本編は歴史をベースにして創作した物語(小説)です

青木牛之助
青木牛之助

第一章 暴れ川
連載 第1回

第一章 暴れ川 目次
 掲載にあたって  私の牛之助&千町無田  序章 筑後川源流  千町無田
 第一章 暴れ川  久留米の失業武士  貧困の筑後農民  苦難の士族授産
 ハワイ移住      
 
  掲載にあたって

 本編は、平成12年(2000年)に西日本新聞社から発刊された自著を、インターネット用に再編集したものです。発刊から10年経過して、なお色あせないテーマを、著者として大切にしたいとの思いから企画しました。
現在連載中の「くるめんあきんどものがたり・国武喜次郎の巻」と、「たび屋の雲平・倉田雲平伝」「久留米絣の井上伝物語」、「久留米縞織の小川トク伝」と並ぶ久留米地方人物伝の一つです。ぜひご一読の上、ご批判をお寄せください。
  2010年6月
                                                古賀 勝

     
   
千町無田開拓以前の原野イメージ
 
私の牛之助&千町無田

 筑後川大洪水で被災した農民を、元久留米藩士の青木牛之助が救援に乗り出した。110年以上もむかしの話です。
 牛之助の姿は、典型的な筑後人として私には映ります。言いだしたら人の話を聞かない、走り出したら止まらない、それでいて人並みに弱点も持ち合わせている、そんじょそこらにいる者とどこも変わりがないのです。
 農民を率いて赴いた千町無田は、上記写真のタデ湿原と同様の半沼地のようなものだったと考えます。証拠に、千町無田の田んぼに竿をさせば、今でもずぶずぶとどこまでもぬかりこんでいくのです。
「大河を遡る」を発刊して10年たちます。物語に登場する「北方地域」のすぐそばには、日本一の観光吊り橋ができ、連日押すな押すなの大賑わいです。110年前の、人を寄せ付けない「山中の源流」の面影はどこにもありません。今に残るものといえば、千町無田で暮らす人々の素朴な人情と、本場より本物の「久留米弁」が通常語であることくらいです。
 今回のインターネットによる再刊を機会に、また筑後川と千町無田、それに青木牛之助との付き合いを再開しようと考えています。 (古賀 勝)

 
序章 筑後川源流

 もう登ってくることもなかろう筑後川の源流・九重高原を後にして、青木牛之助は大股で山を下っていった。筌ノ口温泉(うけのくちおんせん)を過ぎるあたり、相変わらず鳴子川の流れが(やかま)しい。さらに下ると、名前が玖珠川と替り、牛之助を伴走するかのように寄り添って離れない。


写真:筑後川源流域(大分県九重町)

 18年前の明治22(1889)年、故郷の筑後を出立して初めてこの山を登り、九州最大の河川・筑後川の源流を確かめた頃を思い出す。その後、農民とともに荒野の開拓に挑み、大望を成し遂げた。歳月を経て、ようやく農民たちの支柱としての役割から解放された。そして今、長年留守を押し付けてきた妻の待つ筑後・久留米へと急いでいる。
 日田を過ぎると住み慣れた豊後ともお別れ。福岡県との境・虹峠の向こうは、懐かしい筑後平野である。


写真:現在の虹峠

千町無田

 久留米方面から筑後川を遡っていくと、日田市内で大きく分岐する。一方の大山川は熊本県の阿蘇外輪山へ。もう一方は玖珠川と名前を変えて大分県の九重連山にたどり着く。行きつく先は、いずれも筑後川の源流となる。
 この物語の主舞台となる「千町無田」は、飯田高原(はんだこうげん)(九重高原)の東北部に位置する田園地帯である。
 高原は阿蘇くじゅう国立公園の一角で、標高900b。主峰久住山(1787b)を中心に、中岳(1791b)、大船山(だいせんざん)(1787b)、星生山(ほっしょうざん)(1762b)など、九重連峰を形成する火山群に抱かれるようにして静かに横たわる。千町無田の南に見上げるのは、正面に三俣山(みまたやま)(1745b)。魔物が棲むと言い伝えのある黒岳(1587b)は左手に。東方は花牟礼山(1174b)が。そして西方には、玖珠富士の愛称で親しまれる湧蓋山(わいたさん)(1499b)が聳える。年間雨量が2000ミリを超す「大河の水源」である。
 飯田高原の8月は平均気温が20度前後と低く、避暑地としては最適。高原の中央を昭和39(1964)年に完成したやまなみハイウェーが走り、夏場の涼しい高原を満喫しようと、多くの観光客で賑わう。また、鳴子川の渓谷を跨いで造られた「夢の大吊り橋」には、連日観光バスが押しかけて大賑わい。逆に冬は終日氷点下の日が続いて寒さが厳しい。写真:飯田高原の千町無田全景
 物語は、明治22年の筑後川大洪水から始まる。洪水で田畑のすべてを失った農民が、元久留米藩士の青木牛之助に率いられて大河を遡っていき、不毛の湿原に立ち向かう。平成の今日、秋になると広大な農地が黄金色に彩られる千町無田の田園風景は、彼らが生活のすべてをかけて勝ち取った勲章なのである。村の中央に陣取る朝日神社の百年杉は、誰よりもそのことをよく知っていて、後の世の人々に語り継ぐべく生き続けている。


