講演原稿

エールピアふるさとの歴史入門講座
商都の礎を築いた人物像
講演原稿

08年05月18日  エールピア久留米
受講者数:約70名

江戸(城下町)から明治(商業都市)へ
2人の才女と4人のサムライ

挨拶

自己紹介
私は、サラリーマンを定年退職後、ホームページ「筑紫次郎の世界」を開設して、ふるさとを共有する皆様との交流を生き甲斐にしているものです。
ホームページの中心をなすのは、筑後川流域に伝わる伝説の地(物)を訪ねて物語を紹介し、現地をりポートする「伝説紀行」であります。民話発掘の一環としてふるさと久留米のことを勉強しているうちに、井上伝や小川トクなど久留米における歴史上の人物に興味を抱くようになりました。
ご紹介いただいた私の肩書き「民話収集家」とは、そんなところから、勝手につけたものです。
また、本日のテーマでもある久留米の商業史を勉強するのも、ふるさとの歴史をもっと深くとの思いからです。
講演演題について
本日仰せつかったテーマは、「商都久留米の(いしずえ)を築いた人物」です。
久留米の商業史を語る時、どうしても欠かせない江戸時代の商人と言えば、久留米藩御用達の手津屋と井上伝、それに本村庄兵衛でしょう。長い徳川の世ですから、優れた商人が星の数ほどいたはずです。でも、今日に直結する商業史の端緒ということであれば、どうしても、久留米絣に纏わる人物を脇に置くわけにはいかないのです。そのかすり産業の中心にいたのが伝女であり本村庄兵衛なのです。
2人の活躍から遅れること江戸末期には、「久留米の絣王」と(うた)われた国武喜次郎が華やかに登場します。
更に明治維新直後には、久留米の織物に他国(他藩)の技術とセンスを持ち込んだ小川トク女史が続きます。
潟ーンスター(前月星化成)の倉田雲平や潟Aサヒコーポレーション(元に本ゴム)やブリヂストンタイヤの石橋徳次郎など、現在も発展を続けている大企業の創業者が大きく羽ばたいたのも、上記4人の時代と重なります。
城下町が一夜にして商業都市に変貌を遂げた久留米。その久留米は、中心街のシャッター通りを見るにつけ、いま次への方向を見失っているような気がしてなりません。中国要人がよく口にする、「歴史を鏡として」、商業都市久留米の変遷を見直すことも無駄ではないような気がします。
拙い話しですが、以上の人物を中心に、時代背景を加味しながら述べてまいります。

幕末期の久留米

手本は手津屋の正助どん

久留米商人の原型は、林田(手津屋)正助だといわれます。幼少にして長崎で商売の見習い奉公を勤め、帰国して「手津屋」を名乗って商売に打って出ます。
幼くして村々へ油桶を担いで行商をし、15歳のときには、卵750個(50`)を担って小倉まで出かけたといいます。小倉へは八丁峠(秋月−嘉麻市)を越えて行ったそうですが、同業者が急坂を嘆くとき、彼は「もっと険しかったらいいのに」と答えたそうです。
また、商人になるためには幼くして見習い奉公に出るべしとも言っています。「鉄は熱いうちに打て」との正助の遺訓は、そのまま久留米の商家一般にいきわたっていたようです。正助どんの実家は今も大事に田主丸に保存されています。写真@
藩御用達の水運業大成して正助が行った主な商品は、@米・雑穀・菜種子一切の販売仲買い、A金銀の貸し出し、B船商売、C大坂表への菜種子、米、雑穀の輸送などです。

