣にいる貴子を急かした。元はと言えば電車の出口を間違えた自分の責任で遅れたというのに、気楽なものである。

「分かってるってば!」

 貴子も声を張り上げると、二人そろって校門をくぐる。汗一つかかずに彼女たちを追跡していた弘羅だったが、学校に入っていったのを知って顔色を変えた。

(学校か……、まずいな。部外者は立ち入れないし、かといってここで彼女は一日の大半を過ごすわけだし……)

 顎に手を当て、苦い顔で考え込む。こうしてみると結構絵になる構図なのだが、考えている内容が常軌を逸脱しているという事実はぬぐい去れない。

「そこの君、悠久山君……だな?」

 どう学校に侵入するか考え込む弘羅は、自分の名前(と言っても、ここにいる間だけの仮称だが)を呼ばれ、そちらに顔を向ける。そこには、齢60を過ぎた老人が立っていた。着ている紺色のスーツから察するに、どうやら学校の関係者らしい。

「はい。俺が悠久山慈護眼ですが……」

 弘羅はそう言って、ゆっくりと老人に近づく。あまりに優雅な身のこなしに老人は一瞬唖然としたものの、すぐに表情を直して問いかける。

「始業式に間に合っているのは良いんだが……、一体なぜ和服なのだ? 制服はまだ届いてないのか?」
「ええ。ですから考えに考えた結果、もっとも条件に合う服装で来ました」

 弘羅はもっともらしい顔でそう切り出した。うまくいけば、ごまかせるかも知れない。

「……それで、和服か。その心は?」
「式典には、最も礼を尽くした衣装で参席するべきです。何より、日本人に生まれた以上、和の精神を忘れてはならない。そう思って、和服を選びました」

 弘羅は臆することなく、堂々と答えた。居直りに似通っているが、そんなものとは根本が違う。かくあるべきだという理想を、実践しているだけなのだから。
 この堂々とした弘羅の言葉は、思った以上の効果をもたらした。

「……そうか。なら入りたまえ、始業式はもうすぐだ」

 老人はそういうと、弘羅に一枚の板を手渡す。手渡されたプラスチック製のカードをしげしげと眺めている弘羅の背中を、老人が押した。

「この学校は、完全なコンピュータ・セキュリティが施されている。自分のIDカードがなければ、用を足すこともできない。それが君のカードだ。大切にするように」

 老人の言葉を聞きながら、弘羅は玄関横に設置されたスロットにカードを通す。するとすぐに扉が開き、弘羅を校内へと迎え入れた。


 いかにハイテクの塊である学校内であっても、生徒の質は普通の学校と大差ない。よって教師が入ってくる前の教室はうるさいことこの上ないのだ。

「あーもう、初日から遅刻寸前なんて……」

 机に突っ伏しながら、みのりがぼやいた。登校時のダッシュのせいでへとへとに疲れ切っている体を重そうに起こし、顔を前に向ける。

「でもまあ、間に合っただけ良かったじゃない。遅刻だけは気をつけなくちゃね」

 貴子がそう言って、自分の席に戻る。始業式の際にもらったプリントを整理しながら、クラスの様子をぼんやりと眺める。

「そうよね。それだけは避けなくちゃね……」

 みのりは疲れ切ったようにそう言って、再び机に突っ伏した。そんな彼女も、ドアが開く音に反応して素早く起きあがる。三十路に足を踏み込みかけている担任教師が、おもむろに話を切りだした。

「えー。まず、転校生の紹介をする」

 転校生。その一言が周囲にざわめきを引き起こした。期待が混乱とさらなる噂を引き起こし、ざわめきが数倍にふくれあがる。

「入りたまえ」

 次の一言で、今度は不気味なほどの静寂が周囲を覆った。どんなに噂ががなり立てても、現実には全てを強制的に黙らせるほどの破壊力があるのだ。
 教室のドアが開き、最初の一歩が踏み出される。その瞬間、生徒一同は完全に言葉を失った。
 足と共に突き出されたのは、藍色の袴。整った顔が乗っかった長身を包むのは、袴に合わせた抹茶色の上着。音もなく自分たちの前を進むその姿は、統一されているようでいないような奇妙な美しさがあった。教壇の前で立ち止まり、手にした白墨が見たこともない字を描く。

(やりにくいな、こういう眼差しを向けられては……)