第一章 暴れ川

久留米の失業武士

 あれは、福岡や久留米に市制が敷かれた明治22(1889)年の梅雨時であった。その年はいつになく雨量が多かった。
 牛之助は、三潴郡鳥飼村(現久留米市津福町)の自宅で落ち着かない日々を送っていた。つい3ヶ月前の4月に、それまで親しんできた津福村がいくつかの村と合併して、鳥飼村と地名を改めたばかりの頃である。
 青木牛之助、弘化3(1846)年生まれの43歳。20年前までは父祐五郎の後を継いで久留米藩主・有馬家の菩提寺・梅林寺の寺侍を努めていた。青木家は代々有馬家の故実師範役の家柄であったが、父の代に分家して、格式ある梅林寺を梅林寺警護し管理する立場になった。
 久留米藩との折衝も煩雑で、大政奉還前の内戦時には藩の親兵として京都に派遣されたこともある。江戸幕府の崩壊から明治維新までの混乱を肌身で知らされた日々が、つい昨日のことのように思い出される。写真:久留米藩主の菩提寺梅林寺

 西郷隆盛(1827−77)を擁する鹿児島の士族兵と政府軍による西南戦争では、双方合わせて3万6000人が命を落とした。身近なところでは、江藤新平(1834−74)が旧士族とともに佐賀城に立て籠もって政府軍に抵抗した佐賀の乱(1874年)。また、旧秋月藩士による秋月の乱(1876年)など。徳川300年の世を清算するために生じた混乱は、筑後の地にも確実に及び、久留米の街中に設けられた病院には、負傷した兵士が次々と運び込まれた。
 牛之助も、すっかり藩士の身なりを消して、明治の人間になりきろうとしている。しかし、未だ定職を持たず、これまでにいくつ職を変えたか数えるのも面倒なくらいである。昨今は、隣村の荒木や大善寺あたりで農民の子供に武術を教えたり、逆に農民から農作業の手ほどきを受ける毎日である。牙を抜かれた狼は、そう簡単に立ち直れそうになかった。
 12年前の西南の役以前と比べて3倍に跳ね上がった物価で、妻のツルのやりくりも大変だと思う。ツルは牛之助より6歳年下で、維新後の明治6(1873)に結婚した。13歳になる娘のミサヲと10歳の長男始を育てるツルは、愚痴一つこぼさず家事一切を取り仕切っている。