増産と増税の時代から始まる

井上伝が生まれたのは天明8年12月29日ですから、明治維新から遡ること丁度80年前のことです。彼女が人生の幕を閉じるまで、それは丸々幕末の80年間と重なります。
五穀神社そば(筑後国御井郡通外町35番地)で産声を上げたとき、世の中は厳しい冬の時代でした。
当時を全国規模で眺めると、賄賂政治で失脚した老中(ろうじゅう)田沼意次(たぬまおきつぐ)に代わった松平定信が、財政の緊縮と商人たちへの押さえ込み、更には地方大名への締め付けを強化した時代です。写真は、梅林寺の有馬頼貴の墓
久留米藩の財政事情も、例に漏れず窮乏の極みにありました。そこで藩は、増税と増産に活路を見出そうとします。伝女が 生まれる2年前、久留米藩の第8代藩主であった有馬頼貴は、財政窮乏対策として、領民に対して増税と増産を命じました。通常の貢租のほかに家臣には俸給の歩引き、農民・城下町民からは臨時の賦課金を徴収したのです。
藩主頼貴が、「庶民は綿布を着るべし」と、節約令を発したのは、伝女が生まれた丁度その年のことだったのです。
また藩は領民に対して、米や麦など穀物のほかに、付加価値の高い特産品の開発を促しました。
当時、久留米藩領内で開発された主な産業は、次のようなものです。
北野の大庄屋・上滝茂吉が玉藍を開発。
砂糖きびの栽培と砂糖の製造。

榎津の田上嘉作が大川指物を改良し、今日の大川家具の基礎を築く。
竹野郡の竹下周直と小郡の内山伊吉が、櫨栽培に着手。

などです。
このほか、それまでに培ってきた、茶葉・和傘・和紙・などがありました。
貢租:田地に課せられる租税。年貢。

井上伝の生誕から11年遅れて、目と鼻の先の通町10丁目で、後に発明王として全国にその名を馳せる田中久重、つまりからくり儀右衛門が誕生しています。儀右衛門もまた、久留米の商業史を語る際に欠かせない歴史上の人物です。
井上伝と儀右衛門の誕生の丁度中間にあたる寛政11(1799)年には、これまたすぐ近くの櫛原で、高山彦九郎が切腹して果てました。高山彦九郎と言えば、尊王思想を普及するために全国を股にかけた人物です。墓は、寺町の遍照院にあります。
高山の自殺がまるで引鉄(ひきがね)にでもなったかのように、80年後の明治維新へと突き進んでいくのですから、見ようによっては、久留米の地は、徳川幕府の屋台骨を揺るがした震源地であったのかもしれません。写真は、高山彦九郎終焉の地(久留米市櫛原町)
井上伝やからくり儀右衛門が成長して活躍する時期、世の中は騒然となっていました。アメリカなど世界の列強から開国の要求が突きつけられ、攘夷か佐幕かで幕府も各藩も揺れていたのです。久留米藩もまた、幕府の動揺に翻弄されながら、そのツケを領民に押し付ける政治に明け暮れていました。
有馬頼永が第10代藩主につくと、彼は領民に対して大倹約令を発しました。
この時、頼永が発した倹約令とは、

@服装=衣服類は男女ともすべて綿服を用い、髪飾りもべっ甲や銀細工の品などは用いてはならない。また手道具・履物類も高価美麗なものは用いないこと。
A住居=家作普請も雨漏りとか住むにさしつかえる場合のほかは、行わないこと。
B冠婚葬祭=客を招き、派手に振舞うことはやめ、近親者だけで質素に行うこと。
C芸事と興行=三味線や踊りなど遊芸の稽古は一切やめ、芝居・相撲・軽業などの興行も禁止すること。
D特例廃止=これまで認められていた大庄屋・町別当及び分限者(銀50貫以上の資産家)または大地主(500石以上)にも絹服着用の特例を廃止すること

というものでした。この倹約令は明治維新まで継続します。
後の世になって、「久留米の民は勤勉で節約型であり、久留米には郷土芸能が残っていない」と言われるのは、この大倹約令がずっと尾を引いたためだという識者もいます。
弘化2(1845)年に出された藩財政再建計画の趣意は次のとおりです。

「太守さまはご心力の限りを尽くして政治を正しくし、御領内士民の風俗を改め国家を安泰に導くことをひたすらに考えておられる。
ところが、お勝手方は長らく不如意のうえに近年はとくに不足が甚だしく、かつ家中・
在方(ざいかた)町方とも次第に困窮の度を増し、そのために政治も行き届かず、風俗も浮薄となってきた。このままでは、非常異変の節はいうにおよばず、平常の場合ですら破綻しはせぬかと深く心配され、この度大倹約令を布告された。
この趣旨は何とか上下とも豊かになり、政治も行き届き、風儀もよくなるようにと念願されてのことである。皆々、上のご心中を察して、非常の節約を尽くさねばならない」
何と、今日の為政者の弁と似ていることか。

