読後感想文

KYさん
男性 福岡市在住

  前作(たび屋の雲平・織屋のでん伝)2作と合わせて読み返してみて、そこに通底する作者の、郷土の先達に寄せる敬愛の思いに打たれました。深化はあってもぶれない。採るものは採る、採らないものは採らない。この節度が、主人公たちに対する優しい目配りになり、平明で達意の文章によって、爽やかな読み口を醸しているのだと再認識しました。
例えば、トクと清吉の悲恋。時代と因習に拘泥すれば、また別の男と女の物語が垣間見られるかもしれない。しかし作者は踏み込まない。トクの生涯を語るには邪魔だと判断したからでしょう。利害の絡み合う同業組合の内紛や、その火中でバランス感覚を発揮する大石平太郎の人間味についても然り。語らせない。眺めさせるだけ。感じさせるだけ。そのストイシズムやよし。
 しかし私は、作者があえて踏み込まない部分を補って読む楽しさも、堪能させてもらいました。ウェルメイドな物語は、読む者の想像力を掻き立てて、独り歩きをするものです。

 以下、そんな楽しみのあとを交えつつ、読後感を書き散らします。と言っても、一読した時に余白にメモしたものを敷衍しただけの、とりとめもない感想です。

―序章―

○小川トクの〈帰郷〉を聞きつけた新聞記者の訪問から始まる導入部が、出色。
  トクの謙虚な人柄、帰郷を決心してなお揺れ動く心の陰影。ひとたび「縞」を語りだしたら、  意を尽くして説明する誠実さ。織り機の今昔、双子織の製法―。作中の人物に語らせるの  がうまいなあと、しみじみ感心した。

―第2章―

○生国武蔵国宮ヶ谷塔(みやがやとう=さいたま市見沼区)。
  トクの少女時代、家庭環境、土地柄、時代色が過不足なく紹介されて、ローカル色豊かな、  快調な滑り出し。
  私事ながら、母の妹(叔母)の嫁ぎ先が蕨(わらび)で、子供の頃、京浜東北線で泊りに行  って従兄弟と遊んだものです。中山道沿いの、特色のない、まさにダサイ町との印象があ   ります。この度高橋新五郎の紹介を通じて、産業史にしかるべき役割を果たした町、トクの  双子織のルーツとなったところと知り、感慨深いものがあります。(古賀さんも、カメラを提   げてあの町を歩いたのだなあ・・・。)

○幼馴染の清吉への思慕。氷川神社での語らい。しかし長男である清吉、婿養子を迎えて家  を継がなければならないトク。家柄の違い、因習に阻まれて二人の恋は実らない。
  清吉の逐電。意にそわない男との不幸な結婚。出産。・・・
  ・・・置いた祖父母を捨て、乳飲み子の栄三郎を残して。―
  トクとしては切羽詰まった「選択」をしたのであろうが、障害背負った「追い目」は浅くない。
  作者は、そこに「純愛」を見るのも「業」を読み取るのもご勝手に、とばかりに事実の経過を  記してゆく。

―第3章―

○増上寺や赤羽橋界隈は、学生時代によくうろついたところですが、かくも久留米と縁が深い  ところとは認識していませんでした。久留米の水天宮も、蛎殻町の“本家”ぐらいに思ってい  た程度。広重の版画のフォローが嬉しい。

○トクの奉公先、戸田覚左衛門家
  江戸詰の中級武士の生活の様子が手際よく説明されている。名前はいかめしいが、二本  差しのお侍さんというより、社宅か団地に住む実直なサラリーマン家族の親しみ。
  この家族の光景と心安さは、のちのトクが久留米への同行を決意する、何分の一かの理   由になっているのではないか、と思ったりして。 

○清吉との逢瀬。
  武家奉公の緊張から解放されて、トクが「女」になれる束の間の時間、どんな語らいがなさ  れたのか。幕末の江戸風俗としてはフツーのことなのだろうが、山本周五郎の世話物を読  むような哀感が漂う。