写真:牛之助の屋敷があった現柳川街道筋

 特別不自由な生活を強いられているわけでもないのに、牛之助の精神状態は常に落ち着かなかった。それは、かつて自分が、歴史の大転換を目の当たりにしながら、その中心にいられなかったことへの悔いなのか。その答えさえ見出せないでいる。
 牛之助は鳥飼の自宅から程近い筑後川ベリを歩くのが好きだった。筑後川は歩いて10分ほどのところを流れる大河で、そこから10`も下ると終点の有明海にたどり着く。広い川幅いっぱいに悠々と流れる水面を眺めていると、不思議に胸のつかえが押し流されるような気がするからだ。
「いつまで降るんだ、この雨は・・・」
 2、3日前から降り出した雨が小降りになったのを見計らって、堤防に上がってみた。水面が堤防から溢れそうに膨らんでいる。もちろん、日頃釣り糸を垂らしている顔馴染みの姿はない。4月の菜種梅雨のときも相当の雨量があり、川下の方では被害が大きかったと聞いている。
 西の空がまた暗くなり、大粒の雨が牛之助の頭を激しく叩き出して、慌てて家に駆け込んだ。
 次第に雨足は強まり、激しく1週間降り続いた。牛之助が住む鳥飼村でも、筑後川支流の金丸川が氾濫して、知り合いの家も床上まで水が上がった。大きく蛇行する筑後川は、いったん大雨が降ると、一夜にして流れを変えるほどに暴れまわる。
 この時の筑後川の洪水は、流域住民に最大級の被害をもたらした。明治22(1891)年7月5日のことであった。
 荒木村(現久留米市)に住む川島利三郎が、息を切らして牛之助の屋敷に飛び込んできた。荒木村は、最近上荒木・下荒木・今・白口の4ヶ村が合併してできたばかりの村である。利三郎は、旧下荒木村で小作農業を営み、牛之助の農業技術の指南役である。
「先生、荒木川(別名広川)の氾濫で、どこでんここでん水浸しですばい。川下の城島んにきじゃ堤防が切れて大変らしかですよ。下荒木も、いつ浸かってしまうか・・・」
 利三郎の声は悲鳴にも似ている。
「行ってみるか」
 2人は、「危ないから」と止めるツルの声を振り切って、大川の土堤に上がった。高い場所から川下の方を眺めると一面泥海であった。田畑は完全に水に浸かり、植えたばかりの早苗は見る影もない。水面に飛び出た農家の屋根が、まばらに見渡せるだけである。
 水に浸かっていない場所を、数人の男が行き来している。外の住民はいったいどこに消えたのだろう。うまく避難できたか、或いは水の底で冷たくなってしまったか、牛之助の脳裏を悪い予感が支配した。写真:昭和28年大洪水(久留米市下荒木)
 翌日、屋敷からほど近い梅満(うめみつ)にある鳥飼村の役場に赴いた。そこには、筑後一帯の被害状況が刻々と届いていた。
 当日の福岡日々新聞(現西日本新聞)は、次のように報じている。

 明治22年7月5日、未曾有の豪雨に見舞われ、上座・下座・夜須(以上筑前)、生葉・竹野・御井・御原・山本・三潴・久留米(以上筑後)の1市9郡は一面の泥水となり、死者52、負傷者71を出し、(中略)炊き出し7万320人に及んだ。

その他の記録にも、

流失家屋1263戸、半流失家屋860戸、浸水家屋2万6208ヶ所、橋梁流失1435ヶ所、田畑冠水1万9028町歩。

 当時の貨幣価値を考えると、想像を絶する被害額であったろう。
 「明治己丑福岡県水害史」は、次のように記録している。右図:明治22年の筑後川大洪水を伝える新聞記事(蛇行するのが筑後川本流で、黒く塗りつぶした個所が、浸水地域。

 福岡県に()いて歴史上未だ(かつ)て見ざる所の大洪水あり。県下至るところ惨害茶毒(さんがいさどく)(かか)らざる所なし。梅天(梅雨)に入りて気候益々度を失し、凄冷(せいれい)衣を脱する(あた)はざる日あり。
或ひは又蒸熱恰も甑中(そうちゅう)に在るが如き夜あり、人をして苦悩に耐えざらしむ。
ついて7月4日の夜より雨師(うし)大いに暴欲を
(ほしいまま)にし、電電霹靂(へきれき)強雨恰も傾盆(けいぼん)の状をなし、人をして悚然能(しょうぜんよ)く戸外に佇むことを恐れしむ。
其の降雨時間の遅速に至りては、各地多少の差異ありて、大分測候所に於ては同日午後2時乃至6時の間降雨最も猛烈。久留米に於ては5日午前6時より同10時の間最も急激なりと云う。災害の惨又惨、怛又怛(だつまただつ)なるものは、実に筑後川にして、其の水源の地方に於ては降雨の時期大凡(おおよそ)14時間早かりし故に、其の流下したるものと各支流一時に漲満(ちょうまん)し幹流に奔注するものと相会し怒涛激浪(どとうげきろう)、堤防を決壊し或いは之を踰越(ゆえつ)して田圃(でんぽ)に注流するの情景は恰も数個の白龍が天を仰ぎ水を吹きて相闘うがごとし。人力を以って之を防禦(ぼうぎょ)すること能はず・・・

