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―錬金術師と緑のライオン

 

 錬金術と言うと、いかがわしいイメージが多いのではないだろうか。
 「えっ、魔法使いの同類でしょう?」とか、「金つくれる人たち」とか。
 地下室で薬を作ってそうだ、とか。

 しかし、それは過ちではないものの、「後世に作られた」大衆向けのイメージだ。

 実際のところ、実在した錬金術師たちの本来の姿は、実は、金属とはあまり関係が無かったようだ。彼らが本当に作りたかったのは、「金」という金属ではなく、金に象徴される「あるもの」だったから、である。

 例えば、子供が「ボクおっきくなったら総理大臣になる!」と言っていたする。
 しかし、その子は当然ながら政治のことなんか全くわからない。総理大臣が何してる人なのかを知らない者が「総理大臣になりたい」と言ったからといって、本当に、「総理大臣」になりたいとは限らない。
 大切なのは、その子の頭の中では「総理大臣=いちばんエライ人」というイメージがあるということだ。そのイメージさえつきとめれば、その子が言いたいことの本質は、「総理大臣になりたい」ではなく、「いちばんエライ人になりたい」と、いうことだと、分かるはずなのである。

 もう一つ、例えを挙げよう。
 たいへん頭のいい子がいたとする。周囲の大人たちが「アイツ、東大にでも行きそうだよな。」と、話している。
 しかしこれも、別に頭のいい子がみんなして東大を目指すという意味ではなく、「東大=日本の大学の頂点」という基本的なイメージがあるために発せられた言葉なのである。
 その子はもしかしたら、京大を目指すかもしれないし、慶応や早稲田や、外国まで行ってハーバードなんかに行くかもしれない。実際は、東大より偏差値の高い大学があるかもしれない。
 しかし、やはり「東大」でなくては、その子の頭のよさを言い表す表現にはならない。部分的に東大より偏差値が高かったとしても、「アイツ、東京医科歯科大にでも行きそうだよな。」では、ピンとこないだろう。

 これらの例と同じことが、錬金術という呼び名にもあてはまる。
 金を作れる=錬金術師、では、ない。金というものが稀であり、非常に重い価値のあった時代だからこそ、そのような価値あるものを作れるくらい物事の法則に通じるこ人のとを指して、錬金術師と呼んだのである。

 当時の感性でいえば、金を作れる=大賢者、といったイメージではないだろうか。

 本来錬金術師と言われた人々は物事の研究者、実験・実践をともなう行為によって真理を探究する特殊な哲学者のことを指していた。
 彼らは物質の本質を極めつくした、大賢者になりたかったのだ。

 と、私は解釈している。(他にも解釈の方法は、あるかもしれない。)

 その解釈をもとに、話を進めたい。
 哲学の授業などでも習うだろうが、古代ギリシアの哲学者たちは、「世界の根源とは何か」「人間とは何か」などといった、根本的な命題についてあれこれと思索をめぐらせていた。
 今でも、高校生くらいの若者たちや、就職前の大学生は同じようなことを考え、悩むものだろう。

 錬金術の基本は、まさにここにある。
 現代においてなお、人が持ち続ける疑問、哲学者が何千年も前から考えていた、終わりなき真理の探究である。錬金術は、その「根源」を求める哲学の流れを受けて、ギリシア周辺で発生したものと考えられている。

 では、その哲学者たちが、なぜ「いかがわしい」イメージになってしまったのか。――――
 それは、彼らが決して自分たちの考えを表ざたにしなかったからということ、そしてもう一つは、地下に潜って研究を続けていたことが原因と思われる。
 どんなに崇高な目的を掲げて研究していても、自分たちが何をしているのか周囲に全く説明しないのであれば、単なる「怪しい人たち」にしか見えないだろう。
 そんなわけで、いつのまにか「錬金術師は魔法使い、怪しい人たち」というイメージが出来てしまったのではないかと思う。


 そこには更に、「暗黒時代」とも呼ばれる、中世ヨーロッパの時代背景が、深く関わっている。

 一般的に、錬金術の成立は紀元三世紀ごろ…ちょうど暗黒時代が始まろうという時代とされる
 当時、キリスト教教会は、絶対的な力を持って思想を統一し、異端と思われるものすべてを排斥する強硬手段を取っていた。
 ”神学は認めるけれど、それ以外の学問は危険。”
 教会にとって、物事の本質を知ろうとし、疑問を呈する哲学は、ある意味で、キリスト教に反する邪魔者だったという。知恵とはすなわち、禁断の木の実を食ったアダムとイブが手に入れた、悪しき遺産である。