 弘羅はそんなことを考えながら、自分の名を描き終えた。それでも、彼らの硬直は解かれない。

「本日より、みなさまと共に勉学に励むこととなった、悠久山慈護眼と申します」

 淀みない挨拶の調子にも、全く反応がない。弘羅はそんな周囲の反応に、かなり本気で心配を始めていた。

「彼は高野山の仏教の学校から来たばかりで、制服の方が間に合わなかったんだそうだ。それで、何か質問はあるか?」

 先生のフォローによって、ようやく周囲の緊張が解けた。ぽつぽつと、周囲から質問の手が上がる。

「いつも和服なんですか?」

 男子生徒のあざけるような調子の質問。弘羅は相変わらずの、まじめそのものとでも例えるべき表情で、

「ええ。着流しだったり法衣だったりと様々ですが、大抵和服で過ごしています」

 と答える。またもや、周囲に静寂が訪れた。

「彼の学校は、山奥にある全寮制の校舎だそうで。それでいつも和服なんですよ」

 再び入る、教師のフォロー。常識を逸脱しまくった環境だとは分かっているが、履歴書に書かれている事実だから仕方がない。どうやら周囲も納得したようだ。

「えっと、好きなミュージシャンとかはいますかぁ?」

 女子生徒の質問に、弘羅は内心冷や汗をかいた。何しろ闇高野での生活は、全て平仮名で通じる世界だったのである。ミュージシャンなどと言う単語は、聞いたことがない。

「特にはいません」

 とりあえず、当たり障りのなさそうな答えを返しておく。女子生徒の方は腑に落ちないような表情を浮かべたまま席に着き、別の生徒が手を挙げた。

「趣味は何ですか?」

 ようやくまともな質問が来た、と弘羅は内心ほっとしていた。軽く息を吐き、はっきりと答える。

「森林浴と座禅です」

 この答えに周囲一同が引いたのは、言うまでもない。

「何かおかしくない、あの転校生?」

 ホームルームも終わり、下校する生徒がちらほら出始めた教室で、みのりが近くの女子生徒に切り出した。視線の先には、小さな本を読む弘羅の姿がある。

「あそこまで世間ずれ激しいとね……。山奥から来たってのも、結構うなずけるかも」

 貴子が答え、みのりと同じような疑惑の視線を弘羅に向ける。当の本人は自分が山奥から来た珍獣扱いされているなど全く気づかず、本を閉じて鞄を手に取った。みのりたちに軽く一礼し、すたすたと教室を後にする。

「今、こっちに向かって頭下げてたよね……」
「そうみたいだけど……。何か不気味じゃない……?」

 謎が謎呼ぶ弘羅の行動に、頭を下げられた生徒たちは根も葉もないことを口にする。精神異常者、単なる変質者、女あさりの眼だった等々……。

「でもさ、あたしたちも向こうのこと、じっと見てたよね? 普通ならすぐ教室出ていかない?」

 つい口をついて出たみのりの一言が、周囲の混乱を沈めた。常識的に考えれば、こちらも十分失礼なまねをしているのだ。それを微笑さえ浮かべながら平然と受け流していると言うことは……。

「あたしたちって、気にされてないのかな……」
「でも、だったら頭下げる必要もないじゃない。そう考えるとさ……」

 みのりの一言で、周囲の反応ががらりと変わった。話すきっかけがなかったのか、それとも今はまだ自分のことで手一杯なのか。どちらにせよ、悪人という烙印から逃れたのは確かである。

「だとすると、あたしたちがじーっと見てたのが原因で何も言えなかったのかな?」
「でもさ、それでも一言ぐらいは言うじゃない。自己主張が足らないよ、彼」
「……根本的には、いい人……なのかなあ?」
「さあ……?」

 ほんの少し謎が解けてはきたが、それでも根本は謎だらけな転校生を思い出しながら、一同は首を傾げていた。


 相変わらず、弘羅は困惑していた。人が多いというのにはもう慣れたが、複数から視線を注がれるなど未経験だ。手にした仏教哲学書が、ぶるぶると震える。

(何だ? どういう落ち度があった……?)

