伝説紀行 北向き観音  大川市


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第251話 2006年04月02日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

捨てられて、救われて///・・・

北向きの観音さん

福岡県大川市

「おふろうさん」で有名な風浪神社の近くに、願船寺(がんせんじ)という小さなお寺が南を向いて建っている。車がやっと1台通れるほどの道を挟んだ反対側には、お寺と向き合う形で質素なお堂が見えた。ガラスごしに覗いてみると、お堂の中には仏さまが行儀よく横一列に並んでらっしゃる。真ん中のご本尊は、木造の観世音菩薩立像。この観音さま、世の荒波にもまれなさったとみえて、宝冠も被っておられないし両の(ひじ)も?(も)げたままだ。木像観音の右横には石で造られた観音像が。右端は真っ赤な炎を背負った不動明王、そして左端には石造りの弘法大師像が。写真は、北向きの観音堂
 村の人に訊いてみると、北を向いた観音さまはいたって珍しいとのこと。

納屋の隅の壊れた観音さま

 時は明治の初め頃。江戸から明治へ大きく時代が変わっていく中で、新政府が打ち出した「神仏分離令」とか、「廃仏毀釈」とかいった、庶民の心の支えを根こそぎ奪ってしまう政策が強行された時代である。
「ありゃ、こりゃ何の?」
 北酒見村(きたさけみむら)(現大川市酒見)に住む大工の水田重三郎さんが、願船寺の手伝いをしていた時のこと。納屋の隅で薄汚れた木造の観音像を見つけた。宝冠すら被っていないし、右左の(ひじ)ももぎ取られたままだ。写真は、観音堂
「三角堀に捨ててあったものを拾ってきたんじゃよ。どこかの寺が罰を恐れて捨てたものじゃないか」と住職は言う。風浪神社境内にあった観音寺もこの度のお達しで壊され、今は跡形もなくなった。
「そこで重三郎さんに相談があっとたい」
「はい?」
「わしも寺の住職ちいうこつで、何かとお上に目をつけられとるけんな。そいばってん、観音さまをどこやにまた捨てたりもようでけん。しばらく、お前が預かってくれ」
 住職さんは、門徒の重三郎さんに何度も頭を下げた。

神仏分離令:慶応4年から明治元年にかけて出された太政官布告・神祇官事務局達・太政官達など一連の通達の総称。明治以前、修道など神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教の境をはっきりさせたこと。
廃仏毀釈:明治初期に仏教を排斥し、寺院・経文などを破り捨てたこと。

石工に頼んで・・・

 仕方なく観音像を預かってきた重三郎さん、どう処置したらいいものか悩んだ。それから7日目の朝方、枕元に預かってきた観音像にそっくりの菩薩さまが立たれた。
「よく聞け、重三郎。そなたは大工ゆえ、なくした私の両肘を作るように」
 日ごろ篤い信仰を捧げるお方の言いつけである。ありがたく受けなければならない、のだが…。
「俺は確かに大工ばってん、あなたさまの両の肘がどんな形をしていたものか」
「それは…」
 観音さまは、更に枕元に近寄ると、囁くように知恵をお授けなさった。
 翌朝重三郎さんは、仕事仲間の石工の又五郎を訪ねた。
「俺の腕じゃ、観音さまなぞとても彫れん。又五郎、頼むからお前が石で彫ってくれ」
 親友に頼まれては嫌とはいえない又五郎、三七・21日間、文字通り睡眠時間を節約して鑿(のみ)を打ち続けた。
「でけた!」又三郎の奇声が上がった。駆けつけた重三郎、彫りたての観音さまと対面して思わず涙がぽろり。
「よし、こうなりゃ、俺さまが観音さまのお家を建てなきゃな」

仏を捨てる者はかお見とうない

「ところで、重三郎に一度訊こうと思っとったが。だいたい仏さまは、西向きに座ってもらうもんじゃなかか。それがよ、おまえが建てた観音堂は北向きたい。これじゃ、観音さまが腹かかっさるじゃろもん」
 又五郎の疑問はもっともである。重三郎はしばし考えた末に、きっぱりと。
「観音さまはよ、南ば向きとうなかげなたい。長い間南酒見の者たちの願い事ば聞いてきてやったばってん、役人が仏を捨てろと命令すれば簡単に三角掘りに捨ててしまう連中の顔てんなんてん見とうもなかげなち」
「北向きなら納得なのか、観音さまは?」
「ああ、北の方角には、堀の中から救ってくれた願船寺の住職がおる。それになにより、北酒見村のもんはみんな優しかし、信仰も深か…」
「お前や俺みたいにか。わかったわかった。明日は新しか石の観音さんに魂ば入れてもらう日じゃけん、今晩は酒は飲まんで早よう寝よ」(完)

 物語の「酒見村」は、大むかしには「鷺見(さぎみ)」と書いたそうな。それがなまって、「さけみ」になったんだと。神功皇后が朝鮮から戻ってきたとき、美しい鷺に案内してもらったという故事にならっての地名らしい。そういえば、願船寺の近くで、皇后が到着した場所と書かれた祠を見たな。
 肘なし観音さまと石造り観音さまを祀る願船寺を探すのに、何人もの方に道を尋ねた。畠を耕すお百姓さんは、「願船寺ならあそこ」と道順を教えてくれる。歓談する3人連れのお年寄りも、「あそこたい」と人差し指を一生懸命伸ばして示してくれた。村の人たちにとっては慣れ親しんだお寺でも、僕には狭い路地がますます方向感覚を狂わせてしまう。
 探し当てた寺は、なるほど村の人たちが集まりやすそうな、親しみを持てる佇まいであった。木と石の2体の観音さまと弘法大師、それに不動明王。この観音堂にお参りすればいっぺんにたくさんの願いごとが叶いそうで、思わず手をあわせた。
 明治維新時の神仏分離令とは、仏に仕える人や信仰する庶民に、筆舌に尽くせない苦痛を与えたんだな。為政者は、どんな時代にあっても、「○○宗教を信じろ」なんて言ってはいけないのだ。たとえ、自分が信奉する靖国であってもだ。

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