 筑後平野を東西に流れる筑後川と矢部川に接する一帯の家屋と田畑は、井堰や堤防・溜池などの崩壊により、ほぼ壊滅状態に陥ったことが、被害をまとめた数字から伺える。

 維新後、何かと農民の面倒をみてきた牛之助のもとに、被災した者たちが続々と集まってきた。写真:昭和28年の大洪水(イメージ)
矢部川沿いの豊岡村・黒木町・串毛村(以上現黒木町)、上広川村(現広川町)、筑後川流域の大善寺村(現久留米市)、早津崎村(現久留米市)、荒木村(現久留米市)、安武村(現久留米市)、木室村(現大川市)、三又村(現大川市)、そして上津荒木村(現久留米市)、御原郡本郷村(現大刀洗町)、松崎村(現小郡市)と、その数は矢部川、筑後川流域のほぼ全域にわたっている。
 牛之助の屋敷は、まるで被災農民の避難所の様相を呈した。

貧困の筑後農民

「どげんしたらよかもんか。稲ば植えたばっかりのたんなか(田んぼ)が、水に浸かってしまうてはどうにもならん」
「お前は自分のたんなかば持っとるだけよかたい。残っとる米でん食うとけばよかけん。ばってん、俺たちのごたる水呑み百姓じゃ、自分が食うもんもなかたい」
「そげなこつは、二男坊じゃっても同じたい。日銭稼ぎだけじゃ、かかあや子供たちが干上がってしまう」
 農民たちの悲痛な声が飛び交う。徳川の世が終れば、人々は重税から解放されて生活も楽になると思っていた。しかし、維新後の身分制度や家族制度はさらに厳しくなり、税金も貧乏人ほど容赦なく取り立てられた。
 明治初期、、筑後地方の農民の生活は、今日では想像もできないほど質素で悲惨なものであった。農作業は夜明けとともに始まり、日暮れまで続く重労働。夜には藁仕事(わらしごと)など夜鍋が待っている。休みといえば正月とお盆のほか五節句と社日祭、川登り、祇園祭など、年間でわずか12日だけだった。
 子供たちの着る物は兄や姉からのお下がりばかりで、綻びを繕いながら、擦り切れるまで使い切る。子供たちにとって、祭りと正月は新しい下駄を買ってもらう機会であり、それが何よりの楽しみだった。
 農作業時の履物は草鞋(わらじ)と、ツノ草履と呼ばれる足裏を保護しただけの裸足同然のもの。作業に便利な地下足袋が登場するのは、ずっと後の大正期に入ってからである。
 食生活は、自らが生産者でありながら、極めて粗食であった。特に小作農家には上納制度が厳しく、作物の出来具合でその年の食べ物の質が変った。主食といっても米の飯にはほど遠く、ほとんどが麦か粟である。朝は雑炊に味噌汁と漬物。昼もご飯と漬物で簡単に済ませる。夕食は他のおかずがいらない団子汁が主流で、たまに多少皿数が増えて魚と大根の煮付けがつく程度。それが普通の農家の食生活であった。
 庭先で放し飼いにしている鶏が産む卵を、自分たちが食することはまずない。わずかながらも現金収入を得るために売りに出る。近くの川に行けば、(はや)(ふな)(こい)泥鰌(どじょう)(なまず)など、網を仕掛ければいくらでも獲れた。味噌汁の具になる貝類も、シジミやホウゾウゲ(蜷貝)がつかみ取りできる。しかし、これらも売るために街に持って行く。子供のおやつは、老人が蕎麦掻(そばがき)を作って食べさせた。 
 農家の屋根はほとんどが草葺で、瓦は収納倉庫に限られていた。土間は広く、壁は赤土を塗りこんだだけ。時間が経つとひび割れをおこして隙間風が吹き込んでくる。
 農民はそんな貧しい生活の傍ら、毎日田に出て、大根、人参、牛蒡(ごぼう)、フダンソウなど、せっせと種を蒔いて育てた。
 明治時代はすべてが家族中心で、家の継承者が分家の兄弟まで支配した。原則として長男が親の財産を受け継ぎ、弟は子供が小学校の尋常科か高等科を卒業するまでに分家しなければならない。筑後地方では分家のことを「シンヤ」とか「ワカレエ」と呼び、戸主である長男に従属する仕組みであった。親の財産を貰えない二男坊以下の息子は、長兄の農作業を手伝う傍ら、日銭を稼ぐために近くの工場などに働きに出ることが多かった。
 そんな農民のギリギリの生活に追い討ちをかけるのが、ここ数年の旱魃(かんばつ)であり、今回の洪水であった。
「去年は雨が降らんで、池の山まで水乞いに行ったばってん、今年は大水に悩まされる」
 川島利三郎と同じ荒木村に住む田川与吉が嘆いた。池の山とは、星野川上流の八女郡星野村の山中にある麻生池のことで、どんなに日照りが続いても池の水位が下がることがないという。そこで筑後地方の農民は、この池に水神が住むと信じて、昔から雨乞い信仰の対象にしてきた。


