【2014年12月07日】

 

第2回民俗学講座(講演要旨)

主催:小郡市教育委員会文化財調査センター主催(担当:有田雄一)

日時:2014125日(金曜)  午後3時〜5

6日(土曜)午前930分〜12

場所:古代体験館おごおり・研修室

演題:筑後地方の魅力と伝承

講師:古賀 勝(元RKB毎日放送久留米支社長)

定員:60

参加費:無料

 

あいさつ

私は、民放のRKB毎日放送に勤めていて、16年前に定年退職したものです。昭和13年生まれの76歳です。学者のように、民俗学を系統的に・学問的に解明することはできません。また、噺家のように、皆さまの前で上手に話すこともできません。

職業柄でしょうか、雑学を含めていろいろなことに興味を持ち、経験を話すことでお役にたてればと存じます。

取材・調査でわかった筑後平野の価値

私が「筑後」を語るとき、まずは筑後川を想定します。陰に陽に筑後川の恩恵を受けながら暮らしを立ててきたからでしょうか。

「筑後川流域」とは、降った雨が最終的に筑後川に流れ込む面積のことをいいます。広辞苑には、「ある河川の四囲にある分水界によって囲まれた区域」とあります。

国が定めた筑後川幹川の延長は143キロです。更に流路延長(水が流れる道)となると、その10倍の1400キロにもなるそうです。

流域に人が暮らす面積は2,860キロu。人口は1,064,000人(少し古い資料)です。

100万人が暮らしていくには、十分過ぎる環境が「筑後地区」ではないでしょうか。

開拓と水利の歴史

伝承文化の取材で得たもの

「あなたのふるさとは」と訊かれれば、私は迷わず筑後川流域だと答えます。「少し広すぎないか?」とクレームがきそうですが、その方が都合がよいからです。

24年間の東京勤務時代、福岡に戻ったら成し遂げたかったことが、筑後川の源流から河口までをこの目で確かめることでした。たまたま定年を7年後に控えた頃、勤務先が久留米に移ったことで夢は実現しました。

筑後川をテーマにしたラジオ番組を企画して、流域を巡る機会ができたのです。

川を遡って行って源流を捜しますが、なかなか見つかりません。更に山中に分け入ったこともありました。

源流域での狭い段々畑を見るにつけ、むかしの人が急峻の山をぼちぼち拓いて、石組みしていくシーンが目の前に躍り出てきます。田畑をつくっても水がなければどうにもなりません。そこで、高いところから水をひいてきて田んぼに注ぎます。

彼らにとっては、生きるための大自然との共生であったり、戦いであったりの一生だったと思います。だからでしょうか、現地の皆さんは、畦道に花を植えたり、水道脇に神さまを祭ったりして、大自然に対する感謝を忘れません。それが道行くものには楽しくて仕方がないのです。

源流域である九重や阿蘇から下りてくると、川の流れが極端に遅くなります。そこは日田盆地。四方から流れ出た水が三隈川に集まってきて、川幅は一気に広がります。日田盆地で暮らす人々は、豊富な水と取り巻く山がもたらす森林資源を有効に活用してきました。彼らが伐採した木材は、筏を組んで川下の大川家具工場まで運び、貴重な工芸品となって、私たちの生活の中に根付かせてくれました。

夜明ダムから急流を下りると、そこには関東平野や石狩平野と並び称される広大な穀倉地帯が待っていました。私らが住む筑紫平野です。

大河を挟んで北は筑前と肥前、南が筑後ということになります。穀倉地帯を形成するためには、豊富な水が不可欠です。大川に堰を築いて、人工の水道に流し込みます。更に流水を水車で田んぼに汲み上げます。このシステムは、先人たちの知恵と苦労なくしては語れないことです。

筑紫平野の田園に立って、初めて南方の矢部川を意識します。

矢部川や星野川に築かれた堰から筑後平野を縦断して流れる花宗川と山ノ井川。2つの人工河川から、水は雲の巣のように張り巡らされた無数のクリークに吸い込まれていきます。

江戸時代前期に構築された袋野堰・大石堰・山田堰・恵利堰、それに宝満川の中流に築かれた稲吉ダムから取り入れられた水も、広大な田畑を潤しています。

もし、このようなシステムがなかったなら、筑後平野は雑草と雑竹・雑木だけの、何の生産性をも有しない痩せた平原でしかなかったはずです。

筑後平野を更に下った河口には、田畑を広げるために海を埋め立てた跡が生々しく残っています。柳川から大牟田あたりまで、そのことを実証する道路や土塁などを沢山見かけます。400年も前の公共工事とはとても思えません。西鉄電車の塩塚駅から中島駅までの間に「開」という字のつく地名の何と多いことか。

有明海では、山から運ばれてきた栄養たっぷりの水を飲んで魚介類が育ちます。そのお裾分けをいただきながら、私たちは珍魚や美味しい海苔にありつけるのです。

筑後地方におけるこれらの水利システムは、ほとんどが、関ヶ原戦争後の江戸時代ですから、まだ400年くらいの歴史しか持っていません。

 

