小郡ライオンズクラブ卓話

06年3月1日 18時30分〜19時
小郡市二森1167−1 小郡市総合保険福祉センター
参加人数:約50名
主催:小郡ライオンズクラブ

伝説から掘り起こすふるさと自慢

 私は、郷土・筑後川流域に残る伝説を収集し、私なりに解釈を加えて、読み物にしてホームページで発信しているものです。60歳定年後に始めた仕事ですが、毎週1作ずつ発表していくうちに、いつの間にか250話に達していました。
読者から、「よくもそんなに・・・」とのご感想をいただきますが、「70歳300話」の目標を掲げてからの毎日は、充実したものです。

本日は、ライフワークともなりました筑後川流域の伝説収集から、私が得たものの一端をお話ししたいと存じます。

伝説の種類
「あそこの川にはカッパが棲んどって、子供の尻からジゴ(腸)ば抜いて食うげな」
「向こうに見ゆる山のその向こうには、恐ろしか山姥(やまんば)が住んじょって、旅人ば捕まえて食うてしまうげな」
「町外れのあん高っか松の木の上にゃ、天狗が住んどるげな。一人で通よっと浚われるげなばい」
「あん池には大蛇が棲んじょって、田んぼの水ば管理しござるげな。大事にせんと、水ばくれんごつなるとたい」
といった妖怪話が、伝説の代表選手です。
でも、伝説に登場するのはなにも妖怪ばかりとは限りません。仏さま神さま、それに歴史上の偉いお方なども伝説にはなくてはならないキャラクターなのです。
この小郡地方にも有名な話がいくつもあります。
七夕伝説(織姫)、太刀洗伝説(合戦)、おさよの人柱(洪水)、名馬池月(畜生)、黒岩稲荷伝説(平家落人)などがその代表選手でしょうか。
「伝説」とは、読んで字の如く、長い年月をかけて人の口から口へと伝わってきた話のことです。従って、歴史的事実とは異なります。また、現実に存在するものとの因果関係もはっきりしません。ですが、子供のころに祖父ちゃんや祖母ちゃんから聞いたお話しは、60年過ぎた現在でも頭の隅に執拗にこびりついているものです。
「古賀さん、筑後川にはほんなこつ(本当に)カッパがおるとですか?」と真顔で訊かれたりすると、言いだしっぺの私の方が困ってしまいます。仕方がなくて、「私は見たことがないが、お年寄りがそう言うからいるんじゃないですかね。お年寄りの言うことを聞いて用心していれば、川でカッパにひかれることもなかでしょうからね」なんて、わかったようなわからないような返事しかできないのです。
筑後川の伝説
「筑後川流域」と一口に言っても、熊本・大分・福岡・佐賀の4県に跨り、そこでは100万人以上の人が暮らしています。
古代から川辺に住み着いてきた人類は、進化するに従ってさまざまな生きる知恵を生み出してきました。文字による伝達手段をもたない庶民が、蓄積された遺産を口から口へとリレーしていった「伝説」もその一つです。
筑後川の源流から河口まで、人が住んだ場所には伝説が存在します。今回は、河口から源流に向けて、遡ってみることにいたします。写真は、古湯温泉の徐福像
まず、河口付近の諸富町に伝わる徐福渡来伝説です。2000年以上も昔、秦の始皇帝の命令で、不老不死の薬草を探しに3000人もの供を連れて日本にやってきた方士(学者・占い師=神仙思想)の話です。徐福渡来地として名乗りを上げているのは諸富町だけではありません。北は青森から南は鹿児島の屋久島まで30ヵ所近くに上っています。
さて、佐賀の諸富に上陸した一行は、金立山で薬草を探しますが見つかりません。素手で帰国すれば始皇帝に一族郎党皆殺しにされますから、そのまま倭(やまと)に居ついてしまいました。彼らは他国で生き延びていくために原野を開墾し、持ってきた五穀の種子を植え付け、伝統の農業技術を地元民に教えることで、長年かけて融合していったのだろうと思われます。そのほかにも徐福は、名湯古湯温泉を見つけたりしました。
徐福渡来伝説のほかに、河口付近では葦の葉を珍魚エツに変えたという弘法大師伝説があります。空海さんは、山川町や久留米・甘木などでは「大根川」の話をつくり、豊後では貧しい人のために米や薬を与えたり、日照りで困っている農民には泉をくれました。これも、全国的な大師信仰が、空海を次々に超人的なヒーローに仕立てていったものです。
河口周辺から上流にかけて、数多く登場するのが平家落人伝説です。柳川の沖端漁業の基礎をなしたのは「ろっきゅうさん(六騎)」と呼ばれる6人の落人集団だそうです。有明海に出没する海賊をやっつけたり、造船技術を伝授したり、果ては漁港の建設など実行して地元の信頼を勝ち取っていったのです。白秋生家の裏手に祀ってある「六騎神社」は、有明海漁民の守り神として現在も崇められています。
久留米や鳥栖の執行さんや立石さんといった旧家の古文書には、壇ノ浦で入水したはずの安徳天皇が、実は久留米周辺で生涯を全うされたという話を伝えました。
落人伝説は、筑後市や山川町の要川などで追手の源氏と決戦したとあり、今でも落人塚や縁の滝などが保存されています。また、平家はカッパになったりになって、今も生き続けていると信じられています。
落人伝説は、日本人が最も身近に感じる判官贔屓とか、弱者への同情から生じたものなのでしょう。
そう言えば、河口の大川市には、天草残党の志岐さん伝説もあります。
筑後川に沿った伝説
田主丸のカッパ伝説はあまりにも有名です。中でも「カッパの川流れ(別名 樋の上の弥五郎)」は、単なるお話しを超えて古典的な風格さえ匂わせます。巨瀬川の弥五郎カッパが、好きな人間の女に振られて、真夏の樋の上で不貞寝をしているうちに頭の皿が乾いて、急流に落ち込み死んでしまうという珍しいストーリーです。「猿も木から落ちる」のカッパ版とでもいえましょうか。
筑後川の代表的源流は、阿蘇外輪山と九重高原です。
両源流ともに、そこには神さまの世界が広がります。
阿蘇盆地と外輪山麓あたりでは、阿蘇神は絶対的存在です。ご存知の小国町の宮原というところ。神さまが阿蘇山の頂上から矢を放って、落ちたところが御矢原(みやはら)というわけです。阿蘇神の使いの火の神・水の神が巡視の際、御矢原の民が、「私をお神のもとに置いていただければ、国小なりともいえども、青山四方を美しい国に変えて見せましょう」と忠誠を誓ったことから小国の名前がつけられたと伝えられてきました。
水源を預かる源流で、「水は神さまからの贈物」を印象付ける伝説です。

