No.012
2023年09月24日


望東尼(博多人形)

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典より)

志士らの拠点

 野村望東尼の生涯を調べていくうちに、福岡における「明治維新」が見えてくる。長州の高杉晋作や土佐の坂本龍馬など元気の良い志士らが、世の中を変革すべく命を張っていた時代。福岡藩の武士たちも例外ではなかった。
 わずか150年前の我が郷土福岡市のことである。維新時の志士らの中に浮かび上がった人物が、間もなく老境に入る野村望東尼であった。今回は、彼女の生まれた赤坂3丁目付近を歩いてみた。自分の住処近くなのに、バス通りから一歩中に入ると、信じられないくらいに静かな住宅街である。幕末その場所に、300m余りのまっすぐに伸びた追い回し馬場があった。馬場の東側には「御馬屋」と「御馬医」が。弓の射場や鷹の訓練場など様々な武士の仕事場が連なっている。戦闘員たる武士の屋敷は、それらの馬や鷹などとその訓練場に付属する形で設けられていたのだ。
浦野もと(望東尼の幼名)は、そんな汗まみれの武闘集団が住むど真ん中の御馬屋で生まれ育ったわけである。郷土歴史を大切にする方々の努力で、「野村望東尼生誕の地」の石碑と説明文(電柱)に掲げられている。
静かな街を東に進むと、すぐに「月形洗蔵」の居住跡が見えてくる。月形は、三条実美ら五卿を太宰府に迎え入れるために活動した福岡藩士であった。その後も、平尾山荘に通い、望東尼や志士らと語らいながら攘夷運動の先頭に立っていた。
赤坂三丁目には、6400㎡もの広大な赤坂緑地が広がっている。そしてその先には、高校女子駅伝競走ですっかり有名になった筑紫学園が城郭の如く聳え立っていた。


福岡城址
下方中央:現護国神社
下方右手:赤坂3丁目

追廻門(南口)から護国神社方面
左手ビルの向こう側に望東尼生誕地

望東尼生誕地
(赤坂3丁目)

追廻門(城南口)下方に:生誕地

月形洗蔵旧居

家老加藤司書旧居

加藤司書近所に筑紫学園(赤坂2丁目)

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