高山彦九郎:江戸時代後期の尊皇思想家。
攘夷:外国を排撃して、鎖国を主張する説。尊王論と合流して開国佐幕派と対立した。
佐幕:幕末、尊王攘夷・倒幕に反対して幕府の政策を是認し、これを助けたこと。

井上伝のかすり織り

井上伝が生まれた当時、筑後地方における綿織物の事情はどうだったのでしょう。
明治維新以降、久留米を代表する産業となったかすり(絣)も、井上伝が生まれた当時には、大した重みを持っていなかったようです。その証拠に、藩が認証する次の買占め問屋(元締)にすら入っていなかったのですから。

塩鰯薪穀物  諸紙  小間物  煙草  唐物  茣蓙  櫨実  魚

唐物:中国その他外国から舶来した品物

綿織物などが、久留米藩において重要な産物として位置づけられるのは、井上伝の人生が終る寸前、つまり幕末ギリギリの元治元(1864)年の頃でした。
井上伝が「霜降り」「あられ織り」などと賞賛される布柄を編み出し、本村庄兵衛など商売人が販路を拡大したことによって、綿織物の価値も次第に高まっていきました。
当時小規模の商家では、表に出ない老人や娘などが機織りをして家計を援けていました。伝もまた、祖母が織る姿を見よう見真似で覚え、自分も家のために働きたいと思うようになります。あるとき、ひょんなことから古着の「掠れ模様」を見て、それを解いて糸に残った染料の具合を観察したことが、見事なかすりの模様を編み出すきっかけとなったのです。
好奇心と探究心が産みだした夢のように美しい柄を、機屋や問屋が放っておくわけはありません。城下の評判を呼び、織物問屋が商標名を「加寿利」と名づけて、売り込んでいきました。
それからの井上伝の人生は、かすり織りと普及の一筋となります。結婚後も夫と死別後も、新しい柄の工夫に明け暮れました。
単純な掠れ模様から絵がすりへと進化させるために、通町10丁目のべっ甲屋の息子、後のからくり儀右衛門に相談もしています。細かい染色技術は、幼馴染の紺屋(こうや)の佐助の腕を借りました。
織り上がった絵かすりを売捌いてくれるのが、屋号「松屋」の本村庄兵衛です。庄兵衛は、伝の商売を助ける一方、彼女の持つ機織り技術を娘たちに教えるよう促します。。
井上伝の功績を、後の人は「久留米がすりを発明した人」としてもてはやしますが、必ずしもそうとはいえません。
彼女の最大の功績は、かすり織りの絵柄を更に進化させ、その技術を筑後全域に浸透させたことだと思っています。彼女の働きが、後に久留米藩の特産品指定を招き、明治維新以降の久留米絣全盛時代を迎えるのです。
伝は、世に言う「発明家」ではなく、お国(藩)のため、お家のために忠実に働いた人だったのです。
伝の作業場には大勢の織り子、つまり弟子が働き、その弟子たちが孫弟子を育てる仕組みの中で、農家や商家の婦女子に機織り技術を伝えていきます。写真は、独特の小がすり柄を編み出した牛島ノシの碑
弟子は孫弟子を生み、そのことが筑後一円の農家や商家、それに武家屋敷にまで機織りの音が鳴り響くようになるのですから、今日の久留米の繁栄をもたらした伝の功績は計り知れないものがあったと申せましょう。
絵がすりや大柄かすり、小柄かすりなど、今日に及ぶ久留米絣の進歩には、伝の影響を受けた弟子などが大いに貢献したといえます。中でも、小がすりの牛島ノシと複雑な絵がすり模様を確立した大塚太蔵の果たした役割を忘れるわけにはいきません。