もう一つの源流九重の山々とその裾野の九重高原にも、水源を守る神さまが存在します。写真は、千町無田の朝日神社
高原の東北部に広がる数百ヘクタールの田畑は、江戸時代まではまったく人の手がつかない湿原地帯でした。ですが、湿原の周囲には細々ながら人の営みはありました。十三曲を登り詰めた筌ノ口や、そこから東に入った北方地区などがそうです。彼らは痩せた山の斜面に縋りながら、僅かばかりの作物を産みだしていました。
伝説に縛られて踏み込めず
「目の前の広大な湿原を田畑に変えられたら…」の思いは、古(いにしえ)からの願望であったろうと思います。でも、それは不可能なことでした。
なぜなら、湿原に人の手を加えることなど、朝日長者の神さまが許すはずがないと信じてきたからです。
千数百年も昔の神代の時代。一帯は豊かな草原と肥えた水田が広がっていました。「裏千町・表千町」と呼ばれる美田の持ち主が朝日長者だったのです。長者は田んぼが一望できる丘に御殿を建てて、そこから何千人もの使用人に「もっと働け、もっと働け」と号令をかけていました。
長者ともなると我がままを通り越して、自分の力を必要以上に過信するもののようです。御殿に引き込んだ川のせせらぎが煩いと言って、力づくで川の音を消したりしました。今も、村の中央を流れる川を「音無川」と呼ぶのはそのためです。
日暮れの早い収穫時などは、西の山に落ちる太陽を力ずくで押し留めたりもしました。神をも畏れぬ暴挙でも、頂上に君臨する自分なら許されると信じていたのでしょう。彼の思い上がりは、現在の世界や日本の頂点に立つ指導者にもどこか共通しているように思えるのですが・・・。
雨の多い九重高原にも、旱魃はありました。ある年、極端な雨不足で朝日長者の広大な水田のすべてが立ち枯れ寸前に追い込まれました。長者は、九重の山の水を支配するといわれる黒岳麓の男池の八大竜王に、娘を生贄に差し出すことを条件に雨乞いをしました。欲のためなら愛娘でも犠牲にしてしまう長者です。やがて、高原に恵みの雨が降り、危ういところで長者の農作物は枯れずにすみました。
望むことはすべて叶うと信じる朝日長者は、例年にない豊作を喜び、床の間に飾ってあった鏡餅を的に見立てて矢を放ったのです。農業を営むものにとって、米は福そのものなのです。それが、こともあろうに・・・。
矢が刺さった白い鏡餅は、たちまち白鳥になって空高く舞い上がり、何処かへ消えていきました。福が逃げたのです
その日を境に、朝日長者の没落が始まりました。あれほどの美田があっと言う間に湿原に変わり、作物を育てることができなくなってしまいました。そのうちに使用人は御殿から消えてなくなり、いつの頃か朝日長者も御殿から見えなくなってしまいました。
伝説が残したもの
朝日長者は没落しましたが、後世の人たちは、長者を見捨てませんでした。
長者を神格化することで、山岳での農業を助けてもらおうと考えたのです。今も住民が大切にお祭する筌ノ口の白鳥神社や千町無田の朝日神社の祭神は、朝日長者、つまり年ノ神なのです。
ですが、いったん神の怒りに触れたものは、人間の都合だけで簡単に許してはもらえません。荒野と化した湿原は、誰がどんなに挑んでも再び田畑に変えることができなかったのです。
北方集落(きたがたしゅうらく)の甲斐という姓の人たちは、今でも自分たちが朝日長者の子孫であると信じています。だから御殿跡といわれる丘に茅葺の社(やしろ)を造り、お祭りを欠かしません。毎年秋には新しい茅で屋根を葺き替え、今年とれた米でぼたもち(だんご)を作ってお供えします。有名なだんご祭りのことです。村中の甲斐さんが集まってカッポ酒を酌み交わし、豊作に感謝する光景はユニークでもあり、伝統を感じさせます。
皆さんご存知の、「長者原」の地名は、朝日長者から引用したものですが、硫黄山の煙と同じく長者崇拝は消えることはありません。
でも、時代が移って、命をかけた人間の闘い(開墾)が始まると、朝日長者伝説も説き伏せられたようです。
