復元された平尾山荘と望東尼像

第7部  再会と別れ

下関上陸

 望東尼らを乗せた帆船は、波荒い玄界灘から穏やかな響灘へ。更に馬関海峡(関門海峡)から吐き出されてくる船群を横目に、その先の小瀬戸へと進入していった。
「もうすぐですけん、辛抱してください」
 藤 四郎が、望東尼の背中をさすりながら励ました。慶応2年9月17日の夜中である。船は長州藩士の泉三津蔵に先導されて、竹崎の港に着岸した。丸一昼夜の船旅であった。着いた船着場は、白石正一郎邸の浜門(裏門)であった。


下関竹崎の港

 白石正一郎とは、下関界隈で荷受け問屋を営む豪商である。白石のもう一つの顔は、尊王攘夷派の志士たちの強力な後ろ盾でもあった。白石が世話した主な者をあげるだけでも、西郷吉之助(隆盛)や高杉晋作、坂本龍馬、平野国臣などそうそうたる顔ぶれである。
 白石正一郎は、夜中であることも厭わず望東尼らを出迎えた。
「ようおいでなさった。尼どののことは、高杉さんからも、くれぐれもよろしゅうと頼まれております。遠慮なさらず、まずはお身体をお労りください」
 主人は、日頃客人が使う離れの間に案内させた。聞きつけて集まってきた若い志士らも、長期の獄中暮らしで弱りきった望東尼に対し、必要以上に気を遣った。
望東尼は、そこにいるはずの人がいないことが気になった。平尾山荘で別れた高杉晋作のことである。高杉は、既に近くの商人入江和作の家に移動していた後だった。
その瞬間も、長州軍は馬関海峡を渡った向こうの小倉口で、幕府軍と激戦中であった。長州藩の指揮を執っていた高杉晋作は、疲労も重なり急遽戦列を離れて下関に戻っていた。望東尼らが白石邸に到着する数日前である。


旧白石邸の門構え

 白石邸の女たちが、総動員で望東尼の入浴や着替えを手伝った。虫けらのような扱いを受けた姫島での獄中暮らしが、作り話ででもあったかのように思える待遇である。用意してくれた布団に横たわった途端、意識は遠い夢の世界に迷い込んでいった。気がつけば、陽は真上に上がっていた。枕元には藤 四郎が座っている。
「気がつかれましたか、ハハウエ。相当にお疲れでしたね」
 望東尼が2日間眠ったままであったことを、藤 四郎が告げた。


白石正一郎邸跡

「ここはどこ?」
 下関の白石邸に着いたこともすっかり忘却の彼方に遠ざかっている。姫島での島民との語らいや、土間に茣蓙1枚の寝床を敷いて過ごした1年間。獄中に忍び込んでくる蜘蛛や蠅などとも、殺生を避けながらうまく付き合ってきたこと。遠くに見える対岸の灯りや居座る浮嶽の姿が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。大島での助作奪還の失敗も、下関上陸後白石邸の主人が親切に出迎えてくれたことも、女たちに体を洗ってもらったこともはっきりとした記憶から遠ざかっている。
「ここは、竹崎の浦(現下関市竹崎町)で荷受け問屋を商う小倉屋さんのお屋敷ですよ。脱獄を指導してくれた高杉さんの口利きで泊めてくださったのです。ご主人の白石さんは、ただ今遠方にお出かけだそうです」
 白石邸は、この時代商家には珍しい書院造りの建物であった。
「それで、あなた方は、どのようにして私を助け出したのですか」
 藤 四郎らは、望東尼を救い出すことに必死で、これまで肝心のことを本人には伝えていなかった。
「実はですね」と前置きして、高杉晋作の枕元に藤 四郎ら6人の実行部隊が集まったことから話し始めた。
「6人は、長州を出て浜崎(現唐津市)の対馬藩領内宿屋に集合しました。決行の6日前です」
浜崎領は、幕府にとって江戸・大坂への積み出し港として重要な藩領の役目を担っていた。そのため、港から鏡山に向かって商家が連なっていた。
対馬藩の尊皇攘夷派同志は、10人以上が乗船できる帆船と海流と風を読み取れる船頭2名を調達した。浜崎の港からは、天気さえよければ、姫島が見通せる位置にある。彼らは、島影が確認できる日を待って出帆した。

