講演会名:筑後川と久留米・観光資源学習講演会
主催:NPO千歳の会
演題:筑紫次郎(筑後川)の歴史と民話
日時:2017年11月12日
会場:くるめりあ六つ門 6階会議室
➀挨拶(問題提起)
私は、久留米(荒木)で生まれ、昭和32(1957)年に久留米商業高校を卒業後、地元の民間放送(RKB毎日放送)に就職した元サラリーマンです。中学時代は、マラソン選手として有名な中尾隆行君らと朝から晩まで高良台の山坂を駆けまわっていました。高校時代は、このビルの真下にあった大勝館あたりで映画ばかり観ていました。
就職後の人生は波瀾万丈でしたが、なんとか会社を努め終えて、現在に至っています。
主催者から与えられた演題は「筑紫次郎の歴史と民話」です。最初にお断りしておきますが、私は歴史の先生でもないし、筑後川の専門家でもありません。ただただ、長く生きてきて、筑後川周辺を歩きまくった経験をご披露するだけの素人なのです。
私のホームページ
定年後は、筑後川と向き合い、ホームページの作成と伝説紀行・「くるめんあきんど」執筆に明け暮れてきました。
「経験」とは、会社定年後ひたすら継続してきた、筑後川を主題とするホームページの更新です
私のホームページ「筑紫次郎の世界」を紹介させてください。中でも「伝説紀行」は、これまでに345編をまとめました。高校卒業以来続けてきた集大成です。定年後は、現場と図書館、役所などを動き回っていました。
具体的には、民話をただの作り話で終わらせないで、歴史と地理など科学的検証を与えて物語を構成していくことでした。流域に伝わる民話・伝説を拾い集め、伝承の現場に赴いてそれを実証することです。実証がかなえば、ホームページ(筑紫次郎の世界)に掲載します。
ホームページの人気ベストテンは
このところのアクセス傾向は次のようになります。つまり、読者から愛されているページのことです。
「大刀洗(たちあらい)」の地名由来(大刀洗町)
①耳納山(みのうさん)の名前の由来(旧田主丸町)
②玉鶴姫の意地(柳川市)
③まぼろしの温石湯(おんじゃくゆ)(久留米市)
④五人庄屋(うきは市)
⑤鍋子姫(なべこひめ)の墓(大牟田市)
⑥御井寺(みいでら)の縁切り塔
⑦安徳天皇終焉の地
⑧山の井堰の人柱(八女市)
⑨七木(ななき)地蔵尊の由来(久留米市長門石)
⑩惚れ地蔵(九重町)
筑後川と久留米の自慢話(HP制作の動機)
東京支社勤務時に、同じ境遇の他県から来た仲間とふるさと自慢をしあいます。私は、まずは筑後川のことをしゃべりました。
• 日本の三大暴れ川(利根川・吉野川と並び)の一つですもんね
• 源流の阿蘇・九重から有明海まで、どこでん景色がきれいかとですよ
• 大川があるお蔭で、米や野菜や果物もいっぱい採れるし・・・。そうそうゴム三社もあるとです
と。
すると、よそのお国のお方は決まって首をかしげます。
• 「暴れ川」と言われても、それは当時の筑後川の川幅が狭くて、川が蛇行していた時代のことでしょう。明治以降になると、蛇行部分のショートカット化やダム建設・河川敷の整備や護岸工事が進んで、暴れ具合もむかしのようではないのではないですか。もっとも、今年の九州北部豪雨では、むかしの暴れ川が再現されたようですが。流木被害と蛇行被害では、どこか本質的に異なります。
それに、「幹川の流路延長距離」が142キロの筑後川より、長くて太い川は日本にはいくらでもありますでしょう。例えば、石狩川・北上川・信濃川・木曽川など。
米・野菜・果物がたくさん採れると言われても・・・
と一蹴されました。言い返す言葉も私には見つかりませんでした。
それでも、なんと言われても、私にとって筑後川はやっぱり、日本一すばらしい川なのです。筑後川と共存する久留米地方(筑後地方)は、やっぱり日本一住み心地のよかとこですよ。
筑後川には妖怪がいっぱい
私は定年後、「いつでも誰にでも、自慢できる筑後川」を誰にでもどこででも自信を持って話せるよう勉強しようと考えました。そのためには、長い人々の暮らしから生まれた文化、中でも口承文化(こうしょうぶんか)を探して回ろうと考えついたわけです。
各地に保存されている「口伝え遺産」をクローズアップできれば、それすなわち、何よりもすてきなお国自慢になると思いました。
考えてみれば、筑後川にはどこよりもカッパがうようよしています。そんなことが頭に浮かんだのは、会社定年を数年後に控えた50歳台の頃でした。
筑後川周辺に出没する妖怪
筑後川には、全国共通の妖怪たちがたくさん棲んでいます。
妖怪とは・・・人知では解明できない奇怪な現象、または異様な物体。化けもの。
筑後川の妖怪は、そのいずれもが個性豊かなキャラクターばかりです。言い換えれば、彼らはこの地方の歴史や文化の継承者であり語り部だったのです。