○お馴染宗野末吉の登場。その楽天性と先見性。
  江戸弁と筑後弁の屈託のない会話のうちに、文明開化の久留米が紹介されていく。
  「10年前の飴屋・おこし屋が今では生姜糖・窓の雪に、蕎麦屋には蒲鉾や鯉の吸い物、鳥  の吸い物・・・」とまくしたてる末吉に吹き出しながら、人物描写の確かさに唸らされた。

○「御国勝手」で国もとへ引き上げることになった覚左衛門一家。
  深々と頭を下げて世話になった礼を言うトク。「その時、何故だかわからないが、清吉の顔  が脳裏をさまよった」の1行が、効く。
  ≪恥≫をふるさとに置き捨てて、愛する男と江戸の空の下で生きた日々。いつか「俺の嫁  さんになれ」と言われる日を心待ちした虚しい期待。「宮ヶ谷塔へ帰って、あなたのお母さん  のお世話がしたい」と言えない追い目。清吉の口元を覗き込みながら、永遠の別れを告げ  られているのだと悟るトク。―
  「じゃあな、体だけは大事にしろよ」と、大きく手を振って走り去る清吉。見送るトク。

  作者は、一場の愁嘆場としてはそれ以上の言葉の贅を尽くさない。そこに、人の世の愛別  離苦を見るのも、主人公の後半生の原点を読み取るのも、読者にお任せと言わんばかり

○吹っ切れない気持ちで主人に久留米行きの同意を告げ、女中部屋に戻って涙にくれるトク  が痛ましい。

○ふるさとへの「追い目」と、清吉との「悲恋」が、トクにまた大きな「選択」をさせる。―かくて、  トクは≪聖女≫になった。

―第4章―

○筑後の人となったトク。40年を経て、記者に往時の心境をしみじみと語る。
  新たな展開を予告し、やがて見事な「終章」に繋がる構成の妙(ドラマのカットバック=     二つ以上の場面を交互に挿入する技法)。

○幕末の家中の様子が丁寧に語られていて、時代の雰囲気が伝わる。
  中級武士の住む十間屋敷や、江戸から帰還する藩士のための〈削りたての木の香が漂う  〉新廓。見取り図まで添えられていて、まるで町角の案内板を見ながら訪ねる家を指示され  ているみたい。

○そして運命的な久留米絣との出合い。
  西も東も分からぬ土地に来た不安の中で、シゲに案内されて覗いた薄暗い部屋のいざり   機。トクの中で、何かが動いた瞬間。

○『織屋のでん伝』のイラスト(図)と併せ見て、筬や杼の大きさ、重さがビジュアル(視覚に訴  える)に体感できた。トクの新機の導入と改良の功績が理解できる。(「巻軸を腰に巻き」と  いうのがよくわからない)


井上伝愛用の(上から) 筬−杼−メガネ−ハサミ

―第5章―

○いざり機と重い杼から、高機と扱いやすい軽い杼へ。
  丁寧な説明と適切な写真のフォローがありがたい。『お伝』でやや感じたもどかしさが払拭  されている。

○久留米藩の時代の変容の記述は要を得て快調。
  何故か『雲平』の新妻モトが、城の櫓の取り壊しを見て涙するシーンを思い出した。

○西南戦争の明暗。
  戦争の需要をあてこみ全財産をつぎ込んで失敗する槌屋の雲平と、一攫千金を得て豪商  への道を開く国武喜次郎。二人の明暗は、商売道の“アヤ”のようなものを感じさせずには  おかない。精いっぱいの「読み」や「確信」の向こうに、禍と福が浮きつ沈みつしている。結  局―、結果論ではないか、と思えてしまう。
  勝者の得意顔より、失意から立ち直る敗者の苦渋の顔の方がいい。(ただし、物語でのハ  ナシ)