 これは、何も大昔の話ではない。
 たとえば、ダーウィンの話を挙げてみよう。
 彼が進化論を発表した時、教会は、「それは神を冒涜する考えだ」と物凄い反発をした。なぜなら、聖書において生物とは神が創造したものであり、決して変わらぬものとされているからである。生物が進化する、ということは、聖書に反する事実となってしまい、危険な思想なのである。
 現在においても、アメリカの一部の地域では、「聖書の内容と相反する」という理由から、学校で進化論を教えてはいけない、と、いうことになっている。

 同じことが錬金術師たちの身にも起こった、と考えられる。
 いかなる理由があろうと、物質の作り変えを行うということは、人が神になろうとする行為だと取られかねない。特に言論弾圧の激しかったから時代からすれば、とんでもない危険思想ととられただろう。
 彼らが地下に潜り、自分たちの知識を隠さざるを得なかったのは、身を守るための致し方ない部分もあったのだろう。

 また、そのように錬金術師たちが地下にもぐり、活動が不明瞭になった上で、教会にとって望ましくない勢力という意味で悪魔的、魔術的なイメージが付加されたのかもしれない。


 錬金術師のイメージ形成については、もう一つある。

 オカルト好きな人ならご存知だろうが、錬金術師たちのバイブルとされる書の名前は「ヘルメス文書」という。
 この文書は、知恵の神ヘルメス・トリスメギストスによってもたらされたことになっている。 ヘルメス・トリスメギストスというのは、実はエジプトの知恵の神トトと、ギリシア神話の商業の神(&詭弁)の神ヘルメスをごっちゃにした、神様である。
 正確に言うなれば、ギリシアにいたヘルメスという神が、エジプトから海を渡って輸入されたトトと融合したものと思われるが、この合一は決して偶然では無かった。

 当時、エジプトの科学技術はかなりのもので、すでに人工宝石の製造まで可能にしていたという。この加工技術は、「物質の作り変え」という、錬金術の基本的な発想と繋がる。
 エジプトは地中海を挟んでギリシア周辺の国との交易をしていたため、製品とともに、技術や宗教が伝播していったのは至極当然のことだろう。
 つまり、錬金術師の教えとは、ヘルメスとトト、異教の神々の教えが融合した結果生まれたものとも取れるわけで、教会にとって「危険な、邪教の」教え、と見なされても仕方が無かった。

 邪教崇拝者だと思われれば、命が危険にさらされる。
 そのため、錬金術師たちは、自分たちの研究内容を公開することも、他人に教えることも出来ず、何百年にも渡って地下で延々と研究を重ねるしか無かったのだろう。
 (ちなみに、錬金術にエジプト関係のシンボルが大量に登場するのも、エジプトっつったらオカルト、と思われているのも、ここらへんが原因と思われる。)

 彼らの本来の姿は、「黒魔術師」ではない。れっきとした現実世界の哲学者なり、古代の化学者であり、もしかすれば、思想レジスタンスや異教の崇拝者であったかもしれない。

 しかし、時代が下るにつれ、錬金術師たちは本気でヤバい人たちになっていく。

 初期の錬金術師たちが、誰にも自分の研究内容を教えなかったため、正確な研究内容が残されなかったのだ。暗黒時代が終りに近づくころ、生き延びた錬金術師たちは、実に役にもたたないモノを自己満足のうちに研究している人々になっていた。
 誰かに発見されて検挙されることを逃れるためか、研究報告書を暗号で書いたのも仇になった。図で暗号化するのは、いいアイディアだったが、見た目がアヤシい上に、解読できる人がほとんどいなかったのである。

 どんな暗号だったのか、「緑の獅子」と呼ばれる図を例に挙げよう。
 これもオカルト大好きな人ならご存知のはずだ。

 緑の獅子とは、そのものズバリ、緑色のライオンが太陽をくわえて食べようとしている絵を指す。⇒こんなん。

 錬金術の暗号では、緑の獅子=酸太陽=黄金、を示す。この解読を使うと、右図にある緑の獅子の絵は、「酸を使って金を溶かす」という、化学的な記述になるのである。

 ほかにも、天体を金属にたとえる、天体の位置で化学変化の意味を表す、など、複雑な暗号が沢山、残されている。
 RPGによく出てくる魔方陣の記号、トーラも、実はこうした暗号の一つとして生み出されたものだ。(単なる三角形に見えるが、実際は”火”を表している。)

 これならば、もし誰かに見つかっても、「イエ。ただのラクガキです。意味なんかありません」と言い張ってしまえば、それまで。

 この、錬金術たちの「共通のお約束ごと」は、後世に正確に伝わらなかったために、大いなる誤解を生み出した。…つまり、本当にライオンに太陽を食わせようとしていたのだとカン違いされたのである。
 「金星と水星の合一」という記述が、そのまんまの天体現象として捉えられたように…。



