05.01.26 筑邦市民センター
表紙の3人 右から、初代石橋徳次郎、国武喜次郎、倉田雲平です。 今日は、彼らを中心に、商業都市久留米を築いた人物をおさらいしてみたいと思います。 西南戦争と久留米について もう一つのタイトルである「西南戦争」と久留米商人は、一見共通性がないようですが、明治の久留米を語るときに欠かせない関わりがあります。 挨拶・・・ふるさと論 その前に、まず自己紹介をいたします。 私は、生まれも育ちも・・・ 三潴郡荒木村です。だから、筑後川と筑後平野が大好きです。筑邦町は昭和30年から42年までのこの場所の町名です(大善寺の合併は1年遅れ)。それ以前は、荒木・大善寺・安武と、それぞれの村でした。 浦島太郎が見たもの、考えたこと 就職するために18歳で久留米を出て、福岡・東京・大阪・小倉などをまわり、再び久留米に落ち着いたのが54歳の時でした。まさしく浦島太郎の心境でした。 ふるさと久留米の町もすっかり変わっていました。でも、迎えてくれた山や川や仲間たちは、ちっとも変わっていませんでした。 「伝説紀行」 「大河を遡る」 「小川トク伝」 就職先の民間放送や、東京・大阪などでの経験を生かし、お世話になったふるさとに恩返しできることはないかと考えのが、「筑後川」をテーマとして後世に残す文化の収集です。 最初は、ラジオドラマ「筑紫次郎のむかし物語」の企画・制作でした。 取材をしていく過程で久留米郷土史会の古賀幸雄先生(会長)に出会い、筑後人による「九重高原開拓史」を勉強することになりました。また、久留米縞を創始した小川トク女史の一代記を手繰っていく中で、久留米の商業史を勉強しなおすことにもなったのです。 久留米商人が歩いた跡には草も生えない・・・とは 時代の先取り 久商で学んでいる時、先生や先輩から聞いた言葉に「久留米商人が歩いた跡には草も生えない」というのがありました。当時、おぼろげながらに「それほどまでにえげつない商売をする人たち」と解釈していました。 でも、それは少しだけ違っていたようです。 リスクを考えない冒険野郎 写真は、井上でんさんやからくり儀右衛門が育った通町界隈の現在の様子です。 久留米の商人は、えげつないのではなくて、金儲けに貪欲だっただけです。金儲けのためには骨身を惜しまず、リスクを考えない無鉄砲な冒険野郎たちの町だったともいえます。 では、そんな久留米商人の気質はどこから生まれたのか。 資料の「年表」で、「江戸時代」を参照ください。 まず、江戸時代に久留米かすりを作り出した井上でん女史と、世界の発明王として名を馳せたからくり儀右衛門(田中久重)の場合を見てみます。2人に共通するのは、同一世代で同一地域の産というだけではなく、物を創ることに飽くなき研究心をむき出しにした点です。井上でんは、解いた糸のまだら模様から久留米かすりを編み出しました。田中久重は、わずか15歳で五穀神社の祭礼に自ら作り出した水圧式からくり人形を出し、興行をしています。田中は、井上でんに請われ、かすりの絵模様を創り出す道具を考案しています。久重が考えたのは、まず布幅と同じ寸法の板を用意して、その板面に丈夫な白糸を横に行き来させて張り渡し、板面を糸の横列で覆うことでした。その糸の上に模様を墨で描いた後、糸をはずしてもとの一本の長糸に返すと、その糸には点々と墨跡がついているのがわかる。この墨跡のとおりに全部の糸を括り藍汁で染めると、絵模様のための緯糸を得ることができるのです。 井上でんや田中久重のほかにも、「年表」でわかるように、たくさんの人たちが将来の久留米の基礎を造っていました。 