高杉療養の地

大政奉還まで1年

「して…、高杉さんは今どこに?」
 望東尼が一番知りたいことであった。
「最近まで、高杉どのもこの白石さまのお屋敷におられました。先の幕府との戦い(小倉口)で陣頭指揮を執られましたが、途中病がひどくなって、やむなく帰ってこられたのです。拙者ら6人に、ハハウエの救出作戦を指導なさった場所はこのお屋敷でした。その後、ここを離れて、桜山と言うところで療養なさっておられます」
「して、高杉さまの看護はどなたがなさっているのかしら」


高杉晋作療養の地

 聞きづらいことを聞いていると、望東尼自身は気づいていた。
「今一緒におられるのは、おウノさんというお方です。齢は22才だと聞いています。医者の石田精逸さまののおすすめで、桜山付近の『東行庵(とうぎょうあん)』にお住まいだそうです。東行とは、高杉殿の別の名前です」
 そこまで聞いたところで、頭痛が激しくなって話は途切れた。獄中や脱獄の際の長船旅での疲れで寝込むことになり、望東尼は高杉を訪ねる気力さえ失せかけていた。
 下関に着いて1ヶ月が経った10月中旬。平尾山荘から高杉を送り出してから2年が経過している。
 そんな折、白石邸に滞在する望東尼を珍客が訪ねてきた。来訪者は小田村文助と名乗る武士である。対面しても、すぐに誰だか思い出せなかった。
「太宰府の延寿王院の門前でお会いした折り…」
 そこまで言われて、記憶が蘇った。あれは、1年半ほど以前で、境内の梅が咲き始めた頃であった。延寿王院に幽閉中の三条実美卿に挨拶を済ませて表門に出たところで、見知らぬ武士に声をかけられた。男は長州藩士の小田村文助と名乗っていた。その時の侍である。
「本日は、藩主からご下命を受けた件をお伝えするために伺いました」
 突然、「藩主」と言われても、返答のしようがない。
「藩主より、お尼どのに特別の配慮をなすようにとの命を受けました故」
 藩主よりの配慮の命とは、「望東尼に応分の待遇を与えること。身の回りの世話をする娘をつけること」であった。地獄から天国へとはこういうことを指すのか。長州藩主の意図を完全に理解しきれないまま、申し出をありがたくお受けすることにした。小田村文助は、翌年9月、藩命により「楫取素彦(かじとりもとひこ)」と改名している。高杉亡き後の楫取は、明治時代を代表する官僚であり政治家となって後世に名を残した。特に群馬県政(知事)として富岡製糸場を見事に立ち直らせた実績は、後の世まで語り継がれることになる。
「尼どのから受けたご恩は、長州藩として決して忘れてはならないことです」
 小田村は、深々と頭を垂れた後去って行った。小田村が告げた望東尼に対する長州藩からの「応分の待遇」は、後日「二人扶持」支給ということになり、生活の保障を約束するものである。

辞世の句

王政復古の大号令まで8ヶ月

 下関上陸から1ヶ月経った慶応2年9月末頃、望東尼はようやく疲れと頭痛から解放された。そこで思い切って、高杉を訪ねることにした。もちろん、高杉に寄り添うウノとは初対面である。未だ娘盛りの面影を残す、色白で小柄な美人であった。
「お体の案配はいかがですか?」
 これからの暮らしのことなどを話題にしているうちに、場がほぐれていった。高杉は、一通りの挨拶を済ました後、今後のことなどについて話しだした。
「今住んでいる桜山には、僕の発案で昨年完成した招魂社があります。ここは、世を変えるために命を惜しまなかった奇兵隊諸君の霊魂を祀るためのお社です。奇兵隊の働きがあってはじめて、長州は幕府の悪性を正すまでの力を持ったのですからな。その陰には、福岡藩や対馬藩諸君の力添えがあったことを忘れてはいけないのです。楫取素彦君にも、その点をくれぐれもと申し伝えております」
 望東尼はその時、自分が高杉の看病に尽くすべきだと決心した。
 時代は、德川時代の終焉を迎えようとする劇的な転換期にあった。皮肉にもこのとき、高杉晋作の命は幾ばくもなかった。
 慶応3(1867)年。270年間続いた德川幕府が崩壊する年に突入したのである。春本番を迎えた2月、望東尼に対して長州藩主毛利敬親から、「二人扶持」を支給する旨正式に伝えられた。これで、異国の地で暮らしていける目途が立ったと一安心する。
去年今年(こぞことし)かなたこなたにまどひつつ徒(いたずら)にのみすぐす春かな
 そうなると、筑前国から渡ってきて安全な場所にいる我が身が、もったいないような気持ちにもなる。藤 四郎から得た情報では、孫の助作は大島ではなく、当初から福岡城下の枡木屋の獄に縛られていたらしいとのこと。
 望東尼は、白石邸を離れて商家入江和作邸の離れに移った。これも、高杉が声をかけてくれたものであった。高杉も街中の妙蓮寺そばに建つ林算九郎宅の離れに移り住むことになった。高杉晋作、人生最終の居住地である。


