久留米商業高校創立記念
講演原稿
商都久留米を築いた先輩たち
武家社会だった久留米を、一気に商業都市に変えた人間像。自著「大河を遡る」の青木牛之助、「縞織り人生」の小川トクを中心に。
久商創立期の、彼らの爆発的なエネルギーのもとを探ってみたい。
自己紹介
創立記念日の思い出
本日は、学校創立108周年おめでとうございます。また、創立記念日の貴重な時間を頂きましてありがとうございます。
僕は59回卒業の古賀 勝といいます。1957年の卒業ですから、凡そ50年前の創立記念日には、あなたたちと同じ場所で先輩のお話を聞いていました。当時の諏訪野町の校舎には講堂や体育館などもなく、公民館を借りて行われたように記憶しています。BSの石橋正二郎社長や代議士の石井光次郎先生などが、壇上から頑張れと激励してくれました。
時代を経て、自分が壇上に立って後輩たちに語りかけていようとは、その頃、想像すらできなかったことです。
学校時代のこと、卒業してからのこと
学校時代のことを少し話します。
中学校は、当時「市外」の三潴郡荒木町立荒木中学校です。朝から晩までグランドや道路を走り回っていました。
練習の甲斐あって、個人でも団体でも福岡県で優勝しています。コーチ不在の陸上部で、キャプテンをやっていての優勝ですから、狭い荒木町では鼻が高かったですよ。久商でマラソン選手としてならした中尾隆行は同級生で、僕が陸上部に勧誘したものです。
久商では、あちらこちらの部活に顔を出しましたが、何一つモノになりませんでした。中学でエネルギーを使い果たしたのでしょうか。でも、応援団としては活躍しましたよ。春の甲子園、長崎・大分での九州大会、駅伝競走や陸上大会など。柔道は、2年生の時全国優勝、3年生では金鷲旗大会優勝です。いたるところで、久商先輩の歓迎を受け、学校は有り難いものだと実感しました。
唯一面白くなかったことといえば、女子生徒が少なかったことだけです。
卒業すると、学校推薦でラジオ九州(現在のRKB毎日放送)に就職。そこでは、美しいお姉さまにたくさん会えて大満足でした。東京支社転勤になりますと、花の銀座や新宿の歌舞伎町によく連れて行ってもらいました。映画やレコードで聴く歌手が目の前のステージにいるのですから興奮します。スタジオに現われる女優さんは、映画館で見るよりよほど綺麗でした。
結局東京に24年居座ることになり、学校では学べなかった政治や経済勉強させてもらいました。大蔵省の閲覧室で各局の営業報告書を閲覧しに通ったこと、仕事中に国会議事堂を眺めながら考えたことなど、その後の人生を豊かにしてくれたものばかりです。
なかでも、「ふるさと」への思いは、その24年間に強力に蓄積されて、サラリーマン最終盤から定年後の活動の支えとなりました。
あなたたちから見れば、僕は苔の生えたお爺さんです。明日は市内の結婚式場「創世」で大同窓会です。僕みたいなお爺さんやお婆さんが大集合します。老いも若きも、卒業生が年に一度大はしゃぎする日です。
演題について
さて、本日のお話ですが、「商都・久留米を築いた人々」の演題に沿って進めますが、1時間の持ち時間ですから、面白くなくても我慢して聞いてください。
僕は4年前、「大河を遡る・九重高原開拓史」という単行本を出版しました。そして今、ホームページで「縞織人生・小川トク伝」を書いています。いずれか出版できればと思いながら、手を抜かずに頑張っています。3月までは西日本新聞で「筑紫二郎の伝説紀行」を73週にわたって連載しましたしたから、そういう縁でこの席に呼ばれたのかなと勝手に解釈しています。
九重高原開拓史の主人公は、津福町出身で、明治の中頃難民救済に力を注いだ青木牛之助です。
縞織人生の小川トク女史は、同じく幕末から明治にかけて、久留米絣と並ぶ久留米地方の一大特産品であった「久留米縞」を創織した埼玉県出身の女性です。二人に共通するのは、大変個性豊であったこと、古里への思いを最後まで持ち続けた人間だったということです。二人とも、僕が惚れこんだキャラクターたちです。
本日は、二人の生き様を中心に、今日の久留米を築いた人間像を追うことで、皆さんに何か参考になることはないか考えています。
今から遡ること136年前、つまり1868年は、日本が徳川から明治に代わった特別な年です。ちょん髷が散切りに代わり、人々の価値観が大きく転換したときでした。