源流域の伝説

お話(伝説)を筑後川の源流から下流へ、順を追ってその地域で特徴的なお話を並べていくことにします。

まずは阿蘇外輪山から。そこは、国が認定する筑後川の出発点です。今人気の黒川温泉のすぐ上流の瀬の本高原あたりです。

小国郷には、人々が心のよりどころとして崇める両神社があります。

鬱そうと茂る森の中に、高橋・火の宮の兄弟神が祭られています。2人の神は阿蘇神の息子です。この地方に土(農業)と火(火山)をもたらせた神さまです。最初は高橋の宮だけを祭っていたそうですが、あちこちの田んぼから火が噴き出して「地獄田」と化していたので、火の宮も一緒に祀ったところ、地獄は収まって今日のように豊かな畑になったということです。今でも小国郷の人は、火山灰に覆い尽くされた痩せた土地が、穀物や野菜を栽培できるようになったのは両神のお陰だと信じています。だからでしょうか、小国郷にはなんと「田」のつく漢字名の地名の多いこと。柏田、片田、土田、矢津田、上田、尻江田、弓田、田代、小原田・・・。

南小国の万願寺温泉周辺には、姑にいじめられた嫁が家出をして、阿蘇の神に仕えたという話があります。何年か経過して、村人が出合った嫁は、完全に野生化した姿でした。おトラの神隠しがそれです。おトラは、神の指図で阿蘇外輪山の自然を守りながら、密かに我が子の成長を見守っていたというお話です。

二つの話で共通するのは、小国郷の人々の阿蘇神に対する信仰の深いこと。ここは、硫黄の臭いがきつい筑後川の神聖な源流域なのです。

筑後川にとってもう一方の源流は九重連山です。その麓の飯田高原に長者原があります。朝日長者の伝説が地名のもとになっています。裏千町・表千町の田畑を有し数千人の働き手を有する朝日長者は、奢り高ぶって、神から授かった鏡餅を的に仕立てて矢を放ちます。すると、それまでの田畑が一夜にして荒れ地に変わったというお話です。

明治時代になって、久留米藩士の青木牛之助率いる筑後の農民が、その千町無田開拓に挑みました。(自著:大河を遡る参照)

麓域の伝説

飯田高原から玖珠川を下りてくると、奇妙な形をした山に出合います。伐株山です。

この山、実は大むかし楠の大木だったという話。このような形をした山のことを学術用語では「メサ」といい、「卓上の台地」を意味するそうです。楠の木に例えると、幹回りは南北に1キロ、枝は半径3キロに広がります。お化け楠に、長崎島原の人からは朝日が拝めず、四国松山からは昼過ぎに暗闇になると言って苦情がきます。そこで、身長が300メートルもある大男が伐採に挑戦するのですが・・・。

この地方では外にも、玖珠の山姥為朝の巨石など途方もないでっかい話がたくさんあります。

山姥は、旅人を捕まえては食べてしまう山中の婆さんの話ですが、山道を通る旅人には想像もできない恐怖を与えたものです。

頼朝・義経の叔父にあたる源為朝が、大岩扇山から1500メートル離れた広末神社に棲むイノシシめがけて放った矢じりの後が今も残っていると言うお話。「童話の里」を自認するだけあって、玖珠町の方は、話をでっかくして秋の夜長を過ごしたのかもしれないですね。

玖珠川を下って日田盆地に出ます。

そこでは、カッパ族が横行します。中でも、大行司地区に伝わるカッパ踊りは有名です。大むかし、巡回中の八幡さまが乗った馬に、大勢のカッパがたかりました。こちらも神馬ですから、妖怪ごときに負けるわけにはいきません。後ろ足でひと蹴りすると、カッパはたまらず陸上に放り出されました。カッパの頭の皿が乾きだして絶命寸前。情け深い八幡さまが助けてやると、カッパどもはお礼にと、何とも奇妙な手つきで踊り始めました。これが、今日まで地元に伝わるカッパ踊りです。

盆地周辺では、行脚中の有名なお坊さまによく出会います。特に多いのは、平安時代の弘法大師(空海)です。
和尚は「魔法使いのお坊さん」として登場し、貧乏だが人に親切な人には病気を治してあげたり、日照りで困っている人のために呪文を唱えて清水を湧かせたりしました。

長者の人面石は、旧大山役場近くの川岸に保存されている岩のことです。その岩には、長者の顔面がそのまま写されていました。一夜の宿を願い出たお坊さまを、暴力で追い払った長者のなれの果てが岩に刻まれた人面だと言うのです。大師さまは、お恵みするだけではなく、意地の悪いものを懲らしめることをも忘れなかったようです。

平野部の伝説

日田盆地から大肥川を遡って東峰村に移動します。合併前の宝珠山村のことです。ここでは、天領の日田と筑前の境目争いが絶えませんでした。筑前側の合楽に住む与三という男が、小鹿田(おんだ)との境目に木炭を埋めて、これが境目だと言い張り代官さまをも納得させ話です。今日でも、よそえもんという題で伝えられています。そう言えば、このあたりむかしから木炭の生産が盛んだったとか。

