No.016
2024年09月15日
望東尼(博多人形)
野村望東尼とは、どんな人物? 1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後仏門に入る。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典より) |
友人からの姫島レポート
当時の面影残る浜崎家並み |
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松原を突き抜ける唐津街道 |
松原から望む唐津湾 |
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浜崎の港は、いま海水浴場 |
野村望東尼を孤島・姫島の牢獄から救出する際、基地としたのが港町浜崎である。 高杉晋作に指示を受けて、福岡・長州・長州藩士らが浜崎領地内の旅籠に集結した。 ここは江戸時代まで浜崎浦の港町で、大坂、江戸、長崎への年貢米を積み出す重要なところであった。文政年間(1818~30)には、酒屋・質屋・糀屋・紺屋・油屋・醬油屋・鍛冶屋などと並んで船問屋も2軒存在したという。港町と言うより、商業の町として賑わったようだ。 救出の実行部隊は、対馬藩士の協力を得て帆船と船頭を手配し、虹ノ松原の彼方に見える姫島に向かったのである。 筆者が浜崎に行った日(2024年5月24日)はあいにく、梅雨前特有の曇り空で松原から姫島を眺めることは出来なかった。救出隊が出帆したであろう浜辺から唐津街道を跨いでJR駅に向かう途中、連なる二階建ての商家や大きな屋敷と路地を広げたくらいの道路は当時の「領地}を連想させるに十分だ。しかし、「領地」を証明するものは見当たらなかった。防府や田代のように何度も通わないと、昔の浜崎には出会えないのかも知れない。 でも、虹の松原から眺める唐津湾は、望東尼や高杉晋作が活躍した時代と何ら変わることのない静けさを保っていた。 |