07/02(改) | |||||
―いじめは、なぜ無くならないのか |
|||||
いじめは、なぜ無くならないのか。
簡単に言ってしまうと、個性が重要だと叫びながら、個性のあらわれでもある「差」を忌み嫌った結果ではないかと思う。 昔のいじめと、現在のいじめは異なるものだと某先生(ウチの出身大学の元助教授なので前は伏せる)の心理学研究にあった。 昔はいじめも簡単だった。背が極端に低いとか、家が貧しいとか、太っているとか、そういう明確な理由でいじめが起きていた。しかし最近のいじめは、理由が無いままにいじめられている場合が多いという。 どうしてか、というと、”いじめるための理由”、つまり、その人が自分と違っている部分というのが、存在しないからだ。 何か違っていることがあると、それが原因でいじめにならならようにと、ただひたすら「差異をなくす」ことに努力をつくしている親や教師は、いないだろうか? 無くせない差異の場合は、それに意味を持たせないように教え込んでいないだろうか? 世の中は皆平等、自分と他人の差違はない、自分も他人もすべてが「たった一つの花」…と、いうことになると、自分と他人との間に違いが無くなってしまわないか。 違いを出そうにも、それが出来ない環境が整ってしまっている。それじゃ、理由もなく目に付いたものをいじめて、差異を作り出して、自分を特別な存在にするしかない。 悲しいことだが、これが現実である。 昔は差異からいじめが発生したものを、今は、あまりにも差異がなくなりすぎて、「いじめ」ることによって、差異を生み出している。これでは、いじめている本人たちも、なぜ自分たちがいじめをしているのか、意識していないだろう。 恐ろしいことに、この「理由なきいじめ」は、誰が対象でもいいのだ。基本的に自分とは違っていない相手をいじめるのだから、「なんとなくムカつくから」という理由だけで、いじめの対象になる。ほとんど持ちまわり制でイジメられる相手を決めている。「シカトする」「物を隠す」等、えらく幼稚な…、と、いうか、一種のゲームみたいないじめが多いのは、そのためだ。いじめるほうにとってはゲームであっても、中高生くらいの子供にとっては、それはかなり辛いものなのではないだろうか。 ゲームなのだから一定期間が過ぎれば別の誰かにいじめられる役が回っていくのだろうが、時々、ひとりが集中して長い期間いじめられ続けることもある。そうしたときに、自殺などという悲しい事件が起こるのだ。 では、どうしたらいいのか? この、新しいタイプのいじめをなくすには、大量の「差異」をつくりだすとよい。 差異がないことがいじめの原因なのだから、差異をつくればいいのである。 それも、ひとつふたつでは、また昔のタイプのいじめに繋がってしまうから、できるだけ大量に、どれを基準にして人を判断すればいいのか迷うほどに大量の差異を発生させればいい。 すると、理由なきいじめは無くなる。 ついでに、子供たちも、自分と他者とが全く同じ存在だなどと思わなくなるだろう。 「順序がつくのはかわいそうだから、運動会での徒競走はやめよう」…などという、下らない慣習が始まってから、どのくらいたつだろう。 人には足の速い遅いは、必ずある。算数が出来るとか、国語が出来るとか、そういう能力の違いもある。差があって当たり前だ。なのに、どうしてその現実を隠そうとするのだろう? 現実を歪めて、目をそらして、立ち向かうことを知らないまま大きくなった子供が、本当の意味で平等な人間になれるんだろうか? そんなふうに、都合のいい現実ばかりを作り出そうとするのでは、大人は嘘つきだ、と言われても仕方が無い。 大人にとって都合のよい世界。子供たちは、悪しきファンタジーの世界に住まわされている。 隣の席の子は色が黒いけど、それは違いにはならない。だから自分と一緒だ。 うしろの子はお父さんがいない。でも、それはかわいそうなので言ってはいけないらしい。 先生が言う、「あなただって、足が遅いことを言われたらいやでしょう? だから他の人の違っているところを悪く言ってはいけません。」 …そんなんで安心されても困る。足が遅い、そんなのいいじゃないか。足が遅いという現実に直面するからこそ、悩んで、考えてみて、その代わり自分には違ったいいところがあるんだ! と、気が付くんじゃないのか。 自分の得意なもの、不得意なものを知り、自分の可能性を引き出していくには、他人と競い合うこと、ぶつかりあうこと、時には挫折することが必要だ。私はそう思う。いつも自分がそうだったからだ。 いじめをなくそうとして、大人たちは、子供のいちばんいいところを奪い取ってしまった。 それじゃ、いじめはなくならない。 競い合いながらも助け合える、そんな環境が、いま一番必要とされているんじゃないだろうか。 |
|||||
―戻る― | |||||