本編は歴史をベースにして創作した物語(小説)です


青木牛之助
青木牛之助

第四章 悪戦苦闘
連載 第4回

 新しい命

 シマのところに井上平八が駆け込んできた。嫁のトキコが産気づいたと言う。
「ユキ、ミチヨ。そこの毛布。それに手拭と浴衣、みーんな持って着いてこんね」
「それはスエの浴衣じゃ」
 ミチヨが小さく首を振る。
「何ば言いよると、赤ちゃんが生まるるとよ」
 シマは夕飯の支度を放り投げ、娘たちの手を引っ張って戸外に飛び出した。息を切らして平八の家に飛び込んだとき、トキコは陣痛でもがいていた。
「平八さん、あんたは祖父ちゃんといっしょに、外で湯ばいっぱい沸かしとかにゃばい」
 日頃恐い顔など見せたことのないシマが、初めて見せる独断の世界だった。ユキとミチヨはそんな母の顔を見て驚き、頼もしく思った。写真:千町無田の集落
 子供たちが興味本位でふれ回ったのだろう、井上の家の周りには村の女房や子供らが集まってきた。中には、背伸びをしながら中を窺う男もいる。
 間もなくトキコは赤子を産み落とし、元気な産声が外にまで聞こえた。その時、家を取り囲んだ者たちから、図らずも拍手が起こった。首にぶら下げた手拭で目頭を押さえる者もいる。開拓団の未来を保証する担い手の誕生は、千町無田全域を感動の渦に巻き込んだのである。
 定吉、寅五郎、平八、そして生まれたばかりの赤ん坊。井上家はこの日から、4代が同居する大家族になった。
「よかったな」
 無事出産の手伝いを終えて帰ってきたシマを、辰次郎は呟くような小さな声で労った。

寺子屋

 牛之助の長男の始が、高等学校を卒業したのを機に、自分も父の仕事に関わりたいと言ってやってきた。牛之助は、久しぶりに見る息子の成長ぶりに驚いた。そして、最高の助手を得て喜んだ。
 そんな時、自宅を兼用している開拓事務所に木戸伝六が現れた。
「8歳になる娘が、学校に行きたかち言うてきかんのですよ」
 伝六に言われるまでもなく、牛之助の頭から離れないことの一つが、子供たちの教育の問題だった。開拓団の中には、既に学齢に達している子供も少なくない。今は赤ん坊でも、すぐにその年齢に達する。開拓という名分で子供の無教養を放置する権利など大人にはない、と牛之助は考えている。


現在の飯田小学校

 開拓村から1里離れた田野には村立の学校があるが、幼い子供をそんなに遠い所まで通わせるわけにはいかない。身の丈より高い茅の林を掻き分けてまで、我が子を通わせるにはリスクが大きすぎるのだ。だからといって、親が毎日送り迎えをしてやる時間的余裕など誰にもなかった。
「始、8歳以上の子供の数を年齢別に調べろ」
「調べてどうすると?」
「教えるのさ、今いる大人が。簡単な読み書きくらいなら 何とかなるだろう」
「8歳以上の子供ですか。8歳から何歳まで・・・」
「10歳になったら、田野の学校に通わせても大丈夫だろう」
 つまり、8歳と9歳の子を自前で教育しようとする考えである。始は、何度も小首を傾げながら事務所を出ていった。開拓団の事務員として久留米から連れてきた海田貴之が教員候補に挙げられた。
「私は、暗かとこはでけんですもんね」
 海田が、度の強い眼鏡を指先で支えながら弱音を吐いた。
「いますよ、開拓団の中に」
 海田は自分一人では心細いと思ったのか、教員候補の適任者を思い出した。
「誰だ、先生がやれるちゅうのは」
「中野さんですよ。あのお人は、御原郡(みはらぐん)の小学校で教員ばやっとらしたそうですよ」
 これで、最低の教師の算段はついた。
「ところで、子供たちに教える場所は?」
 始が(とぼ)けた口ぶりで父親を見た。
「ここに決まっとろうが。ここが筑後ん子たちの寺子屋みたいなもんたい。大工の上手な連中に習い机と黒板ば作らせればよか」
「教科書は?」
「そんなもんは、いらん。口と黒板で教えればよか。そのうちに学校に行って、お古の教科書とか鉛筆の使い古しば貰うてくればよかろうもん」
 先生候補にあがった中野にも6歳の子がいたので、この話はすぐにまとまった。幼な子は寺子屋で勉強して、10歳になると村の小学校に通う。大人たちは、これで子供らの教育が軌道に乗ったと安心した。
 牛之助の寺子屋が軌道に乗ってしばらく経ったある日、与吉の次女のキミエが、「学校に行きとうなか」と愚図りだした。キミエは10歳になって小学校に通い出したばかりである。母のハルが理由(わけ)を訊くと、「ほかのもんは皆んな米のご飯の弁当ば持ってくる。千町無田んもんだけはトーキビ飯じゃろ。ほかのもんが笑うけん弁当のある日は学校に行きとうなか」
 大人たちは、またもや悲しい現実と向き合うことになった。この問題は、後に親が先生に相談して、千町無田の子供だけ別の部屋で弁当が食べられるように計らってもらった。これまた悲しい解決法であった。