その頃、まだ若かったり子供だった久留米商人の卵たちは、彼らの活躍を観察しながら、自分の出番をじっと待っていたのです。 文明開化(明治初期)と久留米商人 明治は遠くなかった 子供の頃によく聞かされた言葉に、「明治は遠くなりにけり」というのがありました。私が生まれのが1938年ですから、明治維新は生まれる丁度70年前ということになります。この世に生を受けた時、明治が終ってわずか26年前しか経過していませんでした。 維新直後の久留米の変貌 さて、明治維新直後の久留米は・・・ 大政奉還―戊辰戦争−版籍奉還と廃藩置県―太陽暦の採用―久留米城の解体など、維新後の大改革を経て、人々は職業選択や結婚などが自由になりました。それまでの武士も、誇りだけでは食っていけなくなりました。一方役人の顔色を伺わなくても自由に職業が選べるようになった庶民は、自らの才能を発揮すべく努力を傾けました。 久留米かすりを世に売り出して、今日の商売人の町の基礎を築いた井上でんは、幕藩時代の終焉とともにこの世に別れを告げました。82歳の大往生でした。 江戸期から満を持していた男たちが一挙に躍り出るときがきました。 維新時に17歳だった倉田雲平は、先祖が残した「槌屋」の屋号を、打ち出の小槌だと縁起を担ぎ、足袋の製造の修業に突き進みます。 井上でんと組んでかすりの製造販売を手がけた本村庄兵衛は、後に台頭する国武喜次郎とともに、今日の久留米絣の製造と販売ネットワークの基礎をつくっていきました。 籃胎漆器を編み出した川崎峰次郎は、藩ご用達の漆器製造のときから研究を重ねて、独自の器を創り上げました。 通町で古着屋を営む中島屋武助は、戊辰戦争後不要になった久留米藩の艦船・千歳丸を借り受けて、日本列島を周回しながら筑後の産物を売りこみ、各地の産物を輸入する総合商社の魁を演じたのです。 そして、BSタイヤの石橋正二郎やアサヒコーポレーションの石橋徳次郎(重太郎)の父親である先代石橋徳次郎氏は、この頃仕立て屋に奉公に入り、次代に向けた準備を開始しました。 明治の初期は激動の時代です。 城下町久留米は、(極端な表現をすれば)一夜にして、武家の社会から商人の町に様変わりしたことになります。 通町や三本松・米屋町・苧扱川町・原古賀は、卸問屋と小売商や遊技場などが軒を列ねる久留米の繁華街に様変わりしました。そこで、江戸期から満を持していた男たちが、新しい商売を次々に展開するようになりました。 有馬の殿さまにたいそう可愛がられた大工の宗野末吉は、太陽暦の採用と時を同じくして苧扱川に西洋式時計屋を開きました。彼が仕入れた15インチの西洋式時計を一目見ようと、店先は人だかりだったといいます。末吉夫婦だけは、宗野家累代の墓に入らず、特別に有馬の殿さまの菩提寺である梅林寺に祭られています。 原古賀には、これまで見たことも聞いたこともない店が次々に開業しました。まず洋食屋です。着物姿でナイフとフォークを持って食事する当時の光景を思うだけでも愉快です。 鍛治町には肉店もオープンしました。維新直後におっかなびっくりで四つ足の肉を食したのは、何も横浜に限ったことではなかったのです。 久留米つつじを世界的に有名にした一人赤司喜次郎は、赤司広楽園を開業しました。庄屋の息子の赤司は、広い土地と研究熱心の性格を活かして西洋の花卉を輸入し販売しました。当時通信販売も手がけたというから、恐れ入ります。 呉服町では、中村勝次が写真館を開きました。野村正助は、白山で鉛活字の活版印刷所を開業しています。 みんな、江戸時代に先達の技術を見聞きしながら技術を習得したり、時代を先読みしたりして、自分の出番を待っていた連中です。
