No.001
2023年2月5日

野村望東尼とは、どんな人物?
1806年~67年 幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士の妻。夫の死後尼となる。本名はもと子。大隈言道に和歌を学ぶ。高杉晋作・平野国臣ら志士の活動を援助した。歌集「向陵集」。 (教研出版刊 日本史辞典)


望東尼(博多人形)

 知られているようで、意外と話題にあがらない。そんな歴史上の人物が、この福岡にもたくさんいらっしゃいます。そのお一人が、幕末に勤王の志士らを支援し続けたあとに不幸の死を遂げた尼僧・野村望東です。その人物像の魅力を少しばかり深追いをしてみたいと思います。
 本編は、そのうち追々書き始めるとして、彼女(望東尼)の生誕から没後までを、関係した場所を追いかけてみます。体力と気力が続きます限り・・・ 

生誕の地

 まずお訪ねしたのは、野村望東尼の生まれた場所です。彼女の幼名は浦野モト。現在の福岡市中央区赤坂3丁目です。福岡(黒田)藩の藩士であった浦野重右衛門勝幸と妻ミチの間に生まれた女の子が望東尼です。武士の娘らしく、厳しい躾や学問を身につけさせようと、両親は奮闘したらしい。
 福岡城の隣に位置する護国神社の、バス通りを挟んで向こう側の住宅地に、望東尼が産声を上げた場所があります。今でこそ高級マンションや生け垣に囲まれた住宅が居並ぶ住宅街ですが、モトが生まれた頃は、中級武士と家族が暮らす普通の町並みだったと推測できます。
 時代が江戸時代も後半に入った頃から17才で最初に結婚するまで、この場所で過ごしたといいます。周辺の小さな山坂は、お転婆娘のモトにとっては格好の遊び場であったに違いありません。そんな厳しいながらも自由に動き回った体験が、やがて難しい大人の世界を走り回る女性として糧になるのです。
 二度の結婚と歌人を形作る学問、そして尊皇思想への飛躍と悲劇。そんな常人離れした人生は、すべてこの赤坂の地から始まるのである。
生誕の地を示す石碑は、辛抱強く、その後の博多の後輩たちを見守っています。(次回は、野村新三郎との暮らしの場所・平尾山荘)

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