No.014
2023年10月22日


望東尼(博多人形)

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典より)
参考資料
野村望東尼 谷川佳枝子著 花乱社刊
福岡県の歴史 (県史) 山川出版発行
幕末史 半藤一利著 新潮社版
下関観光ガイド 下関市観光政策課発行
ほか

島抜けして長州へ


望東尼下関上陸

 白石正一郎邸

 望東尼の足跡を追って、下関市内の史跡を尋ねた。望東尼の足跡は、高杉晋作の晩年と重なるからである。まず赴いたのは、下関駅近くに残る白石正一郎氏の邸宅跡である。

 長州藩士らは、高杉晋作の指示で望東尼の島抜けを決行した。三反帆に乗り込み、荒れ狂う玄界灘を突き進んで、下関の荷受け問屋白石正一郎邸の裏門に着岸する。命からがらの脱出行であった。
 下関駅西口を出て国道191号を北へ進むと、間もなく路傍に石碑が建っている。隣のビルは下関リハビリテーション病院」である。ここが、脱出してきた望東尼を迎え入れた白石正一郎邸跡である。石碑から見渡しても、白石邸裏門に着岸できる海などはない。国道を渡って進むと、かすかに潮の匂いを嗅ぐことができた。その距離200㍍ほど。そんなことを案内所の方に言ったら、「140年前のことですよ。埋め立てが進んで、とっくに海は向こうに遠ざかりました」と笑われた。
 白石正一郎とは…。高杉晋作は、文久3(1863)年、白石正一郎の後ろ盾を得て、同士とともに、この場所で奇兵隊を結成している。高杉は、福岡藩を脱藩した志士らに望東尼の姫島からの脱獄も指示した。高杉が頭を下げて、尼の宿泊を依頼したのも、白石正一郎氏だったのだ。
 近辺のビル群と幅広い国道を眺めただけでは、とても実感が湧かないが、歴史上の重要拠点であることに変わりはない。


望東尼が上陸した小瀬戸の岸壁(現漁港)

白石正一郎邸跡と当時の白石邸

白石邸跡地のビル



高杉晋作終焉の地

高杉東行(晋作)終焉の地

高杉晋作療養の地

奇兵隊を祀る櫻山招魂地場(桜山神社)

戦利品として持ち帰った小倉城の大太鼓(厳島神社)

高杉の愛人・うの
 高杉晋作は、慶応2(1866)年、幕府との戦いを指揮している途中に結核の症状を悪化させたため帰郷した。その後、白石邸から桜山の東行庵へ、更に新地の林算九郎邸(終焉の地)に引っ越した。桜山近くの東行庵では、望東尼と愛人うのとともに手厚い看病を受けた。甲斐なくして、慶応3年4月14日、27才の若さで亡くなった。
 高杉が臨終間近の床で上の句を詠み、望東尼が下の句を続けた。

上の句 面白きこともなき世におもしろく
下の句 すみなすものは心なりけり

「面白いことのないこの世にあって、面白く生きていくにはどうしたらよいものか」と高杉が問えば、望東尼は、「周囲がどうあるかは別にして、あなたがどう思うかが肝心」だと応えたのだ。

 高杉終焉の地から北を望むと、厳島神社が見える。神社には途方もなく大きな太鼓がぶら下がっていた。この太鼓、高杉が指揮して幕府と戦った戦争で、小倉城から戦利品として持ち帰ったものだそうな。
 その厳島神社から細道を北に進んだところに、「高杉晋作療養の地」の石碑が建っていた。周囲には、閑静な住宅地が並んでいる。この地で、望東尼は高杉の愛人であるうのと二人で献身的に看病したとのこと。

 望東尼が、母子ほどに年の違う高杉を、これほどまでに慕ったのはなぜだろう。彼女の足跡を追うボクにも未だにわからない。

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