  『たび屋の雲平』で、失意の雲平に寄り添うように、切々と再起を促す青々館の嘉助と、凛  として転職の何たるかを諭す妻モトの名場面が蘇った。

○社員第1号。大石平太郎
  生産部門が軌道に乗れば、次は営業部門の充実。これも先を読んで打った庄兵衛の一手  。『たび屋』の川上信義に相当する人物。
  肝心の平太郎を横に置いたままの、トクと庄兵衛のいささか噛み合わない商売談議が楽し  い。

○その平太郎の発案による専門の図案家の採用。注文生産方式への転換。
  平太郎が何か〈静かに提案〉すると、つい身構えてしまうトク。この人物対比は、いかにも作  者好み。

○元久留米藩下級武士の安積開拓団参加の挿話。夫について行かざるを得ないツタエが哀  れを誘う。北海道の屯田兵といい、会津叛乱士族の陸奥への強制移住といい、救済と紙   一重の棄民(その逆かな?)。満州、沖縄・・・、今だってそうだ。

○野田ハツコの喀血(かっけつ)。
  後日の浅乃の死を含め、この時代の〈織り子〉には、杼の音とともに、軽い咳の声、かすか  な血の匂いがつきまとう。国威興隆とは裏腹の庶民哀話。

―第7章―

○西南戦争後の乱造・乱売による絣の信用失墜。挽回を策する国武喜次郎ら業界の顔役た  ち。
  近代化。―「問屋制家内工業」から「工場制手工業(マニュファクチュア)」への転換。絣同  業組合の結成。産業史の1ページが要領よく記述される。

○若手のあきんどたちは、しなやかに時代に対応する。
  大石平太郎も独立して、トクのもとを離れる。手回し良く後釜を用意して。
  さすがに本村庄兵衛が見込んだ男。庄兵衛(=業界)の意をくんで(?)着実に足場を固め  てゆく。時には、トクの〈直系〉を前面に押し出しながら・・・。
  生前墓などは、「縞」をアピールするために青木倉蔵と諮って放った妙手だろう。
  粗悪品追放のための縞改良会の立ち上げ。同業組合への発展。四囲の情勢を伺いなが  ら、平太郎の切れ者ぶりが発揮されていく。

○そんな矢先の娘浅乃の死。行年十八歳。
  故郷を捨て、江戸を捨てて、運命に流されるようにして辿りついた、井上伝のふるさと。そ   の土地で「絣」に出合い、「縞」に縋って紡いできた四半世紀の命である。気がつけば、たっ  た一人の娘を死なして(殺して)しまった。自分に何が残ったというのか。どう生きていけば  よいのか。―底知れない虚無感。シゲの慰めも庄兵衛の励ましも、うつろに聞こえるばか   りである。

○日清戦争と特別表彰。
  軍需景気に沸きたつ織物業界。機械の導入による生産の増大で肥大した同業組合。金儲  け主義から縞織の技術を軽視する者もでてくる。
  次第に組合との間に距離を置くようになるトク。そんな折のトクの特別功労表彰は「原点を  忘れるな」のメッセージを込めたものだろう。

○本村庄平と国武喜次郎の主導権争い
  やがて業界を二分する対立に。「縞」を率いる平太郎一派の、舵取りの苦労がしのしのば  れる。

―第8章―

○井上伝の墓前。
  30年前、トクの久留米入来と入れ違うようにこの世を去った先輩に、トクは持って行きどこ  ろのない心の憂愁を訴える。多分にフィクショナルながら(墓に詣でたことはあったろうが)  、一度も謦咳(けいがい=目上の方に直接お目にかかる)に接することのなかった先人に  語りかける老いた機織りの心情は心を打つ。「これから先どう生きていくかはあんた自身が  考えることだよ。私に聞かれても・・・」
  先輩は、なかば遊離したかったトクの心を見抜いたように、優しく突き放す。