試験田

 開拓村は、来る日も来る日も、茅を刈りその後から水を抜き取る作業が続いた。できたての耕地には大根や大豆、トウモロコシなど種を蒔く。収穫があると、例えそれが少量であっても村中で分けあって喜ぶ。入植から5年が経過した頃である。
 雨の日や風の強い日は外での仕事はならず、そんな日は若い者同士が集まって酒を酌み交わすことが多くなった。女たちも、家にある材料を持ち寄って、故郷で覚えたご馳走をつくる。輪になって食べながら、昔話に花を咲かせた。
 天候が回復すると、彼らはまた未開の湿地に挑む。収穫した野菜は、自分達が食べる分はなるべく節約して、中村あたりの店に持ち込んで現金に換えた。当時は、小売店が卸売業も兼ねていて、生産者から直接作物を仕入れることも少なくなかったのである。


千町無田の田園風景

 牛之助は、少々焦りを覚えていた。開墾に精を出すべき若者が、硫黄運搬や収穫物を売って得た収入で「一休み」の享楽に浸っているからである。その分確実に開拓の速度が落ちている。
「米をつくらなければ・・・。我々はまだ自分の田んぼで一粒の米も収穫しとらん」
 牛之助は、川島利三郎や田中栄蔵など主だった連中を集めて、本来の目的である水田づくりについて問い質した。
「そうなんですよ、先生。この頃たまに米の飯を食えるようになったといっても、自分で育てたもんじゃなかですもんね。百姓が、他人がつくった米ば買うて食うなんちゃ、みっともなかですよ」
「これっぽっちの収入で満足されたんじゃたまったもんじゃなか」
 利三郎たち長老も、牛之助と同じことを考えていた。
「とりあえず、試験田の4反で米ばつくってみるか」
 試験田とは、先発隊が拓いた開拓団共有の土地のことである。牛之助は、水田耕作を一番主張する石崎熊蔵に持ちかけた。
「それはよかですがね。苗はどげんするですか、先生」
 熊蔵も話が具体的になると、これといった考えを持ち合わせているわけではない。
「種籾はどこからか買うしかなかろう。この辺じゃ『タジリ』ちいう品種ば使っとるそうじゃなかか」
「種籾はそれでよかとして、苗代田はどげんするですか。ここは水が冷とうて芽も出んち思いますよ」
 牛之助は、西の方2里(8`)ほど離れた湯坪の温泉熱を活用できないかと考えていた。苗を湯坪から本田まで運び、開墾した田に植えつけようというのだ。田中栄蔵や光山亀吉が指導的役割を担って、計画は実行に移された。その稲が秋までには順調に育ち、籾にして3俵を収穫した。
「米だ!米だ!」