戦国時代からの言い伝えで、小石原にはだんご柳の話が残っています。彦山を襲った大友宗麟の軍から逃れてきた修験僧らが、ある有名なお坊さんが、枯れ木に花を咲かせたという故事に習って、茶店の婆さんに頂いただんごを土に刺したところ、鈴なりのだんごを付けた芽が出ました。それを合図に、坊さんらが逆襲に出て、修験の山を奪い返すというお話です。役場の裏手には、現在も無数のだんごを付けた柳が枝を張っています。

夜明ダムを経て筑後平野に下りてくると、にわかに農業や漁業など産業との関わりの深いお話が多くなります。

用水を確保するための人柱伝説もその一つです。四大遺跡の一つ袋野堰では、大庄屋の夢があり、自身が人柱となってトンネル作りに挑む大庄屋親子が描かれています。大石堰では、五人庄屋が磔覚悟で水道を完成させ、今日でもその時造られた水道が活躍しています。

床島水道には、おさよの人柱が。筑紫山地から下りてくる中小河川が、大刀洗あたりに集中しますから、農民はいつも大水に悩まされていました。流れを変える努力も役に立たず、困っている農民におさよが人柱になることを申し出ます。哀しい話です。現在の恵利」堰が出来る以前の話です。横縞の肩当てを嫌う風習が今も残っていました。

久留米周辺のカッパは、水天宮に関係するものが多くあります。壇ノ浦で滅びた平家をお祭りする水天宮は、平清盛までもがカッパに変身して登場します。筑後川の支流巨瀬川に居住する九十瀬入道(こせにゅうどう)が、尼御前カッパと逢引するくだりは壮絶です。尼御前とは、清盛夫人の時子のことです。

下流域の伝承文化

平家物語は、壇ノ浦からほど近い筑後の地では同情も重なって、落人のその後を追う言い伝えが数多くあります。

山川町の七霊の滝は、源氏の追っ手との最後の戦いの場として伝わっています。九州に上陸した平家の一行は、要川(山川町)で、追いかけてきた源氏との決戦に挑みます。戦の行方を遠くから見つめる女房衆は、再興の望みも断たれて、全員滝つぼに身を投げました。そして彼女らは身をナマズに替えて現在もなお生き続けていると伝えられています。そのせいで、周辺の人は未だにナマズを口にしないそうです。

筑後川も終点近く。柳川の沖ノ端漁港は、今日も有明海特有の魚が水揚げされて賑わっています。この漁港、ろっきゅうさん(平家落人6人)によって開発されたいわれます。

最後に、小郡市の中央を流れる宝満川周辺の話をします。

小郡周辺では、南北朝時代の筑後川の戦い(別名大原合戦)を抜きにはできません。大刀洗の起源として紹介しています。菊池武光を総大将とする南朝方と、小弐を頭に仰ぐ北朝方の戦いは、筑後川北岸を舞台に壮絶さを極めました。小郡市役所前には「大原古戦場跡」の石碑が建っています。久留米には五万騎塚があります。

今も残る大刀洗公園の武光が乗る馬の傷跡が痛ましいです。そして、戦争で犠牲になるのは、何時でも弱い立場の者ばかりだということを戦争は教えているのです。 

味坂にある名馬池月の塚について。

このお話も、赤穂浪士や曽我兄弟・菅原道真・源為朝・徐福などと同様、北は東北の遠野から南は鯵坂まで、全国各地に伝えられています。行脚中の坊さんか、旅役者・近江商人・薬売りなどがもたらせた地方の話を、有名人願望の聞き手が自分の村の話として定着させたものではないかと推測します。

「池月」は、源頼朝が家臣の佐々木高綱に下げ渡した名馬と言われます。その池月が、どうして鯵坂の地に舞い降りたのか、考えるだけでも愉快です。

ふるさとに残る伝承文化(伝説)を、ぜひ筑紫次郎の世界でお楽しみください。そして、噛み砕いて、お孫さんに聞かせてあげてください。

ふるさと遺産を伝承する意義

後世に残したい無形の文化遺産を、どんな方法で伝えていくか、むかしの人は苦労したと思います。文字や映像技術が発達した今日では、いとも簡単なことですが。

過去においても、木簡や仏像、絵画や文学など様ざまな方法で、先人たちが現代人に伝えてきました。

でも、それは一部の特権階級(天皇・公家・武士・僧侶など)にのみ許された文字文化を有するものが成し得た継承の形態です。

彼ら以外の、例えば文字も知らない普通の農民や商人・職人などが無形の財産を残そうとすれば、口頭で「よかか、忘れるなよ」と言い含めるしかありません。そのような口承による伝達では、何人かの口と頭を経由していくうちに、原形とは似ても似つかぬものに様変わりしても不思議ではありません。

その他にも伝承手段がいくつかあります。その内の一つが「○○家据置記」的な文章です。

私たちは、以上のような伝承文化を、嘘ごととして片付けるのではなく、その中に含まれる真実や「暮らしの役に立つもの」を選り分けて、中身の濃い形で後世に語り継いでいく必要があります。

 

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