今NHKで放送している大河ドラマの「新撰組」は、268年間続いた徳川の武家社会にこだわる勢力と、新しい時代を構築しようとする人々が、命を懸けて戦ったドラマです。徳川慶喜や勝海舟、坂本竜馬、大久保利通、桂小五郎、西郷隆盛、そして近藤勇など、時代を越えて人々の心に残る人物が浮かんできます。江戸城を筆頭に、京都伏見の寺田屋や池田屋、函館の五稜郭など、事件と結びつく場所もすぐ浮かびます。
でも、その瞬間、ここ久留米はどうだったか、どんな人たちが何をしていたのか、久留米の町民はどのような価値観を共有していたのか、あまり語られることはなかったように思います。
本日お話しようとする小川トク女史は、明治維新のその瞬間に、久留米の土地を初めて踏んだわけですから、話を進めるにはうってつけの人物です。
明治維新の頃
江戸時代の久留米
小川トクは、明治維新の10年前に、20歳で久留米藩の江戸屋敷に奉公に上がり、その後久留米にやってきて、「久留米縞」を創始しました。天保10年、武蔵国宮ヶ谷塔村(現在さいたま市)に生まれ、その後生まれたばかりの赤ん坊を実家に残して江戸に出ます。そして、久留米藩の上屋敷内に奉公にあがりました。男社会に反発しての旅立ちだったようです。江戸屋敷は、上屋敷だけでも1万3000坪の豪邸で、中には、有馬の殿様や上級・中級・下級武士とその家族など4千人が住んでいたといいます。
彼女は、華やかな江戸の文化に触れ、幕末の武士団の動揺を現地でしっかり観察しました。老中井伊直弼が暗殺される桜田門外の変や藩内の徹底した倹約令などを目の当たりにし、今井栄や宗野末吉など、その後の久留米を背負う人物にも数多く接触していると思われます。その時の見聞が、知らぬ他国で女一人で立ち向かう力のもとになったことは間違いありません。
幕末を目前にして、地方大名は徳川の呪縛から開放され、家来ともども国元に帰ります。久留米藩も十二軒屋などに帰還藩士のための屋敷を造り、約300世帯がもどってきました。小川トクは、主人と一緒に久留米にやってきました。慶応4年6月末ですから、間もなく時代が明治に変わろうとするその時でした。最初に住んだのは、日吉神社の裏手の新廓という家老屋敷の跡地でした。
江戸時代は、1620年代からの藩主有馬氏の久留米城を中心に、南北に扇形に広がった典型的な城下町でした。
西暦1600年の関が原合戦以降、まず、三河国岡崎から田中善政がやってきます。自らは柳河城に居をかまえ、嫡男を久留米城におきました。田中善政は、着任早々有明海を干拓し、筑後川の中州である浮島・道海島・大野島の開拓を進めました。通称柳川街道は、その頃できたものです。
田中氏の時代はわずか20年間で終わりました。彼が参勤交代の途中で亡くなり、後を継ぐ男子もことごとく早死にしたためです。
代わりにやってきたのが、丹波福知山にいた有馬豊氏(ありまとようじ)です。石高を21万1000石与えられましたが、これは並み居る大名の中では中クラスといったところでしょうか。
筑後の有馬と筑前の黒田の殿さまは、筑後川の水を活用した水田の開発に大変熱心でした。その工法は、地球の引力を最大限に活かしたもので、城郭建築土木を応用したものだと言われれています。筑後川四大大堰といわれるものがその代表格です。
上流から、浮羽町の袋野用水、吉井町の大石・長野用水、朝倉町の山田堰と堀川(三連水車等)、田主丸と大刀洗町を繋ぐ恵利堰(床島)がそれです。
久留米藩は、農地の開発と並行して、付加価値の高い農産物や工芸品の開発・生産を奨励しました。
かすりなど織物(久留米・広川)・櫨や生蝋(浮羽)・和傘(筑後)・菜種油(浮羽)・和紙(三潴・八女)などです。藩は、これらの産物を全国に売って稼ぎました。あれもこれも、幕府への莫大な上納金に苦しむ地方大名が、自前で稼ぐ手段だったのです。
維新直後の久留米
小川トクが久留米にやってきて印象に残ったことは…。
城下町としての久留米は、お城から近い順に武家屋敷が、上級・中級・下級武士と連なり、そこに家老屋敷が散らばるという構図でした。町人はお城と武家屋敷に従属する形で配置されています。両替町・魚屋町・細工町・呉服町・八百屋町・紺屋町・寺町などいずこも同じ、わかりやすい町割でした。
維新直後の世情は、不穏な空気に包まれていました。あくまで徳川擁護を貫く藩主有馬頼咸(ありまよりしげ)に抗議して、尊皇派の家来たちは、重役の暗殺など過激な反対運動に走っていました。頼咸が旗色を変えると、新しく政権に就いた水野正名が佐幕派の重役を拘束して殺すなど血なまぐささが充満していました。