湯坪地区の水田

 摺り上がった白米を前にして、子供たちがはしゃいだ。女たちも、これからは家族にいつでも米のご飯を食べさせられると喜んだ。
「これは大事な米だ」
 牛之助は、炊きたての白飯をまず水天宮の神前に供えた。次に開拓団の長老、そして子供へと食べる順番を決めた。ここでも女は最後で、釜の底に残った僅かばかりの飯粒を勿体なさそうに口元に運んだ。

 米の収穫が可能になると、田川与吉の家族もまた忙しくなった。5月になっても水が冷た過ぎる。そんな中でも、田起こしは怠れない。
「冷てえ」
 16歳に成長した為治が、田んぼに足を踏み入れた途端に飛びあがった。
「そんくらいのこつで、何ば言いよるか」
 与吉の大きなげんこつが為治の頭めがけて飛んできた。
「嫌だな、百姓は」
 為治はそんな時、千町無田に来るのに、もっと反対しておればよかったと、心底思うのだった。
 6月に入ると、田植えが始まった。田植えは、村全体の共同作業と決められている。写真:現在の千町無田早苗田
「ハー、腰の痛さよ、この田の長さ、4月・5月の日の長さ ハー、二百十日も風さえなけりゃ、親子三人寝て暮らすよ ハー、サイバン、サイバン」
 為治の田んぼに集まった加勢の女たちが、田植え歌を歌いながら、横一列に並んで順序良く苗を植え付けていく。やがて大人になろうとする為治にとって、田植え時に聞く女の人の歌声と仕種が、妙に気持ちを高ぶらせた。
 お盆がやってきた。為治は子供の頃から、正月と盆は早く来たらいいと願ってきた。白いご飯が食べられるからである。それに最近では、若者どうしが広場に集まる初盆供養のための盆踊りが楽しくてしようがない。初盆の家は、奮発して酒を振る舞い、白米のおにぎりを腹いっぱい食わせてくれるからだ。真新しい手拭を配るのも慣わしである。為治は、未だ青年の年齢には間があるが、ちゃっかり大人たちの中に紛れ込んでいた。
「もう、台風はこりごり」と誰もが思う二百十日が近付いた。母のハルが気にすると、為治も落ちつかない。あの入植当時の台風は、収穫間近の野菜を全滅させた。僅かばかりの手持ちの現金も、底をついてしまった。お先真っ暗の家族は痩せ細り、体を寄せ合って暮らさなければならなかった。
 この年も台風は来たが被害は少なく、辰次郎と叔父の良吉も胸をなでおろした。為治は、何より父がイライラして怒りっぽくならないですんだことが嬉しかった。こうして開拓村では、2度目の収穫の時期を迎えた。
 そんな折、開拓団の中から稲作に対する疑問が噴きだした。彼らは、苗代田から本田まで2里の道を、馬の背に早苗を載せて運ぶことがあまりにも不合理だと言う。間尺に合わないことで時間と労力を浪費するくらいなら、硫黄運搬で日銭を稼ぐ方が理にかなっていると主張した。どんなに苦労して稲をつくっても、収穫量は少なく、義理にもタジリはおいしい米だとはいえない。炊いても、ご飯特有の粘りがないのである。
「お前たちの言うのも一理はある。だがな、俺は米づくりば絶対に諦めんぞ」
 牛之助が一同を睨みつけた。
「どうするんです?先生」
 利三郎が、座を代表して牛之助に向き合った。
「千町無田の気候や土質に似た地方の品種を探せばよかろう」
「どこにあるんです、そんなにうまか種が」
「お前たちも、ちーっとは考えろ!」
 牛之助は、すべてを自分に頼りきる長老たちに不満をぶっつけた。実はその時、牛之助の頭には、寒い北国で採れる品種のことがあった。