• カッパ・・・平家落人の化身と言われ、水天宮を拠点にして巨瀬川など筑後川周辺の中小河川に多く棲息しています。陣屋川、金丸川、宝満川、矢部川などなどです。
• 天狗・・・人間の手の届かない大木の頂上に棲み家を構え、魔法のうちわを武器にして、ときたま地上に降りてきます。カラスに似たくちばしと高下駄が特徴です。
• 大蛇・・・主に農業用水の管理権を主張して、農民の暮らしに関わっています。大きな湖やため池などに棲んでいます。
• 鬼・・・桃太郎伝説同様、ときどき人間社会に出没します。「あの人は鬼のように怖い人」なんて言われる嫌われ者です。見るも恐ろしい顔と2本の角が特徴で、人間社会に悪事をもたらす存在でした。筑後では、耳納山や大善寺の玉垂宮、高良山などに見られます。
• 山姥・・・山深い場所で、親切面(しんせつづら)を見せながら餌食(えじき)となる旅人を待つ毒蜘蛛みたいな妖怪。一方、婆は深山(みやま)を支配する妖怪とも言われます。朝倉-耶馬溪などに見られます。
まずはカッパから
まずは、代表者たるカッパから。
カッパ伝説は日本全国至る所に存在します。でも、筑後川周辺のカッパはちょっとばかりリアルです。
識者からは、筑後川のカッパには二つの系統があると聞かされてきました。
• 一つは、壇ノ浦で消滅したはずの平家一門が、カッパに姿を変えて再び人間社会に出現した。それも、筑後川に。
• もう一方は、大陸から渡ってきて、熊本県八代市に上陸した後、有明海を伝って筑後川周辺に住み着いたとする説。
小難しい理屈はさておいて、私たちのご先祖が長年にわたって伝えてきた「カッパ伝説」には、それなりの必然性があったのです。
水天宮と巨瀬川の平家カッパ
筑後川の支流である巨瀬川(こせがわ)の最上流部に「高西郷(こせごう)水天宮」と称する小さなお宮さんが建っています。この社、平清盛の化身・九十瀬(こせ)入道を祭ったお宮さんなのです。壇ノ浦で破れた落人が住み着いた場所だということから、平清盛の化身カッパが君臨したとして伝承されました。
久留米の水天宮は、壇ノ浦合戦で敗れた平家落人の女・按察使局(あぜちのつぼね)が、筑後川岸に逃れてきて、1190年(建久初年)に祭ったのが初めだと伝えられています。祭神は壇ノ浦に入水した安徳天皇と祖母の二位の尼などです。
そんなことから、後にカッパに化身した二位の尼と巨瀬川の清盛カッパが伝説となって後の世に伝えられたものでしょう。
渡来カッパ説
もう一方の「大陸から渡来したカッパ」説は、八代地方ではまことしやかに伝えられてきました。球磨川が八代海に流れ込むあたりには、「河童渡来の碑」が建っており、何匹ものカッパがルーツを懐かしむように東シナ海方向に目を向けています。
彼らは、渡来した後、球磨川と有明海に入り、広範囲に散らばっていったということでしょう。筑後川とその支流、矢部川などに「棲息」するカッパたちのルーツをたどれば、中国大陸かもしくはヨーロッパにまでいきつくかもしれません。
田主丸のカッパ
数ある田主丸カッパの代表格が弥五郎です。相撲が大好きだと評判ですが、人間の女性にすぐ惚れてしまうのも悪い性分でした。街の中の後家さんにちょっかいをだしたばかりに、巨瀬川に架かる樋の上で昼寝中に落下してしまい、大切な命までなくしてしまいます。
泳ぎが得意だったはずのカッパが、どうして溺れ死んだのか。惚れやすさが命取りになる「油断大敵」の教訓です。
最近まで、浮羽工業高校脇に、死んだ弥五郎の供養の石碑が沈んでいたそうです。また近くの川岸に九十瀬入道(こせにゅうどう)を懐かしむ石碑まで、しっかり残っています。
用水を仕切る大蛇(おろち)
カッパの次に数多く登場するのが大蛇(だいじゃ)です。
杷木町の「逃げた大蛇」は、この度の九州北部豪雨で大きな被害を受けた赤谷川支流の乙石川沿いの中村地区から見上げる山頂の池(塔の瀬池)に棲んでいました。
農民にとって天から降る雨は、今回のように恨めしい災害をもたらすこともありますが、雨が降らなかったらこれまた大きな悲劇を生みます。水田に水がなければ米が作れないからです。農民が水を管理する池の主(大蛇)の嫌うこと(光り物を投げ込むなど)をしたものだから、大蛇は恨んで雲に乗り耳納山を越えて行ってしまいました。
行き着く先は、山の向こうの池の山(麻生池)。どんなに雨が降らなくても枯れることのない池です。
困った農民は、連れだって池の山まで雨乞いに出かけました。
宮の陣八丁島の「御供納(ごくおさめ)」も、農民にとって一番大切な水の話です。江戸時代、久留米を発って江戸・大坂に旅する人は、古賀茶屋(こがんちゃや)で家族との別れを惜しみました。