商人の卵たち

明治維新を4年後に控えた元治元(1864)年に、藩は久留米絣を初めて塩や穀物・櫨などと肩を並べる「国産品」に格上げしました。絣の買占め的問屋(元締)には、福童屋半兵衛を任命します。
井上伝は、一人娘のイトとともに、絵がすりの更なる向上に努めるとともに、82歳でこの世を去る寸前まで、筑後地方の娘たちに機織りの技術を伝授していきました。
彼女をかすりの普及にここまで駆り立てた動機は、人一倍に強い愛国心だったように思います。
井上伝が、生涯を掛けてかすり織りに精を出していた幕末の頃。
世の中は諸外国からの開国要求を巡って国論が分裂していました。久留米でも、幕府の要請を受けて軍艦を買ったりして軍備増強に努めていたのです。また、徳川家からの押し付けで藩主が公家系の姫を正室に迎えるというので、莫大な費用をかけることにもなりました。そんなこんなで、領民に対する倹約令はますます厳しくなっていきました。
300年の徳川の世の終焉を感じてか否か、商人の卵たちのその日に向けた準備も急を告げていました。
国武喜次郎は、明治維新の5年前に、17歳にして(文久3年=1863年)親譲りの魚屋を廃業し、かすりの販売業に転身しています。維新時には既に5〜6人の織工を雇ってかすりを織らせていたといいます。
彼は、農家の婦人にかすりを織らせる「織替」制度を活用して、商品の調達にも才をみせていました。何よりも彼が優れていたのは、商売に必要な人脈作りの巧みさです。十代にして近江商人の鍋屋とか鶴屋など大所に取り入って一挙に販路を拡大していたのですから。維新時には、年間4万反ものかすりを売捌くまでに成長していました。


維新後の久留米

徳川慶喜の大政奉還により久留米藩は消滅し、新しい県・郡制へと体制が移り変わっていきます。明治新政府は、鎖国による近代化の遅れを取り戻すべく、国民に先進諸国の技術や文化を積極的に取り入れるよう奨励しました。商工業活動の自由化などは、その一環をなすものです。
久留米においても、時代を先取りする気構えは、他に劣ることはありませんでした。
江戸末期から出番を待っていた商人の卵たちが、久留米城の崩壊とともにいっせいに躍り出ました。
写真は、取り壊される前の久留米城と明治期の市街図
明治2年には、川崎峰次郎が通町に漆器店を開業。
翌3年には、古着商の中島屋武助が、商人仲間とともに藩所有の千歳丸を借り受け、日本列島を駆け巡って、沿岸貿易を開始しました。
京都などで活躍したからくり儀右衛門も久留米に戻り、製鉄所を始めています。

明治5年から6年にかけて、城下町久留米は一挙に商売人の街に変っていきました。
士族が夜店を出します。

原古賀に牛豚肉店が開業。
明治6年には、宗野末吉が原古賀で時計屋を開業。

赤司喜次郎は、赤司広楽園を開業。
中村勝次が、呉服町に写真屋を開業。
野村生助は、白山で活版印刷所を開業します。
写真は、久留米の繁華街、三本松・米屋町と金文堂

維新後の久留米を語るとき、激動の中に突然現れた29歳の女性のことを忘れるわけにはいきません。江戸末期の慶応4年6月25日、武蔵国から江戸を経て久留米にやってきた小川トクのことです。