寺子屋から学校へ

 寺子屋創設から4年が経過した。牛之助は中野や海田が教える教室を、ときどき覗いている。最初5人だった子供が、今ではその数20人に増えた。これでは、事務所兼用の教室が狭過ぎる。入植当初は幼かった子らが、次々に学齢期を迎えたからである。
 牛之助は、吉部に住む佐藤又八に相談した。佐藤は、大分牧場が開発事業に失敗したあとも何人かの失業者とともに居残って、開墾に励んでいる男である。相談を受けた佐藤も、入植者の子弟の教育には関心を寄せていた。
 2人の話し合いはすぐにまとまり、千町無田と吉部が合同で小学校をつくることになった。土地は千町無田内に3町歩を用意し、やがて大分県知事の認可も下りて、「私立朝日尋常小学校」が設立された。生徒数は39名であった。


吉部地区

aこの学校、2年後の明治34年(1901)には、飯田村立の「田野尋常小学校朝日分教場」へと発展する。

 日出台開拓地接収

 牛之助のもとに、小倉にある第十二師団司令部から召喚状が届いた。入植から6年が経過した明治33年(1900)のことだった。
 さっぱり事情をつかめないまま久留米から博多へ。更に小倉まで伸びた九州鉄道に乗って司令部に出向いた。
「貴殿が払い下げを受けた開墾予定地のうち、大分県玖珠郡大字福満山の黒灰地区は、今回陸軍の野戦砲兵隊の実弾演習場として的確と認定せられたるによって、速やかに国に返地されたし」
 形は司令部からの要請であるが、それは即ち命令である。黒灰地区は、開拓当初に予定した吉部地区が大分牧場に先を越されて不許可になった代替地として下げ渡された山岳地であった。千町無田だけでは収容しきれなかった家族が、厳しい山岳地帯を開拓して、ようやく収穫の目途がたちかけた矢先のことである。写真:当時の司令部正門(現小倉城跡)
「貴殿は土地の返却に際して、いかほどの補償金を望むか」
 係官が訊いた。その時牛之助は、司令部の命令を機会に、山岳地帯の入植者をすべて千町無田に迎え入れることを考えた。あの土地は千町無田に比べて、水分が極端に少ない。畑作には向くが水稲栽培の可能性はゼロに近い。入植者の何人からか、千町無田への移転を希望してきてもいる。
「あの土地は、所詮はお国からお借りしているものでございます。お国が必要だと言われるのに、何で私ごときが反対できましょう。補償金など御心配には及びません」
 躊躇することなく、司令部の申し入れを受け入れた。
「ただしでございます。ただいま入植している者たちは、皆んな大洪水の被災者です。あの者たちが開拓地を離れるに際し、他に移るまでの間の生活費の補填(ほてん)だけはお願いします」
 牛之助はそれだけ要望して帰路に着いた。ところがしばらくして、再び司令部から召喚状が届いた。
「貴殿は先日、補償金など一切無用と言ったではないか。それなのに、貴殿の名前で3万円の損害賠償要求が出されておる。これはいったい…」
 寝耳に水とはこのことである。まったく身に覚えのないことであった。


日出台

「どういう者が、その要求書を持参したんです?」
 牛之助の質問に、係官は森町に住む3人の名前をあげた。3人はいずれも、開拓の申請時から牛之助に対して協力を惜しまなかった者たちである。司令部を後にした牛之助は、久留米の実家に立ち寄ることもやめて森町に向かった。
「青木さん、あんたはあまりに人が良すぎます。あんたはあの土地を取得するためにどれだけのご苦労をなさったか。退去者の補償だけで済ませたら、これまでの出費や苦労はいったい何だったのかと、私らは憤慨しとるんです」
 牛之助に詰め寄られた男たちも(ひる)まなかった。
「青木さんに無断で賠償請求ば出したことは悪かったと思います。お国から出る補償金は、全額あんたのもんです」
とも答えた。
 牛之助は、彼らの意図を察して、それ以上の追及をやめた。その後、日出台で開拓に励んだ大部分は、希望通り千町無田に再入植することになった。これで、青木牛之助を頂点とする筑後民による開拓団は、千町無田に一本化することになったのである。

