第二章 無欲たる日々
楠葉みのりの朝は、一枚のトーストと共に慌しく始まる。
元々低血圧な彼女は、朝に凄まじく弱い。三個目の目覚ましでようやく目を覚ますと、そこにはいつも遅刻するかそうでないかギリギリの時刻が刻まれている。
「おはよっ!」
すぐさま着替えて洗顔を済ませ、寝癖を直しながら挨拶を交わす。構図的には男子生徒がやりそうなものだが、追い詰められれば文句は言えない。
母親の方はと言えば全く慌てる事無く、トーストに目玉焼きをはさみ、コーヒーを用意しておく。登校準備を整えた彼女が、それを掴んで一気に食べる。
「全く、いつもいつもこうじゃない。もう少し早く起きたら?」
「それが出来たら苦労はないって! じゃ、行ってきまーす!」
のんびりとした口調で言う母親に早口で返すと、みのりは慌しく家を飛び出した。
今日一日、何が起きるだろう。慌しい朝ではあるが、心の中では結構余裕だった。
悠久山慈護眼こと阿智弘羅の朝は、一杯の白粥と共に質素に始まる。
彼が目を覚ますのは午前五時。修行の日々で習慣化してしまい、目覚ましがなくとも簡単に目が覚める。
布団をたたみ、板張りの床を乾拭きで掃除。それが済むと、タイマーで炊いた米をほんの少し取り出し、据え付けられた仏壇に供える。残りの米の半分は、粥になるべく鍋にかかる寸法だ。
仏壇の準備を整え、朝の祈りを済ませる。それからしばらく、趣味にもなっている精神集中のための座禅。時間終了を告げるのは、ちゃぶ台の上に置かれたタイマーの音。
「……ふむ」
残念そうに呟き、テレビのスイッチを入れてニュースを見ながらの朝食。白粥と梅干、青菜のおひたしという内容。純和風の朝食が、そこにはあった。
食事を済ませ、昨日作っておいたおかずを弁当箱に詰める。その中には、しっかり残ったご飯が存在感を主張。中央部にはしっかり梅干が据えられている。
身支度を整え、弁当箱を鞄に詰める。仏壇に祈りを捧げてからテレビとろうそくを消し、寂しい自宅を後にした。
今日一日、何も不祥事を起こさなければいいが。落ちついてはいるものの、弘羅の心は不安が渦巻いていた。
始業式を終えて、今日が初の授業。受け取った教科書を整理しながら、弘羅は最初の授業に参加すべく教科書を開き――。
そこで、彼は石になった。やろうと思えば万葉仮名でさえ読む事を可能にした彼の目に、解読不能の文字の群れが浮かんでいる。
「えー、この文中にあるdependent onの意味は……」
教師の声など、全く耳に届いてはいなかった。彼の頭の中で、未体験の文字が踊っている。
Japan is dependent on foreign countries for most of the necessary resouces.
黒板にはそう書かれていた。しかし、これが何を意味するのか、弘羅には全く理解出来ない。
(あ、あれは一体何なのだ? 少なくとも日本語ではない。邪教の文字か? こうやって周囲の人間に呪いを振りまこうと……)
弘羅の考えは、あらぬ方向にすっ飛んで行く。内容は単なる英語の授業なのだが、外国語を全く知らない彼にとって、それは絶大なる恐怖と不信感を招いた。元々の心労もたたり、ついにストレスが限界を超える。
「先生! 悠久山君が倒れました!」
隣に座っていた生徒が、悲鳴に近い声で教師に報告する。混乱が限界を超えた弘羅は、そのまま真横に倒れたのだった。
英語を目の当たりにしたショック状態からどうにか立ち直り、気を取りなおして授業に出る。次の授業は、彼にとって一服の清涼剤になりそうだった。
(源氏物語、か。懐かしいな)
手にした古文の教科書を目にし、弘羅が僅かに微笑む。源氏物語は小さな頃に好きだった作品の一つで、原文で読んでいる。そのためか、教科書の内容にちょっとした違和感を覚えた。
(ん? 訳が違うのではないか……?)