長崎で辛い修行を積んで久留米に戻ってきた倉田雲平は、弱冠21歳で米屋町に「槌屋足袋店」を開きました。長崎の師匠が餞別にくれた金が元手でした。店といっても、兄の家を間借りして、1日1足か2足を作るだけの超零細企業です。出来た足袋を旅館などに売りに行き、その金で次の材料を買うといった自転車操業でした。 それでもコツコツと働いて、24歳で元武家の娘と結婚すると、間もなく一人前の久留米商人の仲間入りを果たしていきます。 15歳で親から引き継いだ魚屋「魚喜」の国武喜次郎は、2年後には魚屋をきっぱりと諦め、かすりの販売業に転身しています。明治2年(22歳)頃には、既に5、6人の織工を雇ってかすりを織らせていたといいます。また、この地方で伝統的に行われてきた農家の婦人にかすりを織らせる「織替」制度を巧みに活用した商売人でもありました。織替制度とは、明治初期の久留米地方におけるかすりの生産工程をいいます。染め方から織り上げまで、いっさいの作業を織工自身がやり、織り上げたかすりは自家用を除いて仲買人に渡すか商店に持参して金銭または糸などの現物と交換する制度。 国武は、若くして近江商人の鍋屋とか鶴屋といった大物にも取り入り、一挙に商売を拡大させました。また、長崎や山口方面にも販路を広げ、年間4万反ものかすりを売捌くほどに急成長したのです。
本村庄兵衛親子のかすりの商売も国武に負けてはいません。通町に間口の広い店を構え、井上でんとともに築いてきた久留米かすりの信用を基礎にして、販路の全国展開をやってのけました。
もう一人、遠い武蔵国から流れてきた小川トクは、より安く、より強くをモットーに、故郷で覚えた縞織りを久留米に定着させるべく、 彼らの激しいシェア競争があって、はじめて久留米のかすりが年間100万反もの生産を成し遂げたのです。 西南戦争が町も人も変えた ここからが本題です。 世に言う西南の役、つまり西南戦争は、熊本や鹿児島が主な戦場となりますが、筑後と隣り合わせの 久留米の商人たちは、ここが千載一遇のチャンスと捉えていました。これまでにも登場した人物の中から何人かをピックアップして西南戦争との関わりをみてみましょう。 その前に、そもそも西南戦争とはなんだったのか。明治9年の暮れも近い頃、下野して鹿児島に帰っていた西郷隆盛を擁して私学校の生徒を中心とする鹿児島(薩摩)の不平士族らが兵を挙げたことから西南戦争は幕を切って落とされます。 明治10年の2月17日、西郷隆盛が本隊1万3000の兵を率いて鹿児島を発つことを知った政府は、征討総督に宮家の有栖川熾仁親王をたて、参軍には山縣有朋中将、参謀に川村純義中将をあてて「 明治10(1877)年2月15日、熊本城内の鎮台は、周囲に柵を構築して篭城します。薩摩軍本隊は熊本到着後直ちに熊本城を取り囲んで攻撃を開始しました。「熊本城炎上」はその直後のことです。植木(
1ヵ月後の3月19日、海からの官軍主力が日奈久港(現 明治10年の3月16日から22日まで、久留米師範学校には本営が置かれ、その間征討総督となった有栖川熾仁親王が滞在しました。戦争中久留米には、負傷者収容施設である小包帯所が設けられ、久留米師範学校には病院が設置されました。運ばれてきた患者は6000人、内死亡者は348名と記録されています。 足袋の製造販売で着々と商売を拡大していた倉田雲平は、西南戦争を二度と訪れない商売のチャンスと捉え、大きな賭けに出ます。 久留米における物資調達の将校に取り入って、兵隊が履く厚底の足袋2万足、シャツやズボン下各1万枚の注文を受けます。それも20日以内の納品という厳しいものでした。 不可能と思える注文を、かつての師匠や商売仲間の協力を得て成し遂げた倉田は、大金を手にしました。