写真:雨乞い信仰の麻生池(星野村)

 牛之助は腕組みをしたまま、自宅に集まってきた農民たちの愚痴を聞いていた。この時代、「政治が悪い」「家族制度はこれでよいのか」なんて、大きな声で不満を言うことは許されなかった。彼らが立ち去った後、牛之助はまた筑後川の土堤に上がった。先日の大洪水が嘘のように川面は静かで、渡し舟が人と馬を乗せて、船首を対岸の肥前に向けて進んでいる。目を土堤下にやると、田んぼに植えた早苗はすっかり剥ぎ取られ、乾いた泥土が波打っていた。
 魔の7月5が現実として蘇った。筑後平野は広い。この空の下で被災した農民は今どうしているか、何を食しているか。一家の大黒柱は、家族の生活をどう切り抜けようと考えているのだろうか。


写真:安武付近を流れる筑後川

 改めて自分を振り返る。明治政府が打ち出した廃刀令で、武士の象徴である帯刀を禁じられたのが明治9年のこと。武士でなくなった者たちは、官吏や教師、新聞記者など得意分野に進出した。しかし、転出できない人間の数の方が圧倒的に多い。彼らは慣れぬ手に鍬や鎌を持って農業を始めるか、家禄を返上した見返りの金録公債を元手に商売人になろうとした。
 牛之助もその一人である。だが武士の商法では家族を賄うだけの商売に自信が持てない。これから妻と子供たちを養いながらどんな暮らしをしていけばよいか、そんなことを考えながら、未だ完全には濁りのとれない筑後川の水面を見つめていた。

苦難の士族授産

 牛之助は、幕藩時代の同僚武士が生き甲斐と生活の場を求めて遠い東北の原野に旅たった10年前を思い出す。それは、明治政府が失業武士の救済法として打ち出した「士族授産」と称する開墾・移住の保護奨励政策であった。
 旧久留米藩士の森尾茂助ら先発隊8名が、親戚や友人に別れを告げて旅立ったのが、明治11(1878)年10月の末であった。船と徒歩で目的地の福島県安積郡郡山に到着したのはそれから数カ月後だったという。古河(茨城県)から先の奥羽街道は、連日午前5時出発、日没まで歩きどおしでようやく目的地に到着した。
 先発隊が地ならしを終えて間もなく、相次いで本隊が移住し、その数140戸に及んだ。彼らは割り当てられた開拓予定地に「南久留米」「北久留米」などふるさとの名前を冠した。そして、予定地の中央には水天宮を祀った。入植したすべてのものは、その時広い自分の土地を持ち、たくさんの農作物を生み出して、故郷に錦を飾る夢を膨らませたに違いない。写真:安積開拓地に祀られた水天宮
 しかし、現実は厳しかった。政府の保護策が極端に圧縮されたからである。西南戦争に要した費用が予想外に膨らんだことがその理由であった。それに未曾有の凶作が追い討ちをかけ、農業経営ではずぶの素人の彼らには、どう対処していいものか皆目見当がつかなかった。さらに加えて「元士族」というプライドも邪魔をした。彼らは絶体絶命の崖っぷちに立たされた。
 後に宮本百合子が書き下ろした小説「貧しき人々の群れ」の一節に、当時の移住開拓団の暮らしぶりが克明に描写されている。