ちょっとした疑問点を覚えた弘羅が、先生の講義を無視して教科書をめくり始める。軽く見た部分だけで、異訳がぼろぼろ出てきていた。注意深く内容を考えれば、もっと多くの異訳も出てくることだろう。
(異訳が多すぎる。全く、何を考えているのだこの訳者は……)
弘羅の内心に、ちょっとしたイライラが生まれる。忘れ物をしたと教師が出ていった際に、隣の男子生徒に肩をたたかれた。
「なあ、ここの答え分かるか?」
尋ねられた問いかけに、弘羅はちょっと内容を見て一言。
「質問の意味が違う。問題文に異訳が多すぎる」
と、思っていたことをつい口に出してしまった。それが、周囲にざわめきを引き起こす。
「も、問題文?」
「ああ。この訳者が何を思って原文からこう訳したのかは知らないが、本文と意味が違うぞ」
弘羅がいらだたしげに隣と話しているうちに、周囲の混乱はさらに高まっていた。
「本文? 俺の回答じゃなくて、問題が間違ってるのか?」
「そうだ。源氏物語の内容から考えれば、こんな異訳になってたまるか」
吐き捨てる様に言った一言が、止めを刺した。
「じゃあさ、本来の意味はどういうものなんだ、教えてくれよ」
「ああ、それは……」
隣の男子生徒から尋ねられ、答えをいいかけた弘羅に、周囲から声がかかる。
「ちょっと待てよ。本文が違うって?」
「どういうこと? 分かる様に教えてよ!」
教室中が大騒ぎになっている。一つため息をつき、弘羅が立ちあがった。人のいなくなった教壇に立ち、白墨で源氏物語と大きく書く。
「内容の前に概要から説明しよう。源氏物語は紫式部が編じた日本最初の作り物語で、最初の一文に特徴がある」
弘羅はそう言うと、『今は昔』『昔』『いづれの御時にか』と三つの文字を書いた。
「今は昔、昔と言うそれまでの文体を捨て、いずれの御時にか……。つまり一体いつの天皇の頃かは分からないとすることで、物語の信憑性を深めているんだ。それまでの物語は昔として、一体いつ、どこで起こったのか分からない様にしていた」
そう言って、昔と書いた文字に白墨を軽く打ち付ける。いつの間にやら、周囲が静かになっていた。
「竹取物語などの超常現象ものにはこういう方が都合がいいが、源氏物語は光源氏の生涯を描いたものだから、信憑性がなければ困る。そこで、場所が判明する様に……」
そこまで言ったところで、弘羅は教室の前に立っている教師に気がついた。慌てて白墨を下ろし、軽く一礼。
「出過ぎた真似をしました。どうぞ、授業を始めてください」
「……いや、続けてくれ」
教師の言葉に、弘羅は軽く首を傾げる。教師のほうはと言うと、今まで弘羅が座っていた席についていた。
これがもとで、古文の授業は弘羅が受け持つことになってしまったのは余談である。
「それで、古典の授業を占拠してしまったのか」
昼休みの屋上。弘羅と対峙していた背の高い影は、そう言って大きく笑った。よく響く済んだ声が、屋上に響き渡る。
癖の無い黒髪を肩まで伸ばし、町に出たら10人中9人は振り返るほどに作りの良い、中世的な顔立ち。彫心を包むのは、黒い皮ジャンと皮のズボン。
「申し訳ありません、凌鬼(りょうき)先輩。着いてそうそう不祥事を……」
弘羅はそう言って、落ち込んだ表情を見せる。しかし凌鬼の方はと言うと、薄く笑みを浮かべたままだった。
「一概にそうでは無いな。むしろ、それは真の姿を隠すのに一役かっている」
言われて弘羅は首をかしげる。納得のいってなさそうな彼に、凌鬼は前髪をかきあげながら、
「転校初日に周囲に与えた印象と、その行動には一貫性がある。古風と言うことだ。その印象を貫くことは、周囲を欺くのに役立つ」
と、事も無く言ってのける。その論理に、弘羅は思わずうなずいてしまった。
「真の姿を明らかにしないためには、相手に同じ印象を抱かせ続ければ良い。一度ついた印象は、おまえを守る大きな力になるはずだ」
凌鬼はそう言うと、一度指を鳴らした。周囲に集まっていた鴉たちが舞い上がり、彼を大空へと運んで行く。
「そうだ。弘羅、肉類は食っておけよ。獣肉を断つのは修行のときのみで良い。それから先は、肉類は力をつけるのに役立つ」
空に舞い上がりながら、凌鬼はそう忠告する。すでに結界をはっているのか、彼の姿を気に留める学生など一人もいない。
「分かってはいるんですが……。肉は、高いんです」
飛んでいってしまった凌鬼の背中を見つめつつ、弘羅はそう呟いた。
