明治期のくるめんあきんど

久留米北ロータリークラブ講演原稿

日時:2018年(平成30年)8月9日(木曜) 正午~
会場:久留米萃香園
受講:約70名



① 挨拶・序章

 私の年齢は丁度80歳。年齢を2倍すると『160』になります。そこは、江戸時代末期=明治維新前夜の舞台ということになりましょうか。
私の祖母が生まれたのが明治7年と聞いていますので、江戸から明治に変わってすぐのことです。当時の我がふるさとの景色はどうだったのだろう、民はどのような暮らしをしていたのだろうかと思い、明治初期の久留米の街を見直すようになりました。
祖母の話だと、彼女が物心ついた時、街は丁髷(ちょんまげ)と散切(ざんぎり)が半々だったそうです。
実は、この時久留米は、城下町から商人の街に大転換の真っ最中にあったのです。

② 明治初期の久留米の起業


 当時、街ではこれまでになかった商売が一気に芽を吹いていました。商売人は、殿さまやお武家さまのための商いではなく、町民・農民のための商売に移り変わっていたのです。
1868年(慶応4年=明治元年)を境に、お城を巡る濠が埋められ、城下との区別が取り払われていきます。
その頃には、川崎峰次郎の籃胎漆器への試みと、山本平四郎の牛・豚肉販売がスタートをきっていました。つい数年前までの町民にとって考えられなかった商いです。そして明治6年。宗野末吉の西洋時計店を皮切りに、現在に続く商売が本格化していきます。
この時期、魚屋からかすり売り転身した国武喜次郎と、小川トクが久留米の町に舞い降りた時期が重なります。

③ 久留米縞の特徴

 久留米縞と久留米絣はどこがどう違うのでしょう。
 まずは、生地が強いということです。だから、野良着にも力仕事や商売人にもうってつけということになります。
 2番目に値段が安いということ。原料となる糸も、紡績糸や唐糸(輸入糸)などを使うし、柄が縦筋・横筋・格子柄と比較的単純なため、製作時間が少なくて済みます。
 染色に使う藍草も、地藍(筑後川周辺で栽培)や四国の阿波産に限ったために、剥げにくく上品で、消費者の気持ちを引きつけました。つまり、庶民性と色彩的優雅さに優れていたということです。
 加えて、二子織と絹糸使用(紡績糸)で華やかになり、久留米から外への輸出(販売)も容易になりました。

④ 久留米縞・絣生産高比較

 久留米縞を久留米絣と比較して生産高はどうだったのでしょう。
 明治30年前後には、久留米絣の半分にまで追い上げています。
 絣同様、日清・日露戦争と大陸進出で、生産量は飛躍しました。
 大正10年前後には、絣を逆転しました。物価高騰で絣の生産を一時中止したためです。

⑤ 小川トクの紹介


 久留米縞を創出したのは、さいたま生まれの小川トクです。
 トクは、維新から20年前の天保10年に、現在のさいたま市見沼区宮ヶ谷塔というところで生まれています。この年には既に、久留米がすりの絵がすりが大塚太蔵という人によって考案されています。
 万延元年(維新の8年前)トク20歳の時、単身江戸に出て、久留米藩江戸上屋敷(戸田角左衛門邸)に女中として入っています。
 明治改元の年(1868年)、主人の要請で久留米にやって来ました。30歳です。その9年後(西南戦争時)に、縞織り機屋(小川商店)を開業しています。
 その折、さいたまで覚えた縞織り記憶をたどって、織機、諸道具、二子織、絹糸・紡績糸を駆使した織り方などを独自開拓し、久留米に新しい風をもたらしました。

⑥ 久留米縞の出発点 新廓

 トクの久留米での出発点は、日吉神社裏手の新廓でした。主人の家の居候です。新廓には、20戸の屋敷が造られた。今も面影が残る。
彼女は、そこで機屋を開業し、織り子を雇って縞織りを始めたのです。それは、久留米に長居するための、生活の手段でもありました。

⑦ いざり機と高機


 すべてが記憶の掘り起こしから始まるのですから大変です。
 井上傳が使用していたいざり機(写真左)は、長時間労働をするには大変です。そこでさいたまで使っていた長機(写真右)を、蛍川の大工の腕を頼りに再現しました。糸に撚りをかけるための糸車の製作には、当時久留米にいた田中儀右ヱ門の知恵を借りました。
 現在、福岡県工業技術センター・化学繊維研究所では、久留米縞の復元作業が進められています。9月ごろには、試作が可能だと聞いています。
明治初期の久留米の産業を支えた久留米縞は、ともすればこれまでの技術や人に閉じこもりがちな土地柄を打ち破った小川トクの頭脳がなしえた実績だと言えましょう。
ぜひ、本サイト「まぼろしの久留米縞・小川トク伝」をお読みください。

⑧ 国武喜次郎略歴

 国武は、叩き上げのあきんどである。
 先輩(本村庄兵衛・井上伝等)の教えを存分に取り入れる。
 他国の先人(近江商人)との連携、技術の吸収。
 情勢を読む(維新・西南戦争・技術革新・原料の仕入れ等)

⑨ 国武の戦略基地

 転機は西南戦争。戦後に照準を合わせた買い占め。
 戦争帰りの兵に土産品販売。
⑩ 工場と井上伝ポスター
 最も正確な井上伝の肖像とかすり。
 国武丁と呼ばれた縄手地区の工場群。

結論
留米商人とは・・・
① 「雑草も生えぬ」は=えげつない。西南戦争以降の、みやげ品に粗悪品を売り付けたやりかた。
② 国武・トクに見られる、他人・先輩等の経験や技術を柔軟に取り入れる度量です。

 

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