06/08

―議論と感情の間

 
 何人も、自分の眼で見て脳で判断した以外の世界を目にすることは出来ない。
 将来、外の光を直接、脳に送り込んでくれる機械が出来て、眼球が無くても景色を景色と判別できるような時代が来るのかもしれないが、今のところはまだ無理だ。そりに、もしそんな時代が来たとしても、自分の脳以外のものが代わりに判断してくれることはないし、自分の脳を通すという時点で、結局、この世界は主観で出来ていると言わざるを得ない。

 しかし、主観的な世界に必要以上の感情が交じるかどうかは、また別の問題なのである。 科学とは、出来る限り主観を排除して分析すること、言って見ればドライであることが必要なものである。「科学」とはモノの考え方なのである。決して「文明」のことではないし、「技術(テクノロジー)」のことでもない。人が陥りがちな主観的な視点を、ちょいと客観に切り替えた状態を指す。主観を完全に排除することは難しいとは思うけれど、思い込みや期待で見てしまうと、科学的な結論は出せない。

 私情を挟まずに事実を検証すること。自分の主張を自分の中だけで完結せず、他に根拠を求めること。たとえ自分の主張に反する事実があったとしても、それを無視せず切々と受け止めること。それが必要である。懐疑的になることは、決して想像力を失うことではないし、思考から夢や自由を奪うものではない。目をそむけることは逃げることだ。思い込みや期待のために事実を拒否することは世界を狭めることだ。それでは意味が無い。「科学は万能ではない」などと尤もらしいことを言う前に、まずは己を科学的に分析すべきだ。


 古代文明や神話なんてものは、多かれ少なかれロマンに満ちた空想に彩られて、再構築された物語だと思う。歴史は真実を追いかけるより、事実から妄想するほうが面白い。
 だが、自分の理屈に合わないからと多くの事実を切り捨てて主張する内容は、結局は土台が無い建物と同じこと。すぐに倒れてしまう。現実に存在するものの完璧な存在感にはかなわない。証拠は必要。検証すること、自分がそうだと思う理屈に対する反証や反論を洗って、本当に正しいのかどうか考えてみることは大切だ。
 知識なくして正しい理屈は立たず、検証なくして理屈が正しいのかどうか分からない。事実と空想の区別がついてない話は小説の中でやっておけばいい。
 「こうだったらいいな」という空想があったとしても、検証してみて違うと思ったら引き下げる。それは、自分に対して厳しくあることだと思う。また人が「こうだと思う」という主張をして、それが間違えていると思われる証拠が自分の手元にあったら、惜しみなく差し出すことが、相手に対する真の思いやりだと思う。「あなたは真実に迫りたいのか、それとも愚か者のまま自分の頭の中だけで道化師のダンスを踊りたいのか。」そう問いかけてやるといい。

 ただし、これは私のやり方なので、気に入らないと思われるのは仕方が無いことだと思う。
 私はなぁなぁでやってくつもりなど毛頭ない。「それは違う」と思うことは違うとズッパリ言いたいし、自分の意見と違うことがあれば「自分はこう思う」と言いたい。言い方の問題もあるのだろうが、自分に甘く、疑いもせず、土台のない薄っぺらな絵を本物と崇めている人を見ると、泣きたくなってくる。その上、批判的な意見を聞くや顔色を変えてお前は本当に分かっているのかと迫ってくる。

 議論するのに「あなたは若いから」とか「専攻したわけでもないから」とか、そんなつまらんことを理由にしてくる人に出会ったことは、数知れず。おお、情けない。
 ヒステリックな女のケンカじゃあるまいし、理屈にも反証にもなってない。さらに議論の上で相手の人格や議論そのものを否定しだすともう最悪。ちっとも科学的じゃない。かといってオカルト的でもない。たとえ年上であっても思わず笑ってしまうんですよ。

このへんは「知性の低そうな文章の書き方」にある、以下のコピペをご参考に。

真っ当な意見と見せかけ、実は詭弁で論点をはぐらかす輩が多々おります。
皆様も以下の「詭弁の特徴」を覚え、そういう輩を排除しましょう。

例:「犬ははたして哺乳類か」という議論をしている場合
   あなたが「犬は哺乳類としての条件を満たしている」と言ったのに対して
   否定論者が…

 1:事実に対して仮定を持ち出す
     「犬は子供を産むが、もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
 2:ごくまれな反例をとりあげる
     「だが、尻尾が2本ある犬が生まれることもある」
 3:自分に有利な将来像を予想する
     「何年か後、犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
 4:主観で決め付ける
     「犬自身が哺乳類であることを望むわけがない」
 5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
     「世界では、犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
 6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
     「ところで、カモノハシは卵を産むのを知っているか?」
 7:知能障害を起こす
     「何、犬ごときにマジになってやんの、バーカバーカ」
 8:自分の見解を述べずに人格批判をする
     「犬が哺乳類なんて言う奴は、社会に出てない証拠。現実をみてみろよ」
 9:不可能な解決策を図る
     「犬が卵を産めるようになれば良いって事でしょ」


 超古代文明論者とか、宇宙とか転生とかヒーリングとか系の人と話をすると、大抵↑こういう論調になり全く話にもならない。そういう支離滅裂になりがちな論旨を向う先から撃ち殺してきた過去が今のこのキッツい口調を形勢する一因にもなっているのだと思ってもらっても構わない。私の頭の中には、話の通じない人間に対する精一杯の抵抗としてのアイロニーが山ほど隠れていて、条件が整うと片っ端から打ち出されてしまう。

 「自分がこう直感するから、こうなのだ」などという論拠は、私には全く考えられない。
 直感は確かに最初のとっかかりとしては重要だが、そこから証拠を集めて、組み立てて、人を納得させられるだけの論理に導くこともせず主張できる人がいること自体が脅威だ。



 さて、少し話は変わるが、言葉とは、力である。
 HTMLで作られたページの向こうにいる「生」の人間が見えないことが普通な、このインターネットの世界では、文字情報がすべて。どんな美人も、素晴らしい経歴の持ち主も、インターネット上では等しく日本語のみで勝負するしかない。(絵を描くとかそういう表現は省く)

 日々、言葉と言葉で自分の分身たちを戦わせながら思うことは、「その言葉が、どれだけの根拠を持っているか」である。感情を伴う言葉は、確かに強い。強いが、それは現実の世界においてである。表情や、口調や、身振りを備えてはじめて、訴える力を持つ。インターネット上の世界では、必死の言葉もただの活字に過ぎない。
 画面の前で相手がどれだけ腹を立てていようが、悲しんでいようが、私には全くもって分からない。とくに議論の場においては、感情で荒げられた言葉は、ほとんど相手に届かない。

 今、Blogの流行などで、インターネット上には様々な言葉が溢れる。何の気負いも無く、誰かに見られていることを意識もせず、或いは自分が想像したとおりに見られていると思い込んで、言葉を垂れ流している人も多い。
 だが、実際はどうなのだろうか?
 ここは、その人が言葉を形作るのではなく、書かれた言葉自体が、画面の向こうにいる人を構成する世界。読み手は、画面に見える言葉から、それを書いた人を想像するのである。
 言葉だけの世界ににどう立つか、どう表現するか?
 冷静に、自分の言葉を操れる者の勝つ世界であることは、お忘れなく――

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