慌ただしい一日が終わり、学生たちが次々に下校する。友人に一言言おうと思って図書室に寄ったみのりは、そこで奇妙なものを見かけた。ある一角に、辞書やら何やらが縦積みになっている。
「あれ、一体何……?」
本を借りる生徒でそこそこにぎわう受付に待機している恭子に、みのりが思わず尋ねる。恭子の方も首を傾げながら、
「辞書は貸せないって言ったら、じゃあここでやるからっていって次々に本積み上げてるのよ。しかも、英語の本ばっかり」
そう言って、異様な雰囲気を放つ一角を見つめる。みのりがそこに目を向けると、積み上げてある本のタイトルが少し見えた。
英和辞典、和英辞典、初級英会話、優しい英文法……。
(英語関係さっぱりみたいね……)
すさまじいほどに英語の資料をそろえる相手に、みのりはちょっと興味を覚える。自然と、足が資料を積み上げている方に向いていた。
放課後になると、弘羅は頭を抱える結果となった。原因は邪教の文字と勘違いしてしまい、倒れる原因にもなった英語である。本文の一部を訳してこいと言われても、弘羅に英語の知識はない。万葉仮名でさえやすやすと翻訳する彼でも、外国の文字は全くお手上げだった。
(分からぬなら、調べるほかないな……)
宿題を忘れ、目立つような事はしたくない。そう言うわけで、弘羅は図書室へとやってきた。英語関係の資料を軽く読み、使えそうなものをまとめて右手に持つ。結構な重量があるはずだが、修行で鍛えている彼には苦にもならない。
「これを借りていきたいのだが」
図書医員の前に資料を置くと、受付に立っていた長身の女生徒はまずその量に一瞬驚いたような表情を見せ、次に中身を確認して一言。
「すいません。辞書は貸し出しできないんです」
返答に対し、弘羅は納得してしまった。確かに大多数の人間が使う辞書が貸し出されてしまえば、自分以外に使おうと思う人が迷惑する。自分の愚かしさを呪うと共に、ではどうすればいいかと考え、丁重にその場を辞した。持ってきた資料を机に置き、真新しいノートと教科書を開く。
(さて、始めるか……)
弘羅はそう勢い込むと、自分の担当部署に書かれた英文をにらみつける。英和辞典で意味を調べ、文法書で意味をつなぎ、最後に内容を考慮して完成させる。確かに訳すことには成功してはいるものの、それはすさまじく気の遠くなるような作業だった。
普通の人なら逃げ出しているであろうそれを、日頃培った超人的な忍耐力でやり続ける。一文訳すのに10分以上かかるという難航を極める作業だったが、それでも一時間経過する頃には担当箇所の半分は訳し終えていた。
(さて、もう一息……)
流石に少々疲れて首を回し、再び英文と格闘しようとした弘羅は、突如妙な気配を察知した。とりあえず気付かない振りを装いながら英文和訳を続けていると、その気配の方は自分の少し前で止まった。視線を感じ、顔を上げる。
そこには自分の保護対象、寄り代の者葛葉みのりが立っていた。
資料と格闘する男に近寄ってみると、どうやらあのどこか違う転校生悠久山慈護眼(こと阿智弘羅)であることが分かった。みのりは一瞬驚いたものの、すぐに納得がいく。
(そう言えば、この人英語の授業で倒れてたっけ……)
おおかた、授業内容が分からないのに英訳を押しつけれられて困惑しているのだろうと推測し、英文と格闘する弘羅を見つめる。今時、ここまで律儀な男というのも珍しいのだ。そうしていると、弘羅が顔を上げた。
「……何か?」
よく響く声で尋ねられ、みのりはちょっと考え込んだ。別に、何と言う用があったわけではない。
「……別に、何と言う用があったわけじゃないんだけど」
「……そうか」
静かに答える声に、関心とかその他の感情は感じられない。聞かれたから答えたような、そんな感じ。
しかし、みのりは少々驚いてもいた。あおり立てられた古文の時間は別にしても、それ以外で彼は一切喋ろうとしなかった。どことなく近寄り難い雰囲気をまとっているのも理由の一つだが、何より相手と交わろうとしないのだ。
それでいて完璧かと言えば、そうでもない。英語は不出来だし、口調も少々おかしい。無口で、何を考えてるのか分からない。そんな理由から、変な奴と決め付けられてしまうだろう。しかし、人を引きつける何かが、彼にはあった。
「……あ、ここ意味違うよ」
なんとなく気まずい沈黙を打ち破ったのはみのりだった。弘羅が訳した一文を見とがめ、声を上げる。
「本当か?」
弘羅が間髪入れずに尋ねてくる。みのりはちょっと困惑したが、気を取り直して説明した。
「ほら、ここ前置詞があるじゃない。だからこの文章の意味はそうじゃなくて……」