○ひとり住まい
  「小川商店」をシゲの二男の安男や青木倉蔵に任せ、織り機1台を据えて、トクは白山に独  居する。
  本村庄兵衛、時計屋の末吉、江戸以来の女中仲間ウメ、そして30年来の相棒シゲも他界  してしまった。縞組合から支給されていた手当は減額され、やがて打ち切られる。(縞組合  の中にあっての平太郎の消長が気になる)
  今は落胆した一人の老婆となって、トクが見るのは若き日の故郷の夢ばかり。

  野田マサヨが訪ねて来て、ひとしきり昔話に花を咲かせて帰れば、またひとり。惻惻と迫る  孤独感。そんな時の、(埼玉在住の)孫徳次郎の来訪である。
  この登場の間合いが、まことに心憎い。垂れこめた暗雲を割って、一条の光が差し込むよ  うな場面の転換である。ふるさとの訛りを、トクはいかように聞いたか。当時の埼玉在のダ  ンベー言葉の抑揚は相当きつかったろう。

○ふるさとの消息
  幼くして生別した(捨てた)息子一家のなりわい。優しい心づかい。帰郷のいざない。心張り  棒がはずれたように、トクの心が溶けていく。

  現実には、細い、控え目な、さぐり合うような消息のやり取りがあったかもしれない。トクの  老後を案ずる第三者が介在したのかもしれない。。しかしそこを、祖母と孫との会話の中に  凝縮して、かくも美しく、余すところなく語り尽くした作者の創意に感服するばかりである。

  もしトクが、家族や友人に囲まれて、何不自由ない老後を送っていたら、宮ヶ谷塔へ帰る決  心がついたかどうか。そして遠くから生母の消息を見守っていた栄三郎は、すなおに帰郷  を促す気持ちになれたかどうか。

  糾える縄のごとき人の世の変転。40数年前、運命に翻弄されて、「生きるため」に渡った筑  後川。織物史に輝かしい足跡を残し、いま無一物となってその川を渡り帰る老媼に、運命  は望むべくもない終幕を用意している。見事なカタルシス。

―終章―

○「前文」で執筆の動機を語り、「序章」の記者のインタビューを導入部として始まった小川トク  の生涯の物語。
  「終章」にきて、再び記者の質問に答えるかたちの来し方の回顧。これが実にいい。
  沁み入るようなトクの一言一句。「・・・お国(久留米)のお金を一文たりとも持ち出さない私   を、金にきれいな女だと褒めてくださいな」に目頭が熱くなった。
  新聞記者から語り起こしてこの「終章」に辿りつく構成の妙。「語らせる」ことのうまさ。

○大石平太郎と青木倉蔵が走り回って集めた選別50円。「これでようやく曾孫たちに持ってい  くみやげが買えます」でまた涙が出た。

○徳次郎の手紙を通して知る後日談。ふるさとでの静かな余生。近所の娘たちへの縞織りの  手ほどき。帰郷3年目の永眠。両親の墓のそばへの埋葬。称徳碑の建立と、その氷川神   社境内への移築。
  かつて、初恋の清吉と語らった場所の・・・。

○連続テレビ小説にしたいような「女の一生物語」の、浄化されたみごとな団円(終わり)だっ   た。

≪予言≫

  十数年間温めてきたテーマの、みごとな結実だと思いました。

 終生変わらぬ友情で結ばれた倉田雲平と小川トク。相前後して足袋屋と機屋を開業し、時計屋末吉に連れられて訪れた雲平に、天職の何たるかを暗示したトク。晩年、その雲平を訪ねて、なお健在な江戸弁でそっと「里ごころ」を打ち明けるトク。―
『足袋屋』執筆時に、既に確固たるトクの人物像、テーマが出来ていたことが窺えます。
あきんど三部作を、トクに至る、ホップ・ステップ・ジャンプとして、あらたな感動をもって、読み終えました。

次作でどんなあきんどが登場し、どんな進境を見せてくれるか、楽しみです。

一部編集しています

「くるめんあきんど物語 まぼろしの久留米縞 小川トク伝」の全文は、本サイトに掲載しています。

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