小川トク

後に、久留米絣と並んで一大特産品となる「久留米縞」を創り出した小川トクが、久留米の地を踏んだとき、それは皮肉にも井上伝がこの世を去る前の年でした。
トクは、井上伝より50年遅い天保10(1839)年に、武蔵国は宮ヶ谷塔(現さいたま市)というところで産声を上げています。
幼い頃に両親を亡くして祖父母に育てられましたが、伝と同じく気がついたときには、機の前に座っていたというほどの機織りの申し子でした。
日本橋まで僅か8里しか離れていない大消費地江戸を控え、一帯は綿栽培や縞・白木綿など織物が大変盛んでした。
彼女は、結婚した相手とうまくいかず、家と生まれたばかりの一人息子を残して江戸に出ました。21歳のときでした。上京すると、三田にあった久留米藩の江戸上屋敷に女中奉公に上がります。
幕末の動乱期に江戸屋敷で過ごし、大政奉還後に主人の家族を伴って久留米にやってきたというわけです。
従って、21歳から29歳までの8年間は、縞を織ることもなかったわけです。落ち着いた先は、江戸より帰還する藩士家族のために造られた日吉神社裏の新廓でした。
行き場を失ったトクは、生きていくために、娘時代に覚えた縞織りの再開を決意します。
後にトクが、「久留米には、絣以外に特に目立った産業もなかったし…」と語っています。井上伝が生まれた頃、藩からも軽んじられていた綿織物が、80年たって、今や唯一久留米の特産品に昇りつめていたのでした。
トクは、記憶の中の宮ヶ谷塔での機織り器械を造るところから始めました。井上伝以来久留米地方の機と言えば窮屈な姿勢で織る下機でした。それをトクは、効率の良い埼玉の長機に変化させたかったのです。また、それまでは一つ一つ手で送っていた大きな杼を掌サイズにまで小さくして、「投げ杼」に改良しました。糸括り機にいたるまで、記憶の中の理想的な道具にこだわり続けました。
明治9年に開始した小川トクの機屋の商品は、柄が単純な分、絣に比べて値段が安く柄も上品で、開店と同時に問屋や消費者の注目を浴びることになりました。 それまでの久留米地方における衣服は、冬は絣で夏は縞と決まっていました。その木綿縞たるや、太い手紡糸(ていと)で織った、柄向きもおかしなものでした。それら消費者の不満を先取りして、小川トクの縞は、たちまち人気を得ていくのです。問屋はこれを「久留米縞」と銘打って売り出しました。

国武・本村の台頭

小川トクが久留米縞を売り出した頃、城下町久留米はすっかり様変わりを果たしていました。お城は壊され、街行く人の形も丁髷はザンバラ髪に、お坊さんはお嫁さんを貰い、物騒な腰の大刀も姿を消しました。
この頃、長崎での足袋製造の修行を終えた倉田雲平が、僅かの元手で「槌屋足袋店」を開業し、龍頭徳次郎が大店の嶋屋に仕立屋見習いに入ります。
また原古賀では、横浜や京都で仕込んだ腕を元に、宗野末吉が西洋時計屋を開業しました。大陰暦から太陽暦に代わったその時の出店で、まさしく時機を得た決断だったのです。
国武喜次郎と本村庄平が大きく頭をもたげるのもこの頃からです。
国武喜次郎は、維新直後の販売自由化で、九州各地に販路を確立する一方、明治5(1872)年までは藩で取り仕切っていた京阪市場の開拓に乗り出しました。
当時日本一の太物問屋(呉服=絹織物に対して太物=麻・木綿)といわれた京都の辻中郎兵衛との間に、久留米絣の年間2万反の引き受け契約に成功します。次いで大坂の大問屋とも大型契約を結び、全国展開への足がかりを築いたのです。
一方本村庄兵衛から家督を継いだ養子の庄平もまた、絣商売をするために生まれてきたように、瞬く間に養父の領域を飛び越えて、国武喜次郎と肩を並べて販路拡大に走ります。
彼の商売のスタイルは、草鞋・脚絆・照降る傘持参といったいでたちで、九州各地から中四国地方、更には京阪へとかすりを売って回りました。彼の宣伝トークはいつも「久留米ん絣は強か生地ですもんの」でした。
授産事業であった赤松社の絣工場を引き受けた本村は、同工場を会社組織に変更し、「赤松社絣工場本村合資会社」にしました。
明治33(1900)年には、篠山町に新工場を建設して、4馬力の石油発動機を備え、久留米絣のほか久留米縞や白木綿を織り立てました。次々に事業を拡張した本村は、明治39(1906)年には、通町の本店を本村合名会社に改組しました。
明治41(1908)年当時の本村合名会社。
従業員数:680人。うち210人は通勤で、残り470人は自宅織り立ての織工。
明治42年の生産高:2万8000反。

