No.011
2023年05月21日
2023年11月12日


望東尼(博多人形)

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年を生きた人。 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典)
福岡・平尾山荘で隠棲時代、尊皇攘夷に燃える志士らと交流を深めたことが福岡藩主の逆鱗に触れ、孤島・姫島に流される。長州藩士高杉晋作らに救出されて、馬関(下関)に逃れ、湯田から三田尻へと歩いた後、この地で亡くなる。

野辺の送り

 話は第8話の「望東尼のもう一つの墓所(生前墓)」と前後する。彼女が62才(数え年)でこの世を去った頃のこと。
 念願の大政奉還(慶応3年10月)から一月遅れの11月1日。病が彼女に「その時)を知らせていたのか、歌人仲間の荒瀬百合子の屋敷で、静かに別れを告げたのであった。
葬儀は、荒瀬家の近くの正福寺で執り行われた。費用はすべて長州藩主・毛利家の負担であった。導師は、正福寺住職が努めた。
正福寺の正面を走る大きな道路は「萩往還」(現国道262号)。日本海側の萩城から瀬戸内海側の三田尻港を結ぶ、重要な幹線道路である。全長は53キロ。江戸時代の庶民にとって山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な交通路であり、幕末には、維新の志士たちが往来し、歴史の上で重要な役割を果たした。
山口に滞在していた望東尼は、倒幕戦争に向かう長州藩士を見送るべく、単身山坂越えて防府天満宮に駆けつけたのである。
 
 私が望東尼終焉の地防府を訪ねたのは、春浅い3月28日であった。葬儀が執り行われた正福寺から正面の萩往還に出て、辺りを見回した。望東尼が眠る桑山は目の前である。往時を偲ぶ武家屋敷の面影が、幕末に激しく往来したであろう長州藩士や福岡藩士らの人影が、瞬く間に目の前を通り過ぎていったような錯覚にとらわれた。薩摩藩士の武士たちが上陸して長州側と合流することになる三田尻港は、すぐそこである。(2023年5月23日)
 
正福寺山門


再び終焉の地訪ねる
山口県防府市
2023年11月08日再訪問

 半年ぶりに防府市を訪ねた。防府天満宮から大楽寺へ、更に歩を進めて三田尻港へと。野村望東尼の足跡をたどる旅もそろそろ大詰めに近づいてきたかな。
まずは、ゆかりの防府天満宮さんにご挨拶しなければ。丁度菊花展と七五三参りが重なっていて、結構賑わっていました。大枚?お賽銭を投げ入れて、本殿の裏手に回ると、望東尼さん (銅像)が、「待っていたよ」と微笑み返してくれました。そばには、高杉晋作と望東尼が上句-下句に別れて巨石に刻まれていましたよ。
 次に向かったのは、山陽本線を潜って桑山の大楽寺。望東尼の最期を看病とお見送りまで仕切ってくれた元長州藩士の楫取素彦と美和子夫人の墓にお参りしました。途中同じ墓所には、あの有名な美人女優・故夏目雅子の墓にも巡り会ったので、生前楽しませてくれたお礼を申し上げました。
 夏目雅子さんにお別れするとすぐに、望東尼が最期に過ごした家です。港近くの歌人仲間の家の離れで亡くなったそうですが、その部分だけを移築したのだそうです。
(2023年11月8日)

早瀬百合子宅から移築された「離れ」と間取り


終焉の地を示す碑




早瀬百合子旧宅



楫取素彦夫妻が眠る(大楽寺)


楫取夫妻の像(防府天満宮)




故夏目雅子の墓誌(大楽寺)



野村望東尼墓碑



防府天満宮境内の望東尼像
 


萩往還の終着・三田尻港



幕末、長州軍が山口から三田尻港(防府市)に終結。途中難所の勝坂峠

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