06/03/28 | |||||
―社会心理学の限界 |
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どんな学問にだって限界はあろう。限界だなんて、そんなもん極めてもいない学部生に言われたかねーよ、と言う人もいるかもしれない。しかし学部にいた間、常々感じていた疑問に結局誰も答えてくれないまま、限界の先を見出せずに去ってはや幾年。今でも「心理学」という学問ジャンルの発展には疑問が拭えない。 ぶっちゃけて言ってしまうと、自分がい大学で学んだ社会心理学という学問には、先がないのではないかと疑っている。 社会心理学は「社会」心理学とはいうものの、相手にする社会というのが実に限られた「社会」だけだ。 研究者は手間を省くために大学生を実験体に使うことが多い。フィールドワークと言いながら、出かけていくのは大抵、近隣の町や学校程度で、グローバルな視点を持っているとも思えない。当たり前といえば当たり前だが、専門の研究者の多くは大学の教授や助教授なワケで、講義の片手間に研究をしている。言ってみれば、じっくりとした社会調査などしているヒマがない。研究室にこもりっぱなしの軽い「ひきこもり」状態で、一体どうやって社会的な研究が出来るものかと、ぶっちゃけどうしようもなく根本的な疑問を覚えた。 そして、社会心理学が、その人の背景にある「社会」と切り離せない視点から心理の分析を行う以上、世界中にあまた存在する様々な文化圏、その違いというのが、難関になってくるのではないかと思った。 人間というのは、社会的な生き物である。その行動は、生まれてからこのかた、所属している社会の中で学習され、形成される。多くの反応、たとえば、痛みを感じたら「痛い!」と叫ぶような反射的なものでさえ、社会によってつくられたものに他ならない。(アメリカ人は「ouch!」と叫ぶだろうから。) 人が死んだら埋葬する社会があり、木につるし上げて鳥に食わせる社会がある。どちらも死者に対する感情は同じなのに、とる行動は違う。 風邪をひいたわが子を水に放り込んで熱を冷まそうとする社会があれば、毛布でくるんで暖めようとする社会もある。どちらも、自分の子供に対する感情は同じなのに、全く正反対なことをする。 そんなふうに、常識だと思っていることが、別の社会、たとえば日本社会とアメリカ社会、細かいところでは若者社会と高齢者社会、大きくすればアジア圏と西欧圏では大きく異なる。さらに、所属する集団…仲間うちごとにルールが違っているところだってある。 社会心理学の世界では、おおざっぱに「アジアと西洋」と分けることが多かったように思う。文化心理学というやつか。もちろん国ごとの研究もあった。例えば、中国と日本の、同じ年代の学生で興味を示すもの、自己感、自尊心などはどう違うのか? と、いったものだ。 もちろん、あまり細かい文化圏に分けてしまっては研究が成り立たないから、便宜上、この研究では、アジア社会と西洋社会に分ける、この研究では日本と中国に分ける、この研究はもっと細かく関西と関東に分ける…と、いうふうに、分類はその時ごとに違うのだろう。 しかし、結局のところ、それが何? というのが分からない。 社会心理学はそもそも何がしたいのか。 心理学は、行動の学問である。 人が何を思うのかは分からない。見えないし、証明のしようもない。形を与えられない。だが、思ったことによって、外に出てくる行動は見えるし、証明することが出来る。 心の中身は同じでも、その人の属する社会によって、行動としての現われかたが違う。だから、心理学は、その人個人を見るだけではなく、背後にある、社会全体を見なければならない。 だが、すべての社会を理解することなど、まず不可能だ。所属する集団によって違いが出るとしても、どの所属集団が違いをもたらすかは、調べてみないと分からない。膨大な量の調査が必要になる。 そもそも、数限りない異なるそれぞれの社会について、それぞれに異なるルールを考え出すことにどれほど意味があるのだろう。所属集団ごとに人間の行動原則が変わるのだったら、共通した法則など導き出せないではないか。分けた集団ごとの差違を見つけて、それが…うん、どう他の研究に繋がっていくのだろうか。 しかも、前提となる社会は変化していくものである。 50年前の社会と今の社会は大きくことなる。だから、その社会を背景とした人の行動も変わってきている。変化の速度を上げていく社会に、心理学はちゃんとついていけるのか? ついていけたとして、コロコロ変わる法則を追い求めることに、意味はあるのか? 社会の差違、というものは、思っている以上に深刻だ。たとえば、背景にある文化圏が違えば、私たちには見えるものが、異なる社会の人間には見えないこともある、という。 有名なもので、ミューラー・リヤーの錯視図、というものがある。下の図のようなものだ、どこかで見たことがあるだろう。 この矢印は、上も下も同じ長さなのだが、両端に短い棒をつけることによって、下のほうが長く見えている。これような目の錯覚を「錯視」という。 しかし、日本人にも欧米人にも見える、この錯覚が、アフリカ人には見えない。 もちろん全ての部族に試したわけではないから、「アフリカ人すべて」という意味ではないだろうが、一般常識、人類普遍のような思われていた視覚のメカニズムさえ、属する社会によって異なっている。 視覚は、目から入った光情報を脳が処理して意味を与える機能である。この機能のどこかに決定的な違いがあるのなら、見える世界は異なるだろう。物理的には同じ世界に属しているはずなのに、私たちと、錯視図にひっかからない人々とは、異なった法則の中に生きていることになる。 人類みな同じ…などという言葉は、嘘になってしまう。 差別に繋がる発想だ、などという批判を受けそうだが、実際に差があるのだから仕方が無い。欧米人とアフリカ人の間に差があるのではない。日本人と欧米人の間にも差がある。そして、同じ日本人の中でも、関東と関西、若者と高齢者、男性と女性…ありとあらゆる要素が、認知の差異を生み出す要因とになっている。 さらに言えば、自分と全く同じ世界を見ている人間など、厳密には存在しないことにならないか。 結局、社会心理学がやっていることは、閉ざされた狭い社会の中で理屈をこねくり回しているだけではないのだろうか。「草原で干草を食む」と言われた哲学者と同じように、実用的ではない机上の空論ばかりごちゃごちゃと小難しく述べているだけではないのか。自己満足になっていないか。 じゃあ、どうすればいいのか。 そもそも心理学というのは、一体何を前提とすればいいのか? 「社会心理学」は、あまりに特化しすぎて、その表現方法では捕らえきれない側面が大きくなりすぎたような気がする。学問分野を細分化しすぎて、特殊な状況しか論じられなくなっているのかもしれない。 研究する者は、単なる技術屋ではなくて、与えられた方法を疑いもせず研究するのではなくて、何か、もっと大きな前提となるものを忘れてはいけない気がする。自分の目に見えていることだけが真実ではないのだと、常に疑えと警告されているように思う。 扱う社会が変わっていくように、社会心理学のありかたもまた、変わらなくてはならないのかもしれない。 |
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