そこでやめておけば良いものを、今度は儲けた金で更なる金儲けを企むのです。河野という将校の勧めもあってのことですが、戦争に必要なあらゆる物資や食料を買いあさりました。 ですが、熊本における戦闘は倉田雲平が考える以上の速さで収束し、買いあさった物資が熊本で野積みにされたままになりました。 慌てて倉田雲平が熊本に駆けつけた時には、既に薩摩軍は宮崎と人吉に向けて敗走中でした。頼みとする将校も、久留米から田原坂に向かった際、あえなく敵の砲弾に撃ちぬかれて戦死したとのことです。 雲平は、有り金をすべてはたいて人夫を雇い、野積みされた物資を荷車5台に乗せ、まだ戦闘が続いているはずの八代に向かいます。その八代も戦闘の爪跡が残るだけで、官軍や薩摩軍の姿はどこにもありませんでした。 現地の商売人に、ただ同然で物資を引き取ってもらい、得た金で若津港(現 倉田雲平、若気の至りとは言え、高い授業料を払っての苦い経験でした。 「走るものは もう一人、国武喜次郎は、倉田雲平とは対照的な動きをしています。 いよいよ戦況が厳しくなった2月の中旬、国武は初めて県境の 間もなく40歳になる喜次郎は、兵たちに家族へ送るためのかすりを売り込みました。しかし、兵隊に支給された給金が5円とか10円といった高額紙幣では買い物したくてもままなりません。 会計の幹部兵が国武に「小銭を持ってこい」と言いつけました。喜次郎は、久留米に取って返して、両替商や商売仲間らから小銭を掻き集め、再び南ノ関へ。待っていた兵たちは、手間賃を払って紙幣を両替し、競うようにしてかすりを買い求めました。生きて帰れるかどうかもわからない故郷へのささやかな贈物でした。 国武喜次郎は、南ノ関で稼いだ金を元手に、倉田雲平と同じように、遠くは小倉や中国・四国地方からまで軍の必需物資である衣料品や食料品を買い漁りました。 彼は、集めた品物を戦場に持ち込まず、 明治10年9月。西南の役の終結を確かめた喜次郎は、単身熊本に乗り込んで豪商・市原屋の原田寿平と掛け合っています。市原屋は、粗末な板囲いの小屋に筵(むしろ)とゴザを重ねて、反物を売っていました。 反物は飛ぶように売れていました。着の身着のままの熊本の人たちが、贅沢な衣類を買う姿は奇妙ですが、種を明かせば簡単なことです。いざという時のために現金だけは隠し持っていたのです。 原田との商談が成立すると、喜次郎は倉庫に山積みされている品物を運び出しました。倉庫は瞬く間に空になりました。 戦争が終わって生き残った兵士たちは、故郷への帰り道久留米の町に立ち寄りました。国で待つ家族への土産品を買うためです。久留米の町は帰省する兵で賑わい、商人は懐を肥やしました。喜次郎もまた、西南戦争で大儲けした金を元金にして次の事業を興し、やがて「機業王」と呼ばれるようになっていくのです。 西南戦争で戦死した兵は、双方合わせて15000人といわれます。倉田雲平や国武喜次郎が、金儲けのために戦場を奔走している間に、全国から動員された農民が大変な犠牲を負わされていたのです。 でも、久留米商人にとってよいことばかりでもありませんでした。ドサクサに紛れてかすりの粗悪品を売りつける者が相次いだからです。彼らは、手紡き糸(てびきいと)に限られている地糸に唐糸を混ぜ、藍草でなければならない染料に化学薬品を使用したものを売っていました。悪い噂は、あっと言う間に全国に広がり、戦争帰りの兵隊の間で、妙な歌が流行りました。 「戦争戻りに久留米でかすりを買うたれば、紅殻染めとは露知らず、男なりゃこそ騙された」 かすりなど綿織物が頼りの久留米商人が、信用を回復するのに大変な犠牲を余儀なくされたのです。 時計屋の宗野末吉。