本編は歴史をベースにして創作した物語(小説)です |
青木牛之助が千町無田を去って2年目の明治41(1909)年。田中栄蔵が筑後に下りて、新しい入植者の勧誘に乗り出した。今では、栄蔵が長老の筆頭格として村のまとめ役を務めている。 牛之助らが辛苦に耐えて開に励んだ15年間、筑後地方の農民の暮らしぶりは、昔といっこうに変わっておらず、上納と重税にあえいでいた。そんな農民に栄蔵は、真心をこめて千町無田への移住を勧めた。農民もまた、「安価な土地」を求めて従った。こうして、千町無田の戸数は60戸に、人口も300人を超えた。
その後、筑後から江崎という医者を招き、粗末ではあるが寺も建てた。住職は、湯ノ平にある光泉寺の住職に「掛け持ち」を依頼した。
終戦直後の昭和22年(1947)11月、千町無田に初めて電灯が普及した。ラジオ放送も聞けるようになり、全国の情報をリアルタイムで共有できるようになった。昭和36年からは、乗合バスが通学の子供たちを毎日送り迎えしてくれるようになった。今日、九重連山への登山客が重宝する日田バスが、豊後中村駅から千町無田まで運行されるようになったのも、戦後のことなのである。 |
青木牛之助が、初めて九重高原を訪れたとき感嘆した震動の滝は、筌ノ口温泉のすぐ下流に位置する。最近(平成18年)では、雄滝・雌滝を目の前で観れる「大吊り橋」も完成した。吊り橋の向こう側が、本編「だんご祭り」に登場する北方地区である。つまり、牛之助や筑後の農民が苦闘した証の千町無田は、震動の滝の すぐ近くなのである。お時間に余裕のある方は、ぜひ現地を訪ねてください。青木牛之助を祀る朝日神社や、年の神神社、白鳥伝説の碑、それに田中栄蔵の顕彰碑などを集落内で見学することができます。 それよりも何よりも、三俣山など九重の名峰に抱かれた千町無田の見事な田園風景に出合えるのです。 |