青木牛之助が千町無田を去って2年目の明治41(1909)年。田中栄蔵が筑後に下りて、新しい入植者の勧誘に乗り出した。今では、栄蔵が長老の筆頭格として村のまとめ役を務めている。
牛之助らが辛苦に耐えて開に励んだ15年間、筑後地方の農民の暮らしぶりは、昔といっこうに変わっておらず、上納と重税にあえいでいた。そんな農民に栄蔵は、真心をこめて千町無田への移住を勧めた。農民もまた、「安価な土地」を求めて従った。こうして、千町無田の戸数は60戸に、人口も300人を超えた。

千町無田内に建つ田中栄蔵顕彰碑
その後、筑後から江崎という医者を招き、粗末ではあるが寺も建てた。住職は、湯ノ平にある光泉寺の住職に「掛け持ち」を依頼した。
水稲の品種「関山」があたり、更に開拓が進んだ大正3年頃の千町無田には、200町歩の水田が連なった。青木牛之助が去って、7年目のことである。
昭和の時代になって、世界的不況が山村にまで及び、入植者の家計は再びどん底まで落ちた。追い討ちをかけるように、、消費者からは「千町無田の米はまずい」との悪評が蔓延して、「関山」の商品価値が落ちてしまった。
そんな中でも、牛之助が予言したとおり、開拓村には有能な若者が育っていた。田川好夫や森山耕吉など、そしてその子供たちである。彼らは、玖珠郡や飯田村の農業技術者と提携して、まずい米からの脱却を目指した。
彼らはやがて、農林省陸羽支場で創出された「陸羽132号」を、千町無田の冷たい水に馴染ませることに成功する。そして再び、200町歩の水田が、黄金の稲穂を棚引かせるようになった。昭和11(1936)年の頃である。開拓者に稲作への望みを膨らませた「関山」の時代は、ここで幕を閉じた。
ときは更に経過して、入植者の中にも農業経営に長ける者、うまくいかぬ者に二分化される。農業経営に失敗し、苦労して手にした「自分の土地」を手放して再び小作人になり下がる者も少なくなかった。昭和20年の終戦間際には、村の小作の比率が6割にも達した。それでも千町無田に「羽織地主」は一人も存在しなかったという。汗と涙で開拓した人たちの心を、何人たりとも侵すことはできなかったからであろう。
暗くて長い戦争とその後の農地改革により、小作人は再び自分の土地を取り戻した。時代は更に進んで、入植者の中にも引退する者、死亡する者などが相次ぎ、家族は二代目、三代目へと変遷していく。しかし、先祖が培った開拓者魂が失われることはなかった。戦後新しく入植した者は、隣接地帯を次々に開拓していき、高原野菜の栽培や酪農など先駆的役割を果たすようになる。
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千町無田まで通った日田バスの停留所
終戦直後の昭和22年(1947)11月、千町無田に初めて電灯が普及した。ラジオ放送も聞けるようになり、全国の情報をリアルタイムで共有できるようになった。昭和36年からは、乗合バスが通学の子供たちを毎日送り迎えしてくれるようになった。今日、九重連山への登山客が重宝する日田バスが、豊後中村駅から千町無田まで運行されるようになったのも、戦後のことなのである。
そして現代。100年前に青木牛之助の指導で手植えされた杉の苗は、天をも衝かんばかりに成長し、彼らが命の次に大切にする田畑と家屋を守ってくれている。開拓村の北東部に建てられた朝日神社は、今も村の人々の精神的支えである。
彼らが生活のすべてをかけて築いた千町無田では、その後の入植者を加えて、約100戸が豊かな農業に従事しているとか。
100年以上経過しても、なお変わらぬものといえば、青木牛之助が大事業を成し遂げて下山するとき見送ってくれた鳴子川が、今日も騒がしい水音を立てながら筑後への旅を急いでいることくらいか。【完】
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