久留米絣は、売り上げが伸びるにしたがって、原料不足に悩まされます。
農家の婦女子が紡いだ手紡糸(ていと)だけではどうにも追いつかず、国武や本村らは大工場で生産される紡績糸に目をつけました。しかし当時の機械紡績糸の品質は悪く、久留米絣の原料糸としてはどうにもなりませんでした。
彼らの模索の時代は、それからしばらく続くことになります。

西南の役の光と影

明治10年代を目前に、日本各地で内戦が多発しました。明治7年の佐賀の乱、明治9年の秋月の乱、山口・萩の乱など。そして明治10年の西南の役(戦争)です。260年にわたる徳川幕府の終結にあたって、避けることのできなかった大きすぎる代償だったのです。そんな久留米が内戦の際背負わされる役割は、前線に対する兵站基地であり、大中の包帯所(特設病院)でした。
身近で戦争が勃発すると、にわかに活気付くのが商売人たちです。雑貨から酒類・衣服にいたるまで、軍や兵隊が要求する物なら何でも調達していきます。

倉田雲平

倉田雲平は、23歳で米屋町の一角に「槌屋足袋店」を開業します。
倉田家は「槌屋」を屋号として、代々米穀や呉服・両替を営む豪商でした。雲平が生まれた頃には家運が傾いていて、初めは長物裁縫の修行を積んでいました。それでは将来に展望が見出せず、明治3年に長崎に出向き、足袋製縫の修行を積みます。隣組の足袋店福山屋を見ながら、雲平は指物屋から足袋職人への転換を決意したのではないでしょうか。
長崎の師匠(小川源助)に貰った餞別で、毎日2足か3足の足袋を作って旅館に売りに行き、得た金で材料を仕入れるといった自転車操業でした。
倉田雲平が27歳の時、西南戦争が勃発しました。彼は、軍服に草鞋履きの、兵士に欠かせない「足袋」に目をつけました。知人を頼りに軍に取り入ります。
2万足の足袋とシャツ・ズボン各1万枚を短期間に納品するといった目茶苦茶な契約だったのです。未だ手縫いの時代ですから、並みの職人では埒があきません。そこで破格の報酬を示して博多や長崎・下関から職人を集めました。
軍幹部に信用されたた倉田は、更に衣料品から梅干・ラッキョウ・油紙にいたるまで注文を出しています。
しかし、西南戦争は彼の思惑以上に早く終結し、注文した幹部も戦死していて、全財産を失うことになってしまいました。彼はこの時の教訓を次のようにしたためて、後に残しています。
走るものはつまづきやすく、爪立つものは倒れやすい。堅実なる一歩ずつを進めよ。進めたる足は堅く踏みしめよ
西南戦争時の失敗から立ち直った倉田は、品質の改善と技術の研究により、明治25(1882)年には、足袋の生産高を6万足まで伸ばしています。
販路の拡大には、主要地に販売店を設けることと広告宣伝に力を入れることでした。また、洋服の普及にあわせて、革靴と馬具の製造も始めました。
石橋徳次郎が、仕立て屋としてやっと一本立ちした明治25年頃、倉田は漢字の「槌屋」をひらがなの「つちや」に屋号を改めて生産量を伸ばし、販路を更に拡張していたその頃です。