 13世紀半ば、教会の勢力が弱まり宗教的な対立が薄れはじめると、それまで千年にも渡って地下に潜っていた錬金術は明るみへと戻り、一部の者は、それまで自分たちだけで抱え込んでいた神秘的な哲学を、表舞台におおっぴらに公表しはじめた。
 そこで彼らの持っている思想や技術は大衆の目にさらされることになり、誤解とともに、拡散することになった。

 限られた者だけが閉ざされた世界で使用するから、「お約束」は通用するのである。
 友達の間では普通に「超イケてる」なんて言葉を使って通じるかもしれないが、おじぃちゃんおばぁちゃんに、そんな言葉が分かるはずがない。外「それどういう意味ですか?」と、マジメに聞かれても、答えにくいだろう。
 下手に説明すると、意味が誤解され、間違ったまま広まってしまうかもしれない。

 それと同じで、研究内容を公表した錬金術師は、自分たちの培ってきた思想が非常に特殊なもので、一般には理解されがたいものであることに気付くのが、遅すぎたのだ。

 こうして、急激に大衆化された錬金術の思想は、一気に低俗化してしまった。
 物質を自由に作り変えることが出来るなら、石ころからでも、金をつくれるようになりたい。
 大衆の求めるものは、メシのタネにもならない面倒な哲学ではなく、世界の根源などどうでもよく、即刻カネになる金をつくる技術だったのである。

 この、時代の急激な変化とともに、思想が解体されていった。錬金術の持っていた哲学的な要素と化学的な要素が分離して、それぞれに独立した学問に生まれ変わる。
 オカルト的な要素は、錬金術思想からは分離して、有名な「薔薇十字(ローゼンクロイツ)結社」がつくられた。(薔薇十字は、貴族さんの娯楽。)

 よく書籍やマンガで言及されている「錬金術」の大半は、実際は、この「ローゼンクロイツ」あたりのものである。オカルティストたちが騒ぎ、現代でも通用している錬金術のイメージとは、13世紀以降、つまりは錬金術が大衆化されたあとの時代のものだと言えるだろう。

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 このように、時代とともに意味合いがかわり、本来の意味合いを失ってしまった錬金術なのだが、厳密に言うと「化学」ではなかった。

 最初のほうでも書いたように、彼らはむしろ哲学的な部分に重きを置いていた。何百年も化学実験を繰り返していながら、自然科学へと発達することが出来なかったのには、一つは、それを「哲学」としてとらえ、物質の変換作業に自らの精神を映そうとしていたという理由があるのではないか。

 物質がある一定の法則で性質を変えることは「経験」として知ってはいたが、どうしてそのような変化が起こるのかは分かっておらず、原因を、「自らの心理状態」など、精神的な部分に還元することが多かった。
 その意味では、錬金術師たち自身もまた、自分たちのもつ知識を、「魔術」として捉えていた可能性があると言えるだろう。


 完全に論理的な化学という学問が成立するのは18世紀に入ってから。
 錬金術の誕生から、実に千五百年が経ったあとのことだった。

 錬金術が本当に金属の精製などしていたのなら、不老不死の薬だのホムンクルスだの作るより、まずはプラスチックだの合成ゴムだのを発明していたはずだ。「現実に」ある役に立つものを何一つ作り出すことが出来なかった錬金術に、「現実を超えた先に」ある役に立つものが作り出せたとは思えない。
 千五百年もほとんど進化なしに存在したということが、錬金術の哲学的側面を裏付けるものであり、化学としては非常に感覚的な手探りの学問であったことを示唆するものだと、私は思う。


 錬金術から分離した「オカルト」は、貴族の娯楽としての「薔薇十字団」などへ。
 「化学」は、独立して現在私たちの知るような形への進化の道へ。17世紀には、まだ錬金術と化学が近いジャンルとして扱われていたらしく、ニュートンなども、化学を通じて錬金術に触れていたという。

 そして、残る哲学の部分はどうなったのか、というと…。

 錬金術師たちの活動の中核であり、彼らの目指したものにより近いこの分野は、皮肉なことに、彼らを地下に追いやった教会の神学者たちによって継承されていた。

 13世紀以降に書かれた錬金術の書には、「一にして全一なるもの」という表現が出て来ることがある。
 これは、「絶対なもの」つまりキリスト教に言う「神」のことである。聖書においては、絶対的なもの、ただ一つのものといえば神のことを指している。

 錬金術といえば「賢者の石」だというのは、よく知られた話である。
 この世のあらゆる知識を秘めたもの、不老不死の源、万能のもの、その他もろもろの形容詞を帯びた、すばらしいものとして挙げられている。世界の根源を知らなければ作り出せない、錬金術師たちにとって最高の到達点だったのである。