彼もまた2000円もの大金をはたいて大阪から懐中時計を大量に仕入れ、軍部に売り込んで大もうけをしています。 一方、志まや足袋の石橋徳次郎については、嶋屋の養子になって店を開いて台をなし、明治39年には息子の重太郎と正二郎に譲っています。重太郎は父の名前を襲名し徳次郎になり、その後日本ゴム(アサヒコーポレーション)を背負います。弟の正二郎は、BSタイヤの創業者として、世界的な実業家に駆け上がったことはご存知のとおりです。 西南戦争は、いいにつけ悪しきにつけて、久留米の町を武家社会から商人の町に変貌させる大車輪の役割を担ったことになります。そして、いずこからか「久留米商人が歩いた跡には雑草(くさ)も生えない」といったありがたくない言葉が聞こえてくるようになりました。 西南戦争の遺産 明治10年の西南戦争は、400年続いた武家社会を終らせ、久留米を商業都市に変化させました。 大損をした倉田雲平は、モト夫人と力を合わせて地の底から這い上がり、自ら「天職」と決めた足袋の製造に専念して成功することになります。現在白山の月星化成は、その後買った土地4000坪が基礎になっています。 倉田夫妻が偉かったことは、その後の経営手腕です。従業員とは同じ飯を食い、夫人が販売に出かける従業員の帰りを待つ姿勢は、槌屋足袋のその後の繁栄の基礎をなしました。それに、いち早くミシンを購入して機械生産に入ります。革靴裁断機を導入して足袋底裁断を合理化しました。また「倉田式織底機」を発明し飛躍的な量産を可能にしたとも言われます。工場動力にはじめて蒸気を利用したのも槌屋足袋です。また複式簿記を最初に取り入れ経理帳簿を確立したり、支店網を作って販売を合理化したり、宣伝に力を入れたり、彼の経営手法は今日の経済発展の端著になったような気がします。 西南戦争で大もうけをした国武喜次郎はというと、委託の自宅職工の採用に始まって、絣の委託販売など思い切った手法を用いて、販路を日本から大陸へと広げていきました。また、 豊田佐吉が創り出した自動織機をいち早く久留米に持ち込んだのも、国武喜次郎です。 明治24年の国内博覧会(上野)で絶賛を博した久留米絣は、これら国武や本村らの激しいシェア競争がもたらしたものと言っても過言ではないでしょう。 激動の中での久留米商人 明治22年、久留米は福岡と並んで市制を敷くことになりました。また九州鉄道も博多から久留米まで開通し、片道わずか1時間半で行き来できるようになりました。 でも、農民にとってはいいことはありません。相次ぐ筑後川の氾濫で、貧困のどん底にあえぎ続けました。ある者は、元武士の青木牛之助に率いられて九重の山に登り、湿地帯を開墾しました。現在の千町無田がそれです。
また、武士の誇りを捨てきれない人たちも大変でした。安積開拓に出かけた元武士は、人間以下の生活に耐えながら開墾に励んだといいます。 そして、明治27年の日清戦争と日露戦争。西南戦争を経て久留米は陸軍(歩兵四十八連隊)と同居する町になりました。 明治44年の久留米一帯を舞台にした陸軍特別大演習には、死去なさる前年の明治天皇が視察されたのです。 これが我がふるさとです 明治10年の西南戦争を中心に、久留米の変貌をみてきました。 私は、町の中で話すとき、農村地帯の話をします。反対に、街中から離れたところでは、こうして町の話をするのです。 町も田舎も、私らにとって貴重なふるさとだからです。 これからの課題は、私たちが素晴らしいと思い続けたこのふるさとを、いつまでも素晴らしいままで発展させていくことだと思っています。それは子供の時代であり孫がなすことかもしれません。だから、語り継いで生きたいのです。(完) |