 だんご祭り

 鍬入れから8年が経過した明治35年(1902)。この頃になると、開拓民の中にも掘立小屋を卒業して、人間が住むに相応(ふさわ)しい最低限の家を新築するものも現れた。子供たちの身なりも、地元民との差を縮めた。また、年中行事を大切にする余裕もできて、働きづめの暮らしに、少しばかりのメリハリをつけられるようにもなった。
 正月の3が日は、家族ぐるみで筌ノ口温泉に出かけた。4月5日は、久留米の大祭に合わせて、開拓事務所に祀ってある水天宮の祭日(当時の大祭は4月5日だった)。年寄りたちが酒を酌み交わしながら、遠くなった古里の思い出話に花を咲かせる。
 4月8日は、湯ノ平の温泉祭り。若者たちが5人、10人と連れだって、足取りも軽く雪深峠を越えていった。温泉に浸かり酒を飲み、夜は芝居見物をする。彼らにとって1泊旅行は、欠かせない行事になった。
 6月16日は硫黄山祭り。開拓村を飢えから救った火山に感謝する日でもある。
 そして9月16日(新暦では11月上旬)が、年に一度の年の神神社のお祭りである「だんご祭り」。今年の収穫に感謝し、伝説の朝日長者を敬う日である。開拓民にとってだんご祭りは、地元民との融和を図るための特別な行事であった。森山豊次が、入植した翌日に父親に案内されて訪れた丘の上の(やしろ)のことだ。写真3枚:だんご祭り
 社といっても立派な神殿があるわけではない。屋根と壁は祭りの当日に、近くの沼地から刈り取ってきた茅で葺き替えたもの。入植時に開拓民が住んだ掘立小屋と見分けがつかない。
 秋の取り入れが済んだ時期であり、北方地区の男衆は総出で社の化粧直しにかかった。女たちは、腕によりをかけて神に捧げるだんごや煮物を(こしら)えた。
 祭りの当日、氏子衆は新装なった社の前の広場に集まってくる。まずは神前にだんごとお神酒を供え、神主が祝詞を唱える。それから、それぞれに座り込んで宴会が始まるのである。男衆は、青竹で温めた酒を回し飲みしながら宴を盛り上げる。
 祭りに参加を許された千町無田の住民は、最初のうちは米の代わりにトウモロコシを砕いたもので、地元民から離れた場所で小さくなっていた。開墾が進んで少しだけ米が採れるようになると、宴席の距離が少し縮まった。
 この年のだんご祭りでの出来事。千町無田から参加した渡辺喜太郎が、取り返しのつかない不始末をしでかした。祭りに浮かれて酒を飲み過ぎ、誰彼構わずに暴言を吐いたり乱暴したりして、北方住民の顰蹙(ひんしゅく)をかってしまった。彼らにしてみれば、「よそ者を参加させてやっているのに」の思いが、完全に払拭されているわけではなかった。
 そこまではまだよかった。あろうことか喜太郎、社に侵入してご神体の丸い石を持ち上げるや、前を流れる音無川に投げ捨てた。ここで、北方地区の住民の堪忍袋の緒が切れた。彼らは、千町無田住民を祭りから追放することを決議した。祭りに加えてもらえないことは、遥か下流域から参入してきた千町無田住民にとって、耐えがたい精神的苦痛となって跳ね返った。
 牛之助は長老たちと協議の末、年の神を分社してもらい、水天宮と合わせて千町無田の村中に祀ることにした。千町無田開拓を象徴する現在の朝日神社の前身である。