その古賀茶屋で旅籠を営む爺さんのところで働く女。実は天神堀の大蛇でした。彼女は、生まれたばかりの子供に、お乳かわりに自分の目玉を与えて池に戻ります。その後に待ち受ける悲劇。
意地悪な若者が、目玉を盗んだからさあ大変。目玉なくては生きられない赤ん坊は死に、旦那も跡を追いました。恨んだ池の主が報復にでました。村に一滴の雨も降らなくなり餓死者が相次ぎました。旅籠の爺さんは、命をかけて池の主にお願いします。
ようやく聞き入れた大蛇は、二つの目玉を受け取ると、夫と赤ん坊が待つ天国へと旅発ちます。その後に、村一帯に恵みの雨が。
山姥と鬼
「伝説」には、山姥も欠かせません。
筑後川周辺でおなじみは、「玖珠の山姥」です。玖珠川から更に北に進むと日出生台演習場のあるあたり。山深いところで善人面をした婆が旅人の立ち寄りを待ち受けます。獲物がかかったら殺して食べるのです。まるで蜘蛛の巣を張ってじっと待つ毒蜘蛛みたいな妖怪です。これまた、人間の手の及ばない山中では、生態系ならぬ大自然の秩序を保つために必要な存在かもしれません。
今回の豪雨で有名になった朝倉市の赤谷川には、「星丸の山姥」がいます。
鬼の噂も賑やかです
高良山の中腹を巡らす神籠石をご存じでしょうか。あのような巨石を誰がどこから運んできたのか疑問はつきません。お話によると、高良山に棲み着いた鬼たちだという説。高良大明神の知恵で、見事鬼を追い払います。
そのほかに、大善寺玉垂宮の鬼(桜桃沈輪)、榧の木物語の霊木鬼など。
キツネとタヌキ
筑後川周辺では、キツネと狸が人間との間で化かし合う話がたくさんあります。
城島町では、最近まで婚礼の日にキツネのための陰膳をつくって玄関先に置く風習が残っていたそうです。酒蔵や瓦製造が盛んな職人さんの多い土地柄をよく表しています。
人間をだますキツネの構図を逆にして、人間がキツネをだましにかかります。
その後にまたキツネの逆襲が。婚礼の晩、ご馳走の中に馬の小便を混ぜたりして。そこで、婚礼のある家では、キツネのための陰膳をこしらえて玄関先に置くようになりました。翌朝見るとお膳の中のご馳走はきれいになくなっていて、皿の上に木の葉が1枚載せられていたって。
キツネに劣らずタヌキも、人間の「人の良さ」につけ込んで悪さをする古狸。
朝倉郡筑前町(旧三輪町)には、阿弥陀ヶ峰と呼ぶ村落があります。村の中程にはそれとすぐわかる阿弥陀堂が建っており、中には金箔を施した阿弥陀様が座っておられます。
お堂の裏山に住む古狸が、その阿弥陀さまに化けて村一番の器量よし娘を差し出せと言ってきました。困り果てた村人たちに巡礼中の娘が身代わりを買ってでました。阿弥陀さまに化けた古狐の裏をかく巡礼娘が考えた作戦とは。
さあ、歩いてみよう、筑後川を
筑後川を、日本中が注目してくれるようにするにはどうしたらよいか。そのために、お話ししてきた流域文化の面から、まず地元民が足下の生まれ故郷と現在の居住地を好きになることです。
私は、筑後川流域を隈無く見て回ることで、皆さんにそれぞれの地元の自慢話を語ることができるようになりました。
日本中のどの河川にも劣らない、豊富な資源と文化を有する筑後川流域を、源流から河口まで見て回ることから始めて見ませんか。
• 阿蘇外輪山から有明海まで見て回ろう。丸山豊と団伊久磨の「筑後川」が聞こえてくるよ。
• 新緑から紅葉まで、見飽きることはない。阿蘇の温泉群、杖立・天瀬など大自然の中の温泉が、疲れを癒やしてくれる。
• 九州北部豪雨で被災した日田-朝倉では、豊富な森林資源と、襲い来る大自然の猛威をこの目で確かめることもできる。
• 日田盆地から筑後平野に下りてくると、江戸時代の灌漑用水にかけて農民の苦労を体感する。袋野-大石・長野-山田井堰と堀川・三連水車-恵利堰
• 地元久留米周辺では、戦前戦後を通じて、筑後一円の中心地であった久留米の位置づけを確認する。高良山信仰-商業地としてー木綿・ゴムなど工業生産拠点として。
• 城島付近に近づくと、穀倉地帯を形成するクリークが目につく。
• 河口が近づくと、上流からの土砂が堆積して中州を造って行く様子がわかる。
• 筑後民(久留米藩)が、都(大坂蔵屋敷)や日本全国(北前船)、大海原を渡って世界へ進出するために、大川から有明海に出る道筋を見ることができる。
• 有明海の干潟は、筑後川などから流されてきた山の遺産である。ムツゴロウ・アゲマキ・タイラギ・クツゾコなど。
筑後川の良さは、ある部分だけを切り取っても、なかなかその価値を見いだせない。
目的意識的に、全体を目視することではなかろうか。
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