 村の南北に通じる往還に沿って、一軒の農家がある。人間の住居(すまい)というよりも、むしろ何かの巣といった方が、よほど適当しているほど(きたな)い家の中は、窓が少ないので非常に暗い。三坪ほどの土間には、家中の雑具が散らかって、(はり)の上の暑そうな鳥屋では、産褥(さんじょく)のいる雌鳥(めんどり)のクククククと喉を鳴らしているのが聞こえる。・・・三人の男の子が炉辺に集まって、自分らの食物が煮えるのを、今か今かと待ちくたびれている。・・・

 厳しい自然環境と過酷な生活に耐え切れず、移住士族たちの離村が相次いだと風の噂で聞いた。残った者も借財がかさみ、高利貸しに追い詰められているという。そして、やっと開墾した田畑も人手に渡り、彼らは次第に小作人へと転落していった。
「窮乏化士族に生活の基盤を与え、生活の安定を謀る」という明治政府の移住政策は、その限りでは成功しなかった。
 牛之助には、昔の武士仲間が生活の糧を求めて酷寒の原野に挑み、失敗したことを他人事とは思えなかった。やはり、武士が重労働の農業に転換すること自体が無理だということか。一方、未だ昔ながらの生活から踏み出せない自分は、生き甲斐を持てずに苦しんでいる。
 明治維新以後、武士としての特権階級を奪われた牛之助が、大善寺村で八百屋を始めたのが30歳の頃であった。市場や農家に仕入れに行くことはそんなに難儀なことではない。しかし、お客にいちいち礼を言って頭を下げることがどうも性に合わなかった。さっさと大善寺村の店を畳んで、1里ほど離れた津福村に移転してきた。
 今度は客に頭を下げずにすむ煙草の製造販売業を始めた。だが客は来ない。そこで思いついたのが、侍時代に覚えた女性の装飾品である(かんざし)の製造販売業である。幕末に、皇室警護のために京都に派遣を命じられたとき、宿舎の近くの簪の製造現場を覗き見して覚えたものであった。
 牛之助は、武術に優れている一方で、なかなか器用な一面も持ち合わせている。必要な道具を揃えて作ってみたら、我ながら見事な簪が出来上がった。簪の技術を応用して結納用のお茶包みを作ると、これまた評判を呼び遠方からも注文がきた。
 やりだしたら止まらない。幾晩も夜鍋をする。趣味の生け花も玄人はだしだし、絵も描けば和歌も詠む。襖や屏風も本式に貼れた。貼った屏風には得意の墨絵を施した。
 彼はそんな時必ず一升徳利を膝元に置いていた。妻のツルは、牛之助が酒の飲み過ぎで体を壊さないかとびくびくしている。そんな器用が売り物の商売では、所詮牛之助の生き甲斐とはならなかった。武術の腕を惜しむ昔馴染みに誘われて、久留米監獄の看守にもなったが、そこも生来の気の優しさが邪魔をして早々に退却した。今では川島利三郎に農業の手ほどきを受けながら、少しばかりの畑で野菜をつくるのが何よりの楽しみになっている。