現在の朝日神社

 翌年からは、北方地区の年の神神社と同じ旧暦の9月16日に、開拓民だけでの祭りとなった。

ここにきて、不満が爆発

 本腰を入れて水稲栽培に取りかかろうとする頃、牛之助の手元に思いもかけない手紙が舞い込んだ。出資者の一人、青沼太平からであった。青沼の手紙には、「事業に失敗したから、これ以上の資金援助はできない」として、「金主を下りるから、これまでに出資した全額を返せ」という内容であった。
 青沼は、本開拓事業の最大の資金源であり、土地を提供した大分県などへの保証人でもあった。
「困った」
 牛之助は、腕組みをしたまま思案に(ふけ)った。今まさに、種籾(たねもみ)の買い付けに出かけようとする矢先である。籾を購入するだけでも相当の資金を要する。
「どうします?」
 川島利三郎や田中栄蔵など、話を聞きつけた村の男たちが続々と集会所に入ってきた。
「カネがなけりゃ、種籾だって買えねえだろう。しばらくは稲作を見送るしかなかろう」
 牛之助は、眉間に縦皺を寄せたままで答えた。
「ここまで来て稲がつくれないんじゃ、開拓は失敗したようなもんですばい、先生。またあの地獄のごたる筑後に戻るしかなかじゃろか」
「俺たちは青木先生の言わっしゃるごつ汗水ば流しとるばってん、ほんなこつこれでよかつじゃろか」
 突然出席者の中から、牛之助を非難する発言が飛び出した。そこに長男始が入ってきて、耳打ちしながら1通の郵便を手渡した。集まった男たちは、それがまた不吉な内容であることを予感した。
「西村さんが、総代を下りたいんだと」
 西村常次郎は牛之助の昔からの友人で、当初から相談相手として頼りにしてきた同士である。
「どんなわけで西村さんが総代ば下りるとですか?」
 川島利三郎が質した。
「青木が独善的に開拓を進め、今回は意見も聴かずに米づくりばすすめとるち。それが気に食わねえんだと」
 牛之助は、口を斜めに歪めて吐き捨てた。
「わしも、この頃の先生のやり方に疑問ば持っとりました。もともとこげな水の冷たか山んな中で米ばつくろうなんち、考えたのが間違いじゃなかですかね」
 三潴村の今村竹造が、この際とばかりにぶちまけた。
「何ば言うか。米は実際にできとるじゃなかか、試験田で」
 光山亀吉が言い返す。
「そりゃいくらか採れたろたい。ばってん、あれだけの米ばつくるとに、どれだけのカネと時間がかかったですか。これじゃ、いつまでたっても採算はとれんし、借金は増えるばっかりですよ」
 竹造がまくしたてている間、いちいち同調して頷くものも何人かいた。
 牛之助は反論をいっさい控えて、翌日大分県庁に向かった。内部で言い争っている間に、西村などから県庁に対してあらぬことを上申されたら、間違いなく事業は挫折する。県庁では柴山三雄に会った。柴山は、開拓が始まると、直後から良き相談相手に様変わりしている。牛之助は、開拓の進捗状況を告げた後に、最近の困った事情を率直に申し出た。
「大変ですな。心配しなさんな。ここまできてあんたたちに開拓をやめられたんじゃ、私らがお国から怒られますけん」
 数日後、安部と名乗る役人が千町無田にやってきて、不満分子への説得を始めた。その結果、牛之助に対する不満は一気に沈静化した。
 西村常次郎は、間もなく総代の座から退いた。だが、それだけでことは収まらなかった。残った総代の内の2人が、こともあろうに牛之助を横領罪で検察庁に告発したという知らせが届いたのである。訴状には、牛之助が総代や入植者から集めた資金を勝手に使いこんでいると書かれていた。
 あらゆる犠牲を厭わずに、開拓のために奮闘してきたのに、何という仕打ちか。告発の話を聞いた晩、腹が立って眠れなかった。
 牛之助は翌日、山を下りて検察庁のある久留米に向かった。告訴した2人の総代に会って事情を聞いたが、面と向かうと彼らはしどろもどろで、まともに答えることもできなかった。次に検察庁に出向いた。担当検事に会ってその間の事情を訊き、開拓団の会計の透明性を主張した。検事も牛之助の話を聞いて、「改めて調べなおす」ことを約束した。
 津福の実家で待機していると、再度検察から呼び出しがかかった。
「君の釈明は正しかった。告発した2人を呼びつけて、告発を取り下げるように言い渡しておいた」
「そんなことで、あの人たちが取り下げますかね」
「取り下げるさ。そうしなけりゃ、誣告罪(ぶこくざい)で処罰すると言ったら、恐縮して震えておったわ」
 検事は、用件を済ませると、さっさと部屋を出ていった。この騒ぎ、一件落着である。だが、気がつけば、当初8人いた総代が、牛之助1人になっていた。
 事件は落着しても、開拓民の中の牛之助に対する憤懣(ふんまん)は一向に収まる気配ではなかった。最近も、暮らしの目途がおぼつかないと言ったり、村内のごたごたに嫌気がさして、山を下りる家族が相次いでいる。残った者の下山する仲間を見送る目は、寂しさでいっぱいであった。