このような時期に、新政府は次々に新しい政策を打ち出します。
廃藩置県と藩主の版籍奉還、大名は藩知事に。その後、藩が県になります。
神仏混合の廃止。
大・小庄屋制の廃止。
武士に対する特権の排除など。
そして、不満武士などにより勃発した秋月の乱と佐賀の乱は、久留米の町を震撼させました。
久留米商人の台頭
維新当時、久留米の人口は、戸数が4000戸弱・人口2万人強ですから、小川トクもすぐに多くの人と顔馴染みになれたと思います。彼女は、江戸での厳しい体験を活かして織物産業の一角に食い込みました。女性が普段着や作業着として着用しているかすりより安くて強い織物をめざした「縞織物」の機屋がそれでした。
幕末から維新にかけて、久留米の商売人たちは、自由に商売ができる日を確信して、腕を磨きながらじっとその日を待っていました。久留米絣の職人や販売人たちがその代表格です。製作者では井上伝を筆頭に、大塚大蔵・牛島ノシなどがいます。販売人では、本村庄兵衛と魚屋から転進した国武喜次郎などです。歴代「槌屋」を名乗った倉田雲平の父倉田清左衛門もその一人だったでしょう。
からくり儀右衛門の異名で知られる田中久重は、伝とともに絵かすりの仕組みを考え出し、発明家として世に打って出ようとしていました。大工の棟梁宗野末吉は、横浜と京都で時計修理の技術を磨き、父から槌屋を引き継いだ倉田雲平は仕立物やから足袋職人への階段を登り始めていたのです。
明治六年の激変
明治5年から6年といえば、明治政府の新政策も軌道に乗り、旧藩士などの落ち着き先も定まってくる頃です。久留米城は、大手門や櫓、家老屋敷まで次々に壊され、城郭を形作る町出口の番所もなくなりました。
久留米の町は、三本松から苧扱川・原古賀へと旧柳川街道沿いに街が発展していきます。新しく商売を興そうとする人たちは、三本松から原古賀に通じる道筋とその周辺に次々に店を開きました。
米屋町に倉田雲平の「槌屋足袋店」。
苧扱川に宗野末吉の「宗野時計店」。
原古賀に山本平四郎が「牛・豚肉店」。
原古賀に「西洋料理店」。
赤司喜次郎、「赤司広楽園」。
中村勝次、呉服町に写真館。
野村生助、白山で活版印刷所。
川崎峰次郎は通町に籃胎漆器。
これらの新商売は、全国的に見ても最先端をいくものばかりでしたし、彼らは、幕末の不自由な時代に、出番をうかがいながら修行に励んでいた様子がよくわかります。
西南戦争と日清戦争
徳川の世が終るのと同時に井上伝がこの世を去り、田中久重は「世界の発明王」を目指して故郷を後にしました。
小川トクは、井上伝のかすりを参考にして、より庶民的な着物を提供しようと工夫しました。まず記憶をたどって武蔵国の長機(高機)を完成させます。経糸の原料となる糸は、通町の中島屋武助に頼んで大阪や鹿児島から取り寄せました。
機屋を開いた新廓の周辺には、見物客や弟子見習い願望の婦人が後を絶たなかったといいます。順調にいっていたはずの縞織稼業でしたが、明治十年に始まった西南戦争で久留米が重要な兵站基地になったため、出先をくじかれました。
西郷隆盛を旗頭にする薩摩軍と、今話題の有栖川熾仁親王を御旗にした政府軍が、正面からぶつかり、15000人もの戦死者を出して、半年後に政府軍が勝利しました。田原坂に掲げられた戦没者の名盤や保存されている官軍の墓を見てまわり、戦争の悲惨さを実感します。
でも、兵站基地に指定された久留米の商人は、金儲けのチャンスを逃しませんでした。
そのうちの代表的な二人を紹介します。
倉田雲平…先走って大損
次に、国武喜次郎…じっくり情勢を見てかすり王
戦争が終わって全国の家族のもとに帰る兵士たちは、貰った給金で久留米の土産を買いあさりました。それがかすりであったり縞であったり、籃胎漆器や宗野時計店の懐中時計だったりします。このあたりで商業都市・久留米の性格がはっきりしてきます。
大損をした倉田は、初心「足袋作りを天職とする」に戻り、一から出直します。国武喜次郎は、大金を手にして「かすり王」の異名を頂くことになりました。嶋屋での修行を終え、石橋家の養子となった徳次郎が、仕立て屋から足袋屋に転進して、三本松に「志まやたび店」を構えるのは、その後のことです。
小川トクの機屋家業も順調に発展し、織機が50台を超えました。そして、日清戦争。久留米はこの時から軍隊と同居する商業都市として位置づけられたといえます。