ハワイ移住

 牛之助を頼りにやってくる農民の数は日を追うごとに膨らんだ。牛之助も生来の性分で、農民を見過ごせない。頼まれたら断れない。
 ツルは、考え込む夫の次なる行動を予感していた。
「先生、布哇(ハワイ)国が甘藷(かんしょ)(さつま芋)栽培のため、開拓移住民ば募集している話しは知っとるですか」
 剣術を教えたりして交流のある田川村の諸富清太郎が訪ねてきた。
「知らんな」
 身辺のことで頭の中がいっぱいの牛之助には、他国への出稼ぎの話しなど関心がなかった。
「今度大水に遭った者たちに役立ちませんかね」
「被災者救済」と聞いて、牛之助の表情が引き締まった。
「そりゃ、面白そうじゃな」
 うまくいけば、大量の被災者を、いっぺんに救済できるかもしれない。
「駄目ですよ私は。それに子供たちまでハワイとかいう海の向こうに連れて行くなんて」
 そばで聞いていたツルが、すぐに話の腰を折った。
「何もそうすると決めたわけじゃなか。話しば聞くだけでも面白かじゃなかか」
「駄目です。あなたはいつもそんな言い方をして、いつの間にか決めてしまわれる。従いていく私の身にもなってくださらないと」
 武士の時代の亭主関白は、今の時代には流行らないと妻は言いたげである。
 牛之助は、ツルの意見も意に介さず、神奈川県庁内に設置されている「布哇移住事業取扱官庁」に手紙を書いた。募集要項を取り寄せるためである。「要項」が着くまで、利三郎や串毛村の石崎熊蔵など主だった連中を呼んで、ハワイ移住について気持ちを打診した。
「今度の大水で、これからどげんしたらよかかわからんとです。食えさえすりゃ贅沢は言いまっせん」
 集まった者たちは、既にハワイ移住が決まったかのような意気込みである。
「300人くらいの人間を集めないことには、受付けもしてくれんじゃろ」
 300人と聞いて、今度は利三郎がため息をついた。
「お前な、物見遊山に行くとじゃなかとぞ。何もなか荒地ば一から耕して、トーイモ(さつま芋)ばつくろうちゅうとだ。何百人もの人間でやらんことにゃ、どげんもならんじゃろが。それに、ハワイといえば外国だ。言葉もわからんようなところに、少なか人数で行けるわけがなか」
「よございます。わたしが困っている連中に声ばかけてみまっしょ」
 木室村の田中栄蔵が2人のやりとりに割って入った。何日かたって、栄蔵が親戚筋の田中茂人など10人ほどを連れてやってきた。口コミはたちまち一円に広がり、上津荒木村や川向こうの御原郡からも人が集まってきた。


写真:旧三潴郡の農村風景(大木町)

「わたしは石崎さんと同じ串毛村に住んどる政太郎ちゅうもんです。串毛村じゃ百姓やっとっても先の見込みはなかけん、話しだけでん聞こうち思いまして・・・」
 ところが、肝心の神奈川県庁からはなかなか返事が届かない。福岡県庁の知り合いを通じて問い合わせてもらったが、どうにも要領を得なかった。集まってくる農民たちの苛立ちが募った。
「手を尽くして問い合わせておる。もうしばらく待ってくれ」
 牛之助は、役所の仕事の遅さがこんなことになっているのだと釈明した。
「わしは、黒木から1日かけてここまでやって来よります。こんなことじゃ、つきあっておられまっせん」
「かかあがやめとけちゅうのを無理して来よっとです。駄目なら駄目ち言うてくれんですか」
「どうせ野垂れ死ぬくらいならと、その気になったばってん、やっぱりそげんうまか話はなかばいね」
 代表格の川島利三郎が、その場を鎮めるのに必死だった。
「お前たちは、何ば言いよるとか。青木先生が何ば悪かこつばしなさったちゅうとか。静かに話しがでけんとか」
 しばらくして、その利三郎が沈痛な面持ちで牛之助に向き合った。
「先生、せっかくここまでしてくれなさったばってん、皆んなの気持ちがこげなこつじゃけん、ハワイ行きは難しかですよ。やめときまっしょ」
 利三郎の目が心なしか潤んでいる。
「よかじゃなかですか、話しだけでんよか目に会うたんじゃから。飲みまっしょう。打ち上げですたい、先生」