理想と現実

「脱落した者に入植手数料を払い戻して、開拓団の台所は火の車だ」
 牛之助は、川島利三郎ら長老にことの重さを吐露した。
「先生の言わるるごつ、一人で3町歩の開拓割り当てにいつまででん固執しとったら、どうにもならんですよ」
 利三郎が口火を切った。
「それじゃ、どうすればよかか」
 正直、牛之助にも妙案は浮ばないのである。
「今いる人間で余裕のあるもんがもっと金を出し、出ていったもんの分を買い取るしかなかですよ」
「そうすれば、開拓団の中に、土地の広さで差がでてしまう。まとまって行動することが難しくなりはしないか」
 牛之助の心配は、将来にわたって、開拓民が平等の立場で暮らしていくことを理想としてきた。田中栄蔵が話に加わった。
「仕方なかですよ。期限内に開拓を成功させるには、先生の理想から離れることも目をつむるしか・・・」
「開拓する土地が広がれば、逆に皆んなの士気も高まるち思いますばい」
 石崎熊蔵も、利三郎の提案に賛成した。牛之助の決心はそこで固まった。金に余裕のある者などいるわけはないが、開墾する労働力に余力のある者は借金をすればいい。原野が収穫を約束してくれる耕地に変われば、そのとき借金はいくらでも返せる。

 明治30年代も半ば、開墾した田畑からの収穫量が極端に落ちた。中でも、試験田に植えている水稲が、予定した量の半分しか採れない。自然の肥料に任せる、所謂「略奪農法」の限界が見えたのである。
 とりあえず肥料(金肥)が必要となった。
「どうします?」
 栄蔵が牛之助の顔色を窺った。
「銭がなけりゃ、肥料も買えんな」
 牛之助もため息をつくしかなかった。千町無田開拓が10年目を目前にして迎える、最大のピンチであった。

  村で初の結婚式

 この頃、辰次郎の兄の亀太郎が、はるばる山を登ってきた。辰次郎は入植時の掘立小屋より少しはましな家で本家の兄を迎えられたことで胸をなでおろした。
 亀太郎は、湯呑茶碗に注いだ冷酒を一気に飲み干した。
「豊次はいくつになったか?」
「26(歳)」
 豊次は無愛想に答えた。木佐木村で暮らした頃、父や母に威張ってばかりいた伯父をどうしても好きになれない。
「そうか、26か。今日は豊次に良か縁談話ば持ってきたつたい。知り合いの娘ばってん、ばさらか器量の良か娘さんたい」
 亀太郎は、甥がまさか反対することはなかろうと、茶碗酒のぐい飲みを重ねた。そして翌日の昼過ぎには、筋湯の温泉に寄っていくと言い残して去っていった。
 伯父が帰った後豊次は、父や母と相談して、縁談を受けることにした。一度も会ったことのない娘と結婚する。当時としては珍しいことではなかった。特にこのような山の中の暮らしでは、一度断れば二度と縁談話が来ないことも考えておかなければならない。
 結婚式はその年の秋の取り入れが済んだ後、青木牛之助の媒酌で執り行われることになった。豊次は、千町無田に到着した花嫁のミツを、村の中央に祭ってある朝日神社に案内した。
「ここの村は、どこでんここでん、杉の木が多かですね。お宮さんにも・・・」
 ミツは、本殿の裏手に伸びる木を見上げた。
「入植する時、青木先生が皆んなに苗木を植えさせなさったと。木が大きゅうなるとは早かね」
 豊次は、忙しさにまぎれて、記念樹として手植えした杉の成長のことを忘れていた。
「大切な木なんですね。うちの家の側の杉も。森山家の繁栄と杉の成長がどちらが早いか、競争ですね」
 見かけ以上に芯の座った娘だと、間もなく自分の嫁になるミツを改めて見直した。


