No.013
2023年10月15日


望東尼(博多人形)

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典より)
参考資料
野村望東尼 谷川佳枝子著 花乱社刊
福岡県の歴史 (県史) 山川出版発行
幕末史 半藤一利著 新潮社版
ほか

明治維新に関わった

対馬藩代官所跡

 10月初めの金曜日。鳥栖市田代の対馬藩(長崎県)飛び地である代官所跡を訪ねた。江戸末期、家老職にあった平田大江は、代官として九州田代にやってきた。平田が勤王攘夷思想であったため、赴任後討幕運動に走る長州藩などと深い関わりを持つことに。
 平田が交流した主な人物をあげるだけでもすごい。桂小五郎・高杉晋作・西郷隆盛・月形洗蔵(福岡藩)など。彼らは、田代を拠点にして、福岡、佐賀、京都や大坂、長州などを行き来して活動を展開し、後の討幕へと発展するのである。
 野村望東尼が平尾山荘に匿った長州藩士の高杉晋作は、平田大江を頼りに、佐賀藩主など九州の指導者を味方に加えるべく、この地を訪ねている。思うように行かなくなって、平尾山荘に望東尼を尋ねた。
 福岡藩士の中村円太が投獄された折、平尾山荘を拠点に活動していた弟の中村恒次郎と同士の小藤四郎が、円太の脱走を助けた。彼ら3人が逃げ込んだ先が田代代官所だったというわけ。彼らはそこで偶然、長州藩の小田村と名乗る武士(後に望東尼と深い関わりを持つ楫取素彦)から、長州に逃げるよう誘われ、長崎から商船に乗って山口の三田尻に上陸した。更に小藤らは、玄界灘に浮かぶ姫島に投獄されている望東尼を救い出す。その救出作戦の拠点としたのが、同じく平田大江の息のかかる対馬藩飛び地の浜崎湊(現唐津市)であった。
 代官所跡から街道を東に進むとすぐに、貫禄十分の八坂神社が祀ってある。そこには、一時長州藩から避難していた高杉晋作の活躍や、彼の残した漢詩の石碑が置かれていた。
 長崎街道の田代宿に面した代官所は、現在もその雰囲気を漂わせている。ご近所の皆さんに話しかけると、街道宿のことはよくご存じだが、対馬藩飛び地については、私と一緒に語り合いながら石碑を探してくれた。恵比寿像が抱いているのが、なぜか鯛ではなく鯉であることについても、詳しく教えてくれた。


田代代官所跡を示す石碑

田代小学校入り口

小学校内

鯉を抱くえびす像

長崎街道田代宿の追分石

長崎街道田代宿図

宿場と対馬藩飛び地の中心・八坂神社

高杉晋作漢詩について

 長州藩士高杉晋作が、自藩内俗論派(保守派)からの攻撃を避けて九州田代の対馬藩(飛び地)に代官平田大江を頼った。田代を起点にして、九州の諸大名に働きかけるためである。
高杉の歌は、

  動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し

である。長崎街道田代宿の八坂神社には、歌碑について次のような説明文を添えている。(要約)

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」後年伊藤博文が評した幕末の長州藩士高杉晋作がこの田代の地に残した足跡を示すものです。
 対馬藩の勤王派の代表格である平田大江が、奥役(代官)に就いていた頃の田代は、勤王派の志士たちにとっては策謀地や避暑地としての役割を果たしており、数多くの志士たちが出入りしていました。
 元治元年(1864)7月の蛤御門の変により朝敵となった長州藩は、四カ国連合艦隊の下関攻撃でも痛手を負い、やがて幕府の征長軍に屈服します。藩内では、幕府に恭順する保守派による尊皇攘夷派への弾圧が始まり、高杉ら数名の志士たちは逃れるようにして九州に渡ります。彼らは福岡藩や佐賀藩との連携を図って幕府に対抗することを画策していたようです。
 この漢詩は、こうした背景のもと、同年11月6日に田代を訪れていた高杉が、佐賀の前藩主鍋島閑叟に宛てて書き、近く佐賀に説得に行く予定となっていた平田に託したものと考えられます。閑叟にに現状を打破してもらいたいとの、晋作の強いメッセージでしたが、佐賀藩は情勢静観の姿勢を崩さず、同9日に佐賀に入った平田は門前払いをされたため、この漢詩が閑叟の目に触れることはなかったようです。
 この後しばらくの間、晋作は福岡平尾の野村望東尼のもとに潜伏していましたが、やがて九州諸藩に頼るべきものはいないと悟り、同月25日には長州に戻って行動を開始します。翌12月15日に決起(下関挙兵)、藩内戦に勝利して藩論を武備恭順(長州藩の主張が認められなければ朝廷・幕府と戦う)に統一させ、幕府の長州再征(四境戦争)に挑むのです。
 自作の詩歌の草稿を残した晋作ですが、こうした足跡をたどると、この詩は自らを鼓舞させるとともに、その決意を示したものとも言えます。
 なお、福岡藩や対馬藩ではこの後に勤王派の大弾圧が行われ、平田も慶応元年に藩命で殺害されました。前途有望な人材を自ら枯渇させた福岡藩や対馬藩は、時勢に大きく乗り遅れることになりました。
鳥栖市明治維新150年記念事業実行委員会
平成30年10月21日

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