写真:八女市黒木の本分を流れる矢部川

 利三郎はそばにあった湯飲み茶碗を牛之助に差し出し、用意してきた1升徳利から酒を注いだ。しばらく沈黙が続いて、牛之助の右手が茶碗を差し出す利三郎の手を払いのけた。茶碗は畳の上を転がり、中の酒が飛び散った。
「何ば言いよるとか、腰抜けどんが。そげな拙か酒ば飲まるるか」
 牛之助の突然の怒鳴り声に、その場にいた者は思わずのけぞった。
「そんなら先生、どげんしたらよかちいうとですか」
 黒木町の原嘉一が恐る恐る牛之助に立ち向かった。
「このままじゃ生活ができんから何とかならんですか、と言うたのは誰か。お前たちじゃろうが。だから夜も眠らんで考えたじゃなかか」
「ばってん先生、神奈川からは何の返事もなかでっしょ。これじゃ仕事もてにつかんとですよ」
 嘉一は今にも泣き出しそうな顔をしている。
「わかった。それなら俺が今から神奈川まで行ってくる」
「待ってください、先生。そげん遠かとこまでどげんして行くとですか」
 成り行きが怖ろしくなって、利三郎が遮った。
「俺が俺の金で行く。文句があるか」
「先生にこれ以上迷惑ばかけたらいかんですよ」
「このままじゃ引き下がれん。利三郎、栄蔵、よかか、今からすぐに300人分の移住希望者名簿ば作れ。それば持って横浜の役所と直談判ばしてくるけん。早くしろ」
 しぶしぶ立ち上がった利三郎は、言われるままに部屋を出ていった。
「金ば用意してくれ」
 利三郎たちが引き揚げていった後、牛之助はツルに言いつけた。隣の部屋で娘のミサヲといっしょに耳をそばだてていたツルは、もう諦め顔であった。
 川島利三郎と田中栄蔵から300人分の移住希望者名簿と委任状を受け取った牛之助は、2日後の午後5時には鳥飼村の屋敷を後にし、夜を徹して小倉に向かった。
 小倉についてひと休みすると、渡し舟で下関に渡り、大阪行きの定期船に乗り込む。京都から横浜までは、蒸気機関車に牽かれる列車に乗った。生まれて初めての経験である。
 横浜駅に着いたのが久留米を発ってから5日目の朝だった。到着すると真っ先に神奈川県庁内に設けられた移住事業取扱官庁に飛び込んだ。応対に出た係官に、手紙で問い合わせたことに返事がないのは何故かと質した。絵:明治期の横浜駅
「ああ、あれね。あの募集は定員いっぱいになったから締め切った」
 係官の返事は素っ気ない。
「それならそうと、何故こちらからの問い合わせに返事せぬ」と詰め寄った。
 係官は面倒そうな表情を隠そうともせず、別の書類に目を落としたままである。
「また次の募集があるだろうから、その時改めて申し込んだらどうだ」
 係官があしらうのを尻目に、牛之助は再び汽車に乗り込んで東京に向かった。東京に着くとすぐに、牛込にある道林寺の東洲和尚を訪ねた。和尚とは以前梅林寺に修行に来た時の知り合いである。あの時和尚から、時代が大きく動く江戸の話しを聞かされて大いに興奮したものだった。
 東洲和尚は牛之助を快く受け入れ、彼の農民に対する思いやりが仏教の精神に合致すると言った。そして、政界には滅法顔がきく山岡鉄舟(1836−88)を紹介してくれた。
 山岡鉄舟といえば、旧幕臣で、勝海舟とともに「徳川存続のために」奔走し、西郷隆盛を説得して江戸城開城の基をつくった有名な人物である。維新後はどこかの県知事を歴任して、現在は天皇(明治)の侍従であると聞いている。
 東洲和尚の紹介とあって、山岡鉄舟は横浜市長に顔を繋いでくれ、横浜市長は牛之助をわざわざ県庁内の移住取扱係官のところまで案内した。


写真:山岡鉄舟の像(岐阜県高山市内)

「再度可能性を検討します」
 応対したのは先日の係官ではなかったが、市長のとりなしとあって、返事はすべて前向きであった。
 牛之助が鳥飼の屋敷に帰り着いたのは、大洪水の年も暮れようとする12月28日であった。利三郎たちを叱り飛ばしてすぐ旅に出て、既に2月半が経過していた。

 年明けて明治23(1890)年正月早々、神奈川県庁から三浦と名乗る検査官がやってきた。山岡鉄舟など大物の口添えがここまで効いたのかと牛之助は驚いた。だが、三浦検査官の移住嘆願書に対する答えは、牛之助が期待したものではなかった。
「期限切れではあるが、特例として希望者の35歳以下の者に移住を許可する。ただし、青木牛之助は引率者として特別に許可する」
 牛之助は検査官と膝詰め談判に及び、その場で「35歳まで」の年齢制限を38歳まで引き上げさせた。この時渡航を許可された者総勢600名であった。
 渡航許可を受けた者たちは、家族ともども2回に分れて慌しく旅たっていった。問題は移住を希望しながら取り残された231人である。彼らのすべてが制限年齢を超えたものばかりであった。移住できない農民たちの気の落としようは、傍目(はため)にも気の毒なほどの落ち込みようであった。
 牛之助は、そんな哀れな農民を見捨てるわけにはいかず、特例として認められた自分への渡航許可を辞退し、今後も川島利三郎たちと行動をともにすることを約束した。

第二章 新天地につづく 

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