国武喜次郎の躍進

西南戦争をまたとないチャンスと捉えたのは、国武喜次郎も同じです。彼は、官軍の前線基地が置かれた南ノ関(現南関町)まで、何度も足を運んで軍幹部に取り入りました。
兵士の給料に対して小銭を掻き集めて両替賃を稼ぐ。
家族への贈物として絣も飛ぶように売れました。絣以外の衣料品や食料品まで、軍や兵士が欲しがる物を買い集め、倉庫に保管しました。その時の倉庫は、今も通町に残っています。
国武が前述の倉田雲平と違うところは、倉庫に貯めた商品を軍には売らずに戦火が収まった熊本市中で売捌いたことです。市民は、家は焼かれても、現金はしっかり持っていたので、国武が持ち込んだ品物が言い値で売れたことは当然です。
さらに、戦後ふるさとに帰る兵を久留米に立ち寄らせ、久留米絣を売りまくりました。「火事場泥棒」的商売で、一躍大金を手にすることができたのです。
西南戦争時の絣や物資の買占めで巨大な富を得た国武喜次郎は、販売部門のほかに生産部門にも力を割くようになりました。
明治12(1879)年には、自ら滋賀県神埼郡宮庄村に出向いて、同地の絣について研究し、板締め器械に改良を加えました。
篠山町などに設置した工場で、板締め器械を応用し、手括り(てくびり)織工を雇い入れ、一貫作業による絣の自家生産へと踏み切ります。
明治10年代に入ると、久留米絣に使用する原糸は、紡績糸で賄うようになりました。国武は、岡山県の玉島紡績の設立から関与し、明治12(1879)年に設立されると、製糸の改良を要求します。
明治16(1883)年に玉島紡績関係者といっしょに清国に綿花を買い入れに出かけています。この時国武は、生まれて初めての洋服を長崎で作らせたといいます。
国武は、明治30(1897)年には裏町に国武工場を建設します。次いで33年には、白山に特許絣合名会社を設立。これは、それまでの手括りかすりを機械で行うことで、珍奇鮮明なものを創り出すことにありました。
国武商店は、その後も梅満町に新工場を建てるなどして事業を拡張し、明治37(1904)年には、国武合名会社に改組しました。
明治41(1908)年当時の国武合名会社について。
従業員数:男100人、女500人、自宅織り立て織工2000人
となっています。

石橋徳次郎

倉田雲平が25歳で槌屋足袋店を開業した年(明治6年)は、奇しくも石橋徳次郎が屋号「嶋屋」に商売見習いのため修行に入った年と重なります。徳次郎16歳でした。
槌屋足袋が着々と販路を拡大した明治10年代、徳次郎は、商法の修行と仕立物の仕事に余念がありませんでした。彼は師匠の緒方安平に見込まれて、長女のマツとの結婚を許されました。そこで、縁家の石橋家をいただき、嶋屋の暖簾を引き継ぐことになりました。そして後の「志まや」に発展し、日本ゴムへの基礎を築いていきます。明治25年の頃です。その時、職人・内弟子合わせて数名の小さな店舗でした。
仕立物業でつくる商品は、印半纏・腹掛け・手甲・脚絆・股引など、作業用衣類を縫製する商売でした。独立した後は、傍らで足袋の製造も始めています。
徳次郎の商法は、無理をしてまで経営を拡大しない、自分も縫製に従事するといった地味なものでした。倉田雲平とは、裏と表ほどに違う商売の仕方だったようです。

宗野末吉

宗野末吉が原古賀に「御時計師」の看板を掲げて開業したのは、大陰暦から太陽暦に代わったばかりの明治6年1月です。
宗野家は代々久留米藩御用達の大工でした。若くして棟梁の地位にあった末吉は、西洋かぶれの藩主のお供をして江戸に赴いた折に、横浜で時計の技術を習得しています。
和時計しか知らない久留米の市民は、原古賀5丁目(現本町)のウィンドーに飾った八角時計が珍しくて、見物客でごった返したといいます。
藩主お気に入りの大工(時計師)宗野末吉は、死後も藩主の墓(梅林寺)の傍に、妻と一緒に祭られています。(宗野家の墓地は寺町にある)
原古賀から三本松に店を移していた宗野時計店(宗野末吉)は、西南戦争時に懐中時計をわざわざ大阪から大量に仕入れています。
倉田雲平が足袋の生産量を6万足に伸ばし、石橋徳次郎が緒方安平から独立した明治25年頃、宗野は三本松の時計屋で、アメリカ仕込みの職人に風琴(オルガン)を作らせて売り出しました。因みに、ヤマハがオルガンの製造を始めたのが明治30(1897)年ですから、宗野の商売に対する意欲がわかろうというものです。しかしこの商売は、オルガンを教える教師がいないという決定的誤算を生じて、すぐに挫折します。