高杉最期の居住地

 望東尼は、高杉看護のために、林算九郎宅に泊まり込むことにした。それからは、ウノと二人がかりの看病に明け暮れる毎日が続くことになった。


高杉辞世の句碑(防府天満宮境内)

 だが望東尼の願いも叶わず、高杉の最期の時がきた。望東尼は、枕元に座り込んで、高杉の口もとに耳を近づけた。
 高杉は、枯れ枝の如くか細くなった自らの手に筆を載せさせ、辞世の句を詠んだ。

面白きこともなき世におもしろく…

そこまで読み終えて、あとの句を望東尼に託した。

…住みなすものは心なりけり

「面白くもないこの世にあって、それでも面白く生きていくにはどうしたらよいものか」と望東尼に問うた。返ってきた句は、「周りがどうあろうと、あなたならどう思うかが大切なことですよ」と応えたのである。あなたは、こんなにボロボロになった身体でも、よくぞこれまで頑張りました、と結んだのだった。
 重篤の知らせを聞きつけて、多くの同志が集まってきた。慶応3年4月13日。高杉晋作は大勢の同志に見守られながら、静かに息を引き取った。享年29歳であった。倒幕と「大政奉還」の夢が叶うまで、残すところ半年である。そばで大泣きする同士や望東尼から離れて、愛人ウノは別室で一人すすり泣いていた。

葬列

 高杉は、多くの同士に見守られて、黄泉の国へ旅立った。夜空のもと下関から小月を経て吉田村まで、6里に及ぶ野辺の送りが始まった。このコースと墓所はすべて、高杉晋作本人の遺言によるものであった。参列者は3000人。全員が松明をかざしての行進であった。清水村の清水山に設えられた墓地に棺が到着したのは、出発から5時間後の夜10時を過ぎていた。
 望東尼も、列から遅れまいと必死でついていったが、途中で息切れしてしまった。行列の進む先々で、高杉の死を悼む人々が見送った。望東尼にとって高杉の死は、夫貞貫との永久の別れの儀式とも重なった。
 足を引きずりながら入江宅に戻った望東尼は、翌日から呆然と時を過ごす日々が続いた。夫貞貫の死から10年。この間に掛け替えのない人を、何人送り出したことか。そして、自分一人がこの世に取り残されている。
 ウノ(出家して梅処尼)は、愛するお方の供養を生涯の務めと決心して仏門に入った。彼女が書き残した文がある。


出家後のウノ(梅居尼)

「高杉は自分にとって「命の親様」である望東尼殿のために、部屋をきれいにしつらえ、何の不足もないようにしました。私は当時二十二、三歳でしたが、既に六十歳を越えていた望東尼殿を母親のように慕い、貴女さまの指示に従って高杉を看病致しました。最期は三人で住んでいましたが、望東尼どのが風邪を引いて寝込んだときなど、三階に望東尼どのが、一階には高杉が寝ていました。私は、高杉と望東尼どのが寝込んだまま詩と歌のやりとりをするので、階段を昇ったり降りたりして、さすがに足が疲れました」
 高杉の死後、望東尼は高杉夫人のマサに、次の歌を棺に入れてほしいと託した。
奥つ城(おくつき)のもとに吾が身はとどまれど別れて去(い)ぬる君をしぞ思う
だがマサ夫人は、預かった歌を棺には入れなかった。夫人にも、他人には絶対に見せたくない意地のようなものが存在したのであろう。

つづく

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