08年6月15日
DSさんより
「中津江村」で検索していたら、たまたまここのサイトに辿り着きました。 「筑紫次郎の伝説紀行」の第135話 03年12月07日版の「我がまま庄屋」のページを見てふと懐かしくなり、メールを送らせていただいた次第です。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/b-135-wagamama.shouya.htm というのも、この中西地区は私の祖父・父親の故郷なのです(私の父はここで生まれました)。そして、ページ中にある写真の左側の墓は私の家の墓なのです(現在は違いますが)。 私が子供の頃、よく親に連れられてここでお墓参りをしたり遊んでいました。 そして、この写真の所から山手の方に少し歩いた道の脇に、私の祖父や父が住んでいた家があったのです。 私が子どもの頃には既に廃屋でしたが、まだ原形を留めていたため、よく屋内を探索していました。 さて、このページに記されている「我がまま庄屋」の話なのですが、私もこれに関連した話を聞いたことがあります。 昔(江戸時代)、この地区を治めていたある庄屋がいた。 その庄屋はとても強欲で、年貢の取り立てもとても厳しいものだった。 ある年に大不作に陥り、農民たちは年貢の減免を嘆願しようと庄屋のもとに押し掛けた。 しかし、庄屋は断固として譲らず、通常通りの年貢を納めるよう突っぱねた。 もし通常通りの年貢を納めてしまえば食べるものがなくなり死活問題になってしまうので農民たちは決起し、 庄屋を追い詰めることにした。 ある日、農民たちは武器を手に取り、庄屋の家へと押し掛けた。 驚いた庄屋は、山手のほうに逃げていった。 農民たちは庄屋を追いかけ、遂に大きな岩の前で庄屋を取り囲んだ。 命の危険を感じた庄屋は減免を認めることを農民たちに言ったが、 興奮した農民たちの耳には届かず、その場で殺されてしまった。 後日、(たまたまその岩の周辺の土地を持っていた)私の先祖は殺された庄屋を不憫に思い、 手厚く葬った。 実は、以前父親に(この中西地区に連れていってもらった時に)その庄屋が殺されたとされる岩の前でこw)w)の話を聞いたんです。 父親によると、その庄屋が殺された当時、庄屋の血が岩にベットリとついていたそうです。 その話を聞いた後に岩をよくよく見ると、一部黒ずんだ部分があって、少し背筋が寒くなった覚えがあります。 内容としては「我がまま庄屋」の話と異なりますが、庄屋が欲深いことといいい殺されたことといい、何かしらの因縁を感じます。 ちなみに父は祖父から上記の話を聞いたようなので、おそらく語り継がれていたのだと思います。 もしかしたら「我がまま庄屋」の話と関連性があるのかもしれません。 しかし現在、この場所は(ダム建設の関係か何かで)もうないようです。 以前、この周辺の山の土地を祖父が持っていたのですが、(ダム関係で)売却したと聞きました。 祖父は、この地区はダムの底になると言っていました。 冒頭にも書きましたが、このページを見て(ここで私が生まれた訳ではないのですが)ノスタルジーを感じました。 大変興味深い資料をUPしていただき、本当にありがとうございました。 |