籃胎漆器と川崎峰次郎

細長いヘゴ(薄片)に割った真竹を、数百から数千本使い、用途に応じた形に編み上げる。これに何回も漆を塗り重ねて仕上げたもの。大気の乾湿気温の変化によって収縮したり形が歪んだりせず、熱湯にも強い。その上、使用するにつれて光沢を増すという特色を持つ。
この籃胎漆器を産んだのが川崎峰次郎です。明治3年に通町で染料・塗器店を開業し塗り物業も営みました。
アイデアマンの豊福勝次(山川在住)と語らって、中国産の漆塗り竹篭を見本にして挑戦したといわれています。
峰次郎は、幾度か失敗を重ねながら、ついに竹篭に漆を塗りこめて水も漏らさぬものに作り上げました。市場に「籠細工塗」としてだします。それを「籃胎漆器」と呼ぶようになったのは、明治28(1895)年の勧業博覧会以降です。以降、川崎峰次郎は、漆商をやめて籃胎漆器製造に専念するようになりました。
明治37(1904)年のアメリカでの万国博に出品した14品によって、籃胎漆器は一躍世界市場で注目されるようになったのです。
ですが、峰次郎にとってこれが最後の仕事となって、この世を去りました。

久留米つつじ

天保年間(1830〜)に坂本元蔵が作り出した久留米つつじを、更に進化させたのが赤司喜次郎です。
彼は、東久留米村(現東町)の庄屋の子として生まれましたが、後に農業に転じ、花卉栽培も行うようになりました。きっかけは福岡の病院に入院した際花瓶にさされた花に慰められたことだといいます。
花卉栽培の中でつつじの人工栽培や品種改良に努めたそうです。
しかし、特産のツツジの真価が広く認識され、商品として開花するのは明治30年以降のことです。
農業の傍ら花卉製造をやっていた赤司喜次郎は、明治28(1895)年から園芸専業に切り替えてツツジの栽培と販路拡大に努めるようになりました。
明治31(1898)年には、小冊子の赤司広楽園「苗物定価表」を刊行して、早くも全国的に通信販売の道を開きました。しかし、この頃には未だ「久留米ツツジ」の名称はなく、「久留米特産霧島躑躅」として扱われていたのです。
その後、愛好家の間で「久留米ツツジ」と呼ぶようになり、赤司広楽園はそれを追認したのです。

金文堂

明治23(1890)年には、金文堂書店(菊竹儀平)が、当時では大変珍しい通信販売法を始めています。金文堂は、翌24年にもそれまでの座売り方式を土間陳列方式に改めています。これだと客が直接商品を手にとって見られるのです。

軍との共存へ

西南戦争は、国武など久留米商人に莫大な利益をもたらした一方で、倉田雲平のように先走って一文無しに転落した者も少なくなかったようです。
また、商売がうまくいくとき必ず出現するのが悪徳商人です。戦争帰りの兵士が久留米で買った絣などの粗悪品のため、その信用を取り戻すために、久留米商人は売りこむ時以上のエネルギーを要することになったのです。
そこで台頭してきたのが、絣生産のマニュファクチュア(工場制手工業)化と、業界の自主的な責任体制の確立でした。
明治10年代に入ると、久留米絣に使用する原糸は手紡糸から堺や岡山などの紡績工場で生産される紡績糸へと移行していきました。
明治20年代には、久留米縞の5〜6万反を含む久留米絣の生産高は、55万反に達しました。僅か6年の間に3倍にも膨れ上がったのです。

明治27年に始まった日清戦争後の久留米は、三井郡国分村(現久留米市国分町)に陸軍歩兵第四十八連隊の設置から始まりました。更に明治40年には第18師団も設置されました。
これは、久留米の商人らが熱心に軍施設の誘致に動いた結果だと言われています。西南戦争の光と影は、131年たった今日にいたるまで、影響しているのです。商売人と軍部、久留米の町はその時から共存する二つの要素が、日清戦争・日露戦争を経て、太平洋戦争から今日にいたるまで続いていることを忘れるわけにはいきません。
日露戦争時には61万反まで減少していた久留米絣の生産も、明治39年になると、一挙に100万反の大台に乗せています。
販路も、国内は大陸の満州・京城・韓国・大連・旅順などへと進出していきます。
明治41(1908)年当時の絣製造戸数は凡そ1500戸。その中でも国武合名会社が第1位で、直接の従業員数600人、次いで久留米絣株式会社、3位が本村合名会社となっています。

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