みのりが説明すると、弘羅はちょっと目を見開いてうなずく。どこかびっくりしたようなその表情は、いつもと違う親しみやすさにあふれていた。
「すまないな。何しろこんな文章見るのも始め……」
弘羅はそう言いかけて、慌てて口をふさぐ。しっかりと内容が聞こえていたみのりは、自分の予想が当たったのにちょっと気分を良くした。
「やっぱり、英語の授業自体やってなかったんだ」
みのりに問われ、不承不承うなずく弘羅。
「ああ。万葉仮名だったら楽なんだが……」
今度はみのりが、目を見開く番だった。
「……それじゃ、テレビも何も無かったの?」
「そうだ。この辺りの情報はほとんど入ってこない」
数分後、みのりの協力もあって何とか英語の宿題を終えた弘羅は、帰りがてらみのりと話していた。今更ながら、ここと闇広野との違いの多さに呆然としてしまう。
「そんなんじゃ、退屈じゃなかった?」
「案外そうでもない。まったく知らなければ、そんなものだと納得してしまう。人間と言うのは、適応力に優れた生き物なのだよ」
二人の話題は、弘羅が前までいたという全寮制の学校のことだった。英語を見たことが無いともらしてしまったせいで質問攻めにあったのが原因である。
「信じられないな、そんなの。この辺りにある楽しみってのが何にも無いじゃない」
英語のことから距離を詰めることが出来たのか、肩の力が抜けきった口調で話すみのりに、弘羅も肩をすくめながら、
「楽しみはあるぞ。自然が多いから山林を巡るのも良いし、書物もそこそこある」
と返した。事実、弘羅は都会よりも向こうの生活の方が性に合っている。長い間そこで生活しているからなのだろうが、それでも甲羅は便利さより風流を取る男だった。
「書物ったって、どうぜ古文なんでしょ……」
「まあな。源氏物語や南宋里見八犬伝などが、原文で保存されている」
弘羅とみのりはそんな事を話しながら、曲がり角にさしかかった。
「それじゃ、私こっちだから」
「ああ。また明日」
みのりが走っていくさまを、弘羅はしばらく見送っていた。話してみて分かったのだが、寄り代の者といっても普通の人と大差ない。
(やはり、彼女も有るように有るべきなのだろうな……)
弘羅はそんな事を考えながら、自分も帰ろうときびずを返す。
そして、はたと気がついた。
「……守護の守りを、渡しておくんだった」
後悔先に立たず、である。ほんの少し気落ちした弘羅の背筋に、冷たいものが走った。
「……来たか」
背後から迫る慣れ親しんだ気配を、横っ飛びに避けつつ右手をかざす。その右手には、金色の炎が灯っていた。
「悠久なる時の彼方より、我が元に来たれ! 炎化、轟(えんけ ごう)!」
弘羅の声とともに、金色の炎が舞う。突っ込んできた気配の一つが、炎に焼かれて地面に落ちた。次いでやってくる敵は、地面を這いずりながら迫ってくる。
「炎化退き異界に眠る。手を代わりて来たれ! 地化、震(ちけ しん)!」
両手で複雑な動作を繰り返す弘羅の前から炎が消え、代わりに右足のすぐ前から地面が裂ける。地面を這う敵がそれに気付いて跳躍すると、割れ目から飛び出した何かが影を貫いた。
「2段仕掛けとはな……。敵もさるもの……」
弘羅はそう呟きつつ、地面から飛び出した錐に刺さったものを眺めた。地面を這っていたものの正体は、黒い体の小さな蛇。
「黒い式神? まさか……」
弘羅の胸に、不安が渦巻く。相手の攻撃法に、弘羅は覚えがあった。
「……瑞鵬?」
式神の中でも扱いが難しく、なおかつ毒を持つことからも敬遠されがちの黒蛇・みづち。それをやすやすと操る男など、弘羅には彼意外に覚えが無かった。
「しかし、一体何のために?」
もはや、彼の頭からはみのりとまともに話せた嬉しさなど消えていた。思わぬ襲撃に、弘羅の戦士としての感覚は研ぎ澄まされ、戦士の顔が頭をもたげる。
「裏切りは重罪ぞ、瑞鵬……」
意外過ぎる行動ではあったものの、結局のところたどり着いた結論を信じ、弘羅は新たな思いを抱いた。
式神が蹴散らされるさまを、その男はじっと見ていた。電柱に据え付けられた、変圧器の上に立ち。
「やはり最年少で武家集に選ばれるだけはある。大した男よ……」
本来、式神は術者と感覚を共有している。故に式神の運用には細心の注意が必要なのだが、この男はそれを偵察のためだけに使ったのだ。命知らずも良いところである。
「だが、勝つのは俺だ。教えてやるよ、俺の真の実力を……」
小さな声でそう言い残し、彼は電柱から姿を消した。
次に進む
書斎に戻る