朝日神社裏手の杉の記念樹

「このお宮さんに祀られている水天宮さんと年の神さん、それに村中に植えられた杉の木が、俺たち千町無田のもんば守ってくれなさるとたい。これから先のこつば、ようお願いしとかなきゃない」
 披露宴の会場は湯ノ平温泉の旅館。参列者は伯父の亀太郎と、川島利三郎など開拓団の長老数人を招いただけの質素なものであった。
 新妻のミツは、伯父が言うほどに美人だとは思わないが、思ったことをはっきり言うし、何より豊次に倣って兄弟に気を使う優しさが魅力であった。シマもユキも、すぐにミツと親しくなった。ミツは豊次より4歳年下の22歳である。
 結婚式も済んで間もなくした頃、今度は豊次が腰を抜かすような出来事が起こった。ユキの恋人の正夫が、簡単な生活用具一式を背負って、山を登ってきたのである。
 ユキと正夫は、木佐木村での別れ以来、文通を欠かさなかったのだと言う。ユキの書いた手紙は、用事で山を下りる叔父の嘉市に頼んで投函してもらっていたらしい。
「そうじゃったのか」
 豊次は、ユキの前では極力正夫の話を避けてきた。妹の辛い気持ちを察してのことだった。しかし、妹が恋人を思う気持ちは、自分など足元にも及ばない強烈なものであったことを思い知らされたのである。
 豊次は、8年前に木佐木村を旅立つ前日、大川端でユキが放った言葉を思い出した。
「千町無田っちゃ、この筑後川ばずっと(のぼ)っていったところじゃな」
「千町無田で降った雨は、ここ(筑後)まで流れてくるとじゃろもん」
 ユキは、源流の九重高原と筑後を大川が結び付けてくれることを信じて、正夫への手紙を書き続けたのだろう。
「こちらのこつは、ユキさんから知らされてようわかっとります。結婚式てんせんでよかけん、ユキさんといっしょにならせてください」
 正夫は、すぐにでも夫婦になりたいと、辰次郎に頼んだ。辰次郎にしても、娘がそこまで思う相手であり、長男も賛成する結婚に反対する理由は見つからなかった。
 とんとん拍子に話はまとまり、今度は朝日神社の神前で二人は永久の愛を誓った。その後は、村中の者が集まって、ユキと正夫の前途を祝った。伯父に気を使った豊次のときと違い、今度は入植者だけに祝ってもらう披露宴である。出席者は、皆んな自分のことのように喜び、宴会場に早変わりした開拓事務所は、夜遅くまで祝い歌で賑わった。
 辰次郎は、若い2人が住む家を、敷地内に建ててやった。正夫は翌日から、豊次と嘉市を助けて開墾と硫黄運搬に励んだ。
 ユキの妹のミチヨは20歳を過ぎ、湯ノ平温泉の旅館で働いている。彼女も最近、同じ旅館で働く青年と一緒になりたいと言っている。一番下の妹スエは、娘盛りを迎えて、母の手伝いをしながら開墾に精を出していた。末息子の耕吉は、朝日小学校を卒業した後、山を下りた中学校に入った。

第五章につづく

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