成富兵庫と蛤水道
稚児落としの滝
佐賀県吉野ヶ里町(東脊振村)
背振山中の蛤水道
参考資料
成富兵庫の軌跡
背振山地から佐賀平野を通って筑後川に流れ込む河川の一つに、田手川がある。背振山地の蛤岳(標高863b)を水源とするこの川は、佐賀の農民にとって欠かせない用水の供給源である。蛤岳の中腹からは、「蛤水道」と呼ばれる人工の河川が田手川本流までの中継ぎをしている。
江戸の初期に佐賀藩の重鎮だった成富兵庫茂安の設計による蛤水道には、当初から不思議なことが付きまとっていた。毎年秋になると、農民は「井手溝公役」と呼ばれる溝さらえの作業に駆り出されるのだが、その日に限って雨が降り、作業が延期されたりするのだ。雨は降らないまでも、天気がよかったためしがないと農民は嘆く。
「あれは滝に身を投げたお万さんの怨霊がにくじ(嫌がらせ)ばしござると」と、実しやかに伝えられてきたものだ。
蛤水道
この水道は、成富兵庫茂安の三大事業のうちの一つで、田手川の水量が不足するため、元和年間(1615〜23)、脊振山地の一角・蛤岳に水路150m.を造り、大野川から筑前に落ちる水を引いた水道である。
現在の水路はコンクリート水路に改修され、約1077mもあるが、、随所に昔の工事のあとが見られる。道の終点の右手に成富兵庫の水功碑が建っている。
(水路脇の案内板より)
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大野川に水が流れなくなった
時は江戸時代初期の元和年間(1615〜24年)。ところは、背振山地を分水嶺として博多の街に流れこむ那珂川(なかがわ)の最上流に位置する五箇山(現在は五ヶ山と書く)村。五箇山村は、綱取・道十里・桑河内・大野・東小河内の枝村からなっていたのでついた名前だそうな。その一つ、大野村では、「あーじゃない」「こーじゃない」の大論争が巻き起こっていた。騒ぎというのは、去年あたりから村中を流れる大野川が枯れてしまったことによる。わずかばかりの段々畑で米を作る農民たちにとって、河川の枯渇は生き死に関わる重大事件なのだ。
写真は、ダム建設前の五ヶ山の集落(現在福岡県那珂川町)
原因を探ろうにも、水源の蛤岳(863b)周辺は佐賀藩の領地であり、福岡藩に属する五箇山の者が無断で立ち入ることは許されない。そんな時猟師の竹吉が、佐賀藩の仲間から大変なことを聞いてきた。蛤岳から流れ出す水が筑前側に行かないように、堰き止められたというのだ。
「何のために!」、農民たちの怒りが沸騰した。だが、水の流れを取り戻そうにも、他国には入れない。那珂郡役所に「何とかしてください」と願い出ても、応対する役人は「そげなこつぐらいで、忙しか時に・・・」と相手にもしてくれなかった。彼らも、お城を巻き込むような危険な相談は避けたいのが本音だった。
稚児を背負って他国の山中へ
「自分らで蛤岳に潜入して、堰を打ち破ろう」ということにはなるのだが、「それじゃ誰が」というと、皆んな尻込みしてしまう。
幼子を投げ落としたという「稚児落しの滝」
「あたしがやりまっしょ」
それまで黙って話を聞いていた女が手を上げた。昨年亭主に死に別れて後家になったお万であった。お万は、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている。
「ばってん、おまえのごたるおなごじゃ、佐賀藩の山役人ば相手にはでけんじゃろ。それに、乳飲み子の赤ん坊はどげんすっとか?」
お万は、他人が心配するほど極まっている風でもない。
「女じゃけん相手も油断するとたい。赤ん坊はかろうて(背負って)行きますくさ」
「ほんなら行ってきますけん」
しばらくたって、赤ん坊を背負ったお万が佐賀藩領地の小川内村に入っていった。
「一か八かたい」
夫の死後でもあり、自分と赤ん坊が他国の侍に殺されるのならそれはそれでもかまわないと考えている。まかり間違って、再び大野川に水を取り戻せたなら、お世話になった村の衆に恩返しができるというもの。いずれにしても、お万の胸中に、生きて再び帰る気持ちなど微塵もなかった。
佐賀藩が水の流れを変えていた
雑草と倒木を掻き分けながら一時ばかり登ると、急に目の前が開けた。そこには広い水溜りができていてまるで池のよう。案の定、池の周囲の強硬な土塁が、大野川への流れをせき止めている。
下流の田手川
見張りに気づかれないように土塁を伝っていくと、あった、人が築いたらしい溝に大量の水が送られていた。肥前国が、本来なら大野川に流れ込む水を、人手で築いた肥前側の水道に導いていたのだ。