湿地を千数百年ぶりに美田に変えた者、それは筑後の農民でした。
不毛伝説を打ち破った筑後民
明治22年といいますから今から約120年前のことです。明治維新から戊辰戦争へ、文明開化を経てようやく落ち着きを取り戻した頃のことです。そう、福岡と久留米が市制を敷き、九州鉄道が博多から久留米まで1時間20分で走って、北部九州の経済圏を一挙に狭めた頃のことでした。
筑後川が大氾濫を起こしたのです。昭和28年の水害を思い出していただければわかると思います。筑後一帯は完全に水浸しになりました。二男坊や小作人、水呑み百姓にとって、徳川時代以上の困窮に苦しみました。二男坊は長男に従属し、小作人や水呑み百姓(田畑を持たない貧しい百姓)は完全に行き場を失ってしまいました。
彼ら被災農民の救済に立ち上がったのが元久留米藩士の青木牛之助です。600人ほどの農民をハワイに移住させ、年齢制限で行き先のない農民と家族を九重高原の湿地帯開拓に導きました。移住した農民は第1次・第2次と合わせると、家族を含めて数百人に上ると推定できます。
その範囲はほぼ筑後全域に亘っています。小郡地区でも、御原郡本郷村とか松崎村出身者の名前が見えます。
彼らは、引き返しが許されない過酷な条件のなかで、人間以下の暮らしに耐えながら開墾に励みました。そんな時地元民から聞こえてくるのが、例の朝日長者の「不毛伝説」です。祟りを恐れぬ入植者は、必ずや不幸を招くだろうとの陰口です。それでも彼らは肩を寄せ合って耐えました。耐えるほかに生きる道がなかったのです。
10年目に200町歩の開墾を済ませて、水呑み百姓が本百姓に生まれ変りました。筑後の民が、筑後川を遡っていって水源地帯に新天地を築いたときでもあり、朝日長者を【伝説の世界】に押しやった歴史的瞬間でもありました。
伝説の意義
現代人の目で九重高原を眺めた場合、朝日長者の「不毛の伝説」を信じる人は少ないでしょう。でも、誰一人として、非科学的だからお話しの世界から抹殺しようとする人もいないはずです。
長者伝説を突破した筑後の農民は、120年経過して、現在も100キロ下流の筑後弁を自分たちの言葉にしています。現在、最初の入植者で生きている人はもちろんいません。しかし、彼らのことをかすかに覚えている子孫はまだいます。
彼らは、祖父ちゃん祖母ちゃんから地元民との融合の難しさを聞かされました。それは、朝日長者伝説を肯定するのか否定するのか、その精神的闘いだったというのです。
苦しいとき、寂しいとき彼らは、目の前の小川を下っていった先の、筑後にある血縁を心の拠り所にしました。朝日神社には、年の神と合わせて久留米水天宮を分祀していますが、ふるさとを心の拠り所として生きた人たちの、それが証なのです。
千町無田の人たちが、今なおふるさと筑後を偲ぶ気持ちは、水源を汚してはいけないと思うことに結びついています。九重のミヤマキリシマが害虫で死滅寸前にあっても、彼らは空からの噴霧で解決しようとはしません。筑後や有明に流れていく大切な水を汚してはならないと考えるからです。
朝日長者伝説は、たんなる長者話ではなかったのです。宇宙や地球の原理から見れば、ミクロの世界の人間が大自然に逆らうことなどできるわけがないことを教えているのです。
お願い
子供さんやお孫さんに、是非郷土の伝説を話してやってください。そのことが、彼らが成長して多方面で活躍の場を持ったとき、胸を張ってふるさとを自慢できる基礎となるからです。
今の時代、若者の価値観が平均化してしまって、ふるさとを語ることが少ないような気がします。
胸を張って、筑後や小郡を他国の人に誇れること、また、謙虚に他国の人の話しを聞くこと、それがふるさとの次なる発展に結びつくと思うからです。
伝説は、長い年月をかけて人類が築き上げた文化遺産だと、私は確信します。

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