 神学者たちはこの「賢者の石」を、「神」と結びつけることによって、「石をつくりだす」のではなく、「石を見つけ出す」ことを考えていたようだ。
 この世の事象の中に、賢者の石=絶対的なもの=神を見つける、という解釈の仕方である。
 これを、少々難しい用語で「救済表象としてのキリスト」なんて言うこともある。

 時代が過ぎた後、神学者たちは解釈の仕方を変えることで錬金術テキストを神学と融合させ、錬金術を自己鍛錬のための考え方として作り変えていった。
 錬金術の技術=賢者の石をつくるための研究は、賢者の石=神へといたる道へ。そしてそれは、己のうちに神を見出すための手段となり、オカルトで言うところの「イニシェーション」へと繋がっていくことになるのである。


 一つ付け加えておくならば、これら「化学」「オカルト」「哲学」が分離する以前の錬金術たちは、「賢者の石」も「エリクシル」も「金」も作れないことは、とっくに知っていた。何も作れないのに、作れるフリをして研究を続ける。言っちゃ何だが、錬金術師とは、かなり変わった人たちのようである。

 有名なパラケルススなどは、さっさと錬金術を捨てて、医者に転向している。
 と、言っても今で言う西洋医学とは違い、心霊治療に近い雰囲気の医学である。少しだけ彼の本を読んだことがあるのだが、
 「何? キミはしし座の生まれか。うーん、しし座は太陽宮だから、金だなぁ。金といえば…」
と、こんなカンジで薬を処方してくれるようだった。(笑)
 それで治るのかどうなんだか…、錬金術自体の思想も難解だが、これを医術だと言い切る思想も難解である。


 本当の意味で錬金術が終焉を迎えたのは、17世紀、ルネサンスは終わりを告げ、ヨーロッパは新たな方向へ向けて暗黒時代の遅れを取り戻そうとしていた辺りのことだったとされる。
 デッラ・ポルタ(業界では有名なヒト=例えばドラクエのシナリオライターみたいな限定カリスマ)は、言っている。「錬金術は時代遅れだ」と。
 マゼランが世界一周をして「地球は丸い」ことを証明し、種子島に鉄砲が伝来する時代になっても、まだ錬金術師たちは化学と魔術の違いを理解してはいなかった。そこにいたのは、もはや、かつての思想パイオニアたちではない。例えるなら、内輪ネタすぎて誰にも分からない同人誌をつくって楽しむオタクたち、といったところだろうか。
 すでに在る答えに満足してしまったら、学者ってのは学者たり得ないのである。

 近代物理学の祖、ガリレイが登場したこの時代、最初に地下に潜る要因となった宗教対立はとうの昔に失われ、異端とされていた化学技術は、パラケルススのように正統派からドロップアウトした人々によって独立した道を歩み始めていた。
 それは同時に、思想を束縛する宗教的圧力からの解放を意味している。
 錬金術は、存在意義が無くなったため自然消滅した…と考えるのが妥当だろう。

 残された魔術的な要素は、このあとも何百年か細々と生き残り、ローゼンクロイツなどのオカルト団体に敬称されていくことになるが、それは、本来の意味合いを欠いた抜け殻的なものだったのである。


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 結論として。

 確かに錬金術はイカガワシイ。
 でも、それは「正しい」と同時に「全て」ではない。錬金術という思想は、歴史的背景のもと、必然があって誕生し、必要性がなくなったために解体され、次の段階へと進んで現在に至るものである。

 ただ、今の時代にあっても私は、化学知識と哲学が融合された錬金術という学問に魅力を感じている。
 技術のみが独立して横暴に振舞う現代において、どこかで、かつての精神と融合した技術を欲しているのかもしれない。
 未熟で迷信深く、非科学的ではあるけれど、それゆえにどこか暖かい、古臭いながらの知の世界。それは決して怪しげな魔術を求めるのではなく、人間味に溢れた学問への回帰を意味しているのではないだろうか。
 四角四面に「こんなことは起こり得ない」「科学的に見て不可能だ」と斬り捨ててしまうのでは、なんだか物寂しい。
 だから、夏になって「怪奇特番」なんてタイトルを見つけると、ついついテレビを見てしまうのかも…しれない(笑)。


つまんないオカルト本を引きたくないアナタには、
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 錬金術 宇宙論的生の哲学 澤井繁男著(講談社,1992)
 概説 西洋哲学史 峰島旭男著(ミネルヴァ書房,1989)
 心理学と錬金術1、2 C.G.ユング著(人文書房,1976)
 古代エジプト文字手帳 松本弥著(弥呂久出版,1994)

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