お万は、大きな岩陰に隠れて夜がくるのを待った。ところが、それまで静かだった背中の赤ん坊が泣き出してしまったからたまらない。途端に、見張り小屋から3人の侍が躍り出た。写真は、蛤岳への山道
「曲者だ!」、侍たちは刀を抜いてお万に迫ってきた。お万は必死で逃げた。その間、背中の赤ん坊の泣き声はますます大きくなる。
「まだ死ぬわけにはいかぬ」
お万は、赤ん坊を草むらに寝かせると、せき止められた土塁と石をはねのけた。
母子は滝壺に・・・
10日経っても、お万は五箇山村に戻ってこなかった。そのうち郡役所の役人がやってきて、
「先日福岡のお城に佐賀藩の遣いが参ってな、せっかく佐賀藩の成富兵庫殿が築かれた水道を、目茶目茶にしようとした女がおると抗議していった」と告げた。見張りの役人が女を捕えようとしたが、逃げまくって近くの滝に飛び込んでしまったと言う。
「女は乳飲み子を背負ってなかったか、聞いていませんか?」
役人の話を聞く村人は、女がお万ではないかと訊きなおした。
「女は乳飲み子を草むらに置いたまま滝に身を投げたそうな。見張りは赤ん坊を国境まで連れてきて、身内のものに返そうとしたのだが、あまりに泣き叫ぶもので喧しくて、近くの滝に投げ捨てたんだと」
「可哀そうに…」
村人が涙を流して悔しがっているのを尻目に、役人は、それ以上ややこしい話には関わりたくないと言いたげにさっさと帰って行った。それからひと月ほどたって、国境付近で狩りをしていた竹吉が、滝壺に浮いている腐乱状態の赤ん坊の死体を見つけた。
村人は、お万母子を懇ろに供養することにした。お万が隠れていた大きな石を「お万どまり」、飛び込んだ滝を「お万の滝」、赤ん坊が浮いていた滝を「稚児落しの滝」と名づけて、永劫に忘れないよう誓い合ったそうな。(完)
お話の五ヶ山村は、背振山地から福岡市に流れる那珂川の最上流部にあたる。国道385号を南下して、南畑ダムを通り過ぎるあたりから県境の坂本峠までを指す。那珂川の水の大半は、背振山地の水が背振ダムでひと休みして、大野地区の北側を通って南畑ダムに流れ込むから、大野地区の農業用水には那珂川は役にたたない。赤ん坊が浮いていた「稚児落しの滝」はその那珂川の途中にあった。地元の方の話だと、上流に背振ダムができるまで、文字通り怒涛逆巻く渓谷だったそうな。
当時村全体の戸数は54だったと記録されている。それも10軒、5軒と散っていって、やがて深山幽谷の地となった。
さて蛤水道とは、蛤岳7合目の中腹に造られた全長1260bの人工水路である。現在はコンクリートのU字型をした溝になっていて、造られた当時の面影はない。また、水を溜めたという人工の池も、高い草に覆われていて、わずかに残る湿原だけが当時を連想させてくれるだけ。
この水道を考案・設計したと言われる成富兵庫茂安と言う人は、佐賀領内の農業を助けた偉人の一人だそうな。地元では、兵庫殿への感謝の気持ちを忘れないようにと、「兵庫祭り」を毎年執り行っている。その時、皆んなで蛤水道を掃除したり、水路のそばの雑草を取ったりして、大事に保存しているとのこと。
今年こそ、雨が降らなければよいが・・・(2005年3月21日)
何度目かの五ヶ山村訪問だったが、あまりの代わりように唖然とした。ここに巨大な「五ヶ山ダム」ができるそうで、以前うかがったとき健在だった小川内小学校や点在する民家もすっかり取り払われた後であった。樹齢を重ねた夫婦杉で有名なお宮さんも、山のてっぺんに引越し済み。わずかながらでも、当時の風景をデジカメで保存していたことでほっとした。
蛤岳へはそこから更に登っていかなければならない。車道からの登り口には「更に1キロ」とある。野鳥のさえずりだけが、自分が生きている証に思える自然のど中である。お万の行動力を思い返しながら、蛤水道を奥へ奥へと突き進んでいった。
途中、山中に置いてきた愛車のことが心配で、今回も頂上までたどり着けなかった。(2008年10月5日)
現在の五ヶ山ダム 2018年3月26日撮影
あれから10年経って、五ヶ山村を訪ねた。もうそこには稚児落としの滝も村落もすっかり姿を消していた。懐かしい夫婦杉も、やっこら山頂付近に引っ越したとのこと。替りに、巨大な福岡県営の五ヶ山ダムが行く手を阻んでいた。
福岡県民は、これから水不足の心配はなくなったとお偉いさんはおっしゃるが、一方の佐賀平野の農家はどう思っているのやら。(2019年3月26日)
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