 全身がこそばゆいような視線にさらされ、一所にじっとしていられない。みのりたちから発せられる奇異の視線は普通の男には強力な自己主張になっただろうが、彼にしてみれば何か得体の知れない魔法のような気がした。

(駄目だ、耐えられん……)

 生まれてこのかた味わったことのない奇妙な感覚に疲れ、弘羅はてきぱきと帰り支度を始めた。哲学書を鞄にしまい、立ち上がる。その際視線があった数人に対して頭を下げ、ゆっくりと教室を後にした。逃げるように教室を出ると、石膏の壁によりかかる。

(何と疲れる場所だ。人がいると言うことは、厳しいのだな……)

 壮絶な勘違いをしながら、弘羅は階段の隅に身を潜めた。疲れているとはいえ、自分の任務を忘れるほど愚かではない。少しした後、教室の扉が開く音がする。
 それと同時に、空気の質が変わった。反応した弘羅が素早く飛び出すと、今まで彼のいた場所に光が殺到する。

「……出てこい」

 弘羅の言葉に、今までのとまどいはなかった。鞄を足下に置いたその表情に、先ほどまでにじみ出ていた少年の面影はない。代わりに頭をもたげたのは、闇高野に属する戦士の顔。その表情に反応したのか、廊下の向かい側に数人の者たちが顔を見せた。白っぽいローブにターバンという、個性の感じられない一団。

「戦輪、か。ヒンドゥー教のヴィシュヌ信派だな」

 自分の前に立つ刺客をにらみつけながら、弘羅が確認するように声をかける。

「ここは、すでに平常な次元から切り取られている。明日の朝日が拝みたくば、寄り代の者から手を引け」

 目の前の刺客はそう言うと、両手にたくさん引っかけている多くの輪のうち二つを両手の人差し指で回し始めた。対する弘羅の方はと言えば、周囲の様子を気楽そうに見回して、一言。

「お前たちは、彼女をヴィシュヌとする気だろう? 俺の役目は、寄り代の者を宗教から守ることだ!」

 刃よりも鋭い意志を感じさせる弘羅の言葉は、彼ら以外誰もいない廊下に響き渡った。刺客たちが反応し、弘羅に向かって無数の輪が投げつけられる。向かい来る輪を後目に、弘羅は両手を組み合わせた。

「封じられし時の彼方より、我が元に来たれ。風化、迅(ふうけ じん)!」

 歌うような口結と同時に、旋風がまき起こった。弘羅に向かって投げつけられた戦輪が、一つ残らず風に捕まって地面に落ちる。

「何だとっ?」

 目の前の刺客(ヴィシュヌ信徒)が、驚きの声を上げる。

「日本の僧には、お前たちのような特別な武道があるわけじゃない。しかし、力を操ることにかけては一級品だ。あまり、日本の僧侶をなめてかからない方がいい」

 無表情で話す弘羅の肩には、茶色の棘のような鱗を身にまとったイタチがちょこんと座っている。大きな瞳が愛らしいが、弘羅の唱える口結から察するに普通の存在ではない。

「……式神ごときで、我らを止められるかっ!」

 目前の信徒は声を張り上げ、両手につけていた輪を全て解きはなった。様々な軌道を描いて向かい来る戦輪を、弘羅はけだるそうに眺めている。そして両手を積み合わせた瞬間、肩に乗ったイタチが空へと舞い上がった。

「……何っ!?」

 男は顔色を変えた。複雑な軌道を描いて襲いかかるはずの戦輪が、弘羅にふれる前に砕け散っている。バラバラに砕かれた戦輪の破片が小さな山を作る頃、イタチは再び実体化していた。

「馬鹿なっ! たかが式神に、これほどの力が……」
「確かに、式神にはこれほどの力はない。だが、残念なことに俺の操る化は、そんなものとはわけが違う」

 男の声に対する弘羅の答えは冷ややかだった。ゆっくりと手を動かし、目前の敵を指差す。イタチの大きな瞳が、目標をゆっくりととらえた。

「化、だと? 貴様は、まさか闇高野の……」

 驚きに満ちた男の言葉は、それ以上紡がれることはなかった。指差していた場所を、風となったイタチが突き破っていたのだ。

「……お前、知りすぎだよ。知っていると言うことは、油断できないな……」

 弘羅がそう呟くと、周囲にゆっくりと音が戻ってきていた。空間隔離をされた空間には、外からは一切干渉できない。それ故他から音が聞こえなくなるという判別法があるが、時間の流れはどちらも変わらない。ようやく普通の世界に帰ってきた弘羅の周りには、人っ子一人いなかった。

(初日からこのざまとはな。油断できん環境だ……)

 弘羅は決意を新たにすると、夕闇迫る